#5 彼女は行方を見失う
銀色に輝くモールトンは超高速で通りを疾走する。
小径タイヤのイギリス製ロードレーサーは、未知香から譲り受けた祖父の形見で明日香の宝物、そして彼女の持つ唯一の高速移動手段でもあった。車体各部に手を入れ脚力も鍛え上げた結果、最高速も時速四十キロを超える。
頻繁に渋滞が発生するいまの時間であれば、市内の移動は自転車がなによりも速く効率的なことを彼女は経験から知っていた。
西前田一丁目までは、飛ばせば十分ほどで到着できる。時計を見ると、電話が切れてから三分半。彼女はさらに加速する。
――〝容疑者〟が待ってるとしても、五分くらいが限度だろうな。
もちろん、ふつうに考えれば〝脅迫電話をかけた犯人〟がその場所に残る可能性は低い。しかし明日香の直感では、美由紀はこちらの動きを〝誘って〟いた。
誰かが来るのを――あるいは、誰が来るのかを――確認したいと思っているのであれば、捕捉できる可能性もゼロではない。
最短ルートである遥野街道は、住宅地を迂回して大きくカーブを描いている。住宅地の奧、遥か彼方に西前田の繁華街が覗いていた。
「ショートカットで突っ切っていけば、二分は短縮できる……はず!」
自転車を住宅地に乗り入れ、階段脇のスロープを一気に駆け下りた。
降り切ったところで緩いコーナー。加速しながらそこを抜けると、いきなり目の前に二重の車止めが現れた。
「おい冗談だろ……ッ?」
フルブレーキでも間に合わない。突っ込む寸前で停止を諦め、車体を真横に向けて勢いを溜める。片足を車止めに置き、空中で半回転して自転車ごと飛び越えた。
「ッ……ひょお~ッ!」
着地の衝撃をサスペンションが受ける。それでも前後の車輪が軋み、細い桁組フレームまでもが悲鳴を上げた。
「あぁあ、大事なフレームが……くそッ、あんなの先週まで無かったじゃないかッ!」
明日香は怒りにまかせてペダルを踏み続ける。住宅街を抜けて直線を疾走、突き当たりの急坂を一気に上る。そこで遥野街道に再合流すると、目的地までは三十秒の距離だった。
西前田一丁目の交差点に到着したとき、マンションを出てから十分が経過していた。電話が切れてから六分半。見渡す限り、〝背の高い美人〟は見当たらない。それどころか……
「これは……盲点だったな」
汗だくで息を切らした明日香を、通行人がジロジロと眺める。
地方都市とはいえ繁華街の中心で、垢抜けない制服に自転車の女子中学生というのは、明らかに浮いていた。このままでは発見する可能性よりもむしろ発見される確率の方が高い。
通りを流して周辺を見て回るが、写真に似た人物はいなかった。時間が経過し、発見の可能性はさらに下がってゆく。
携帯が鳴った。通りを見渡したまま、電話に出る。未知香からだった。
『ね、いまどこ?』
「西前田一丁目。それらしいのは、いないな」
『やっぱり追いかけてっちゃったのね。電話した後に移動したんじゃない?』
「待ってるんじゃないかと思ったんだよ。誰かが出て来るのをさ」
『なるほどね。で、そっちの道路状況はどうなってる?』
繁華街を貫く県道は、午後になると車両通行止めが行われていた。そこと交差する道路や周辺の抜け道も混雑が予想され、車での移動は制約が多い。
「軒並み渋滞中だ」
『いつも通りね。ということは、西前田からまともに移動しようとすると、使えるのは東西に抜ける遥野街道だけ』
街道を西に行くと、武生の住むマンションに向かうことになる。
「……だとしたら、行き先は東?」
『ううん。だから明日香の言ってたように、電話した後には〝誰かが出て来るのを待つ〟と思ったんだけど……ここで』
思わず脱力した明日香は、携帯に向かって叫ぶ。
「そこで待ってるだけで良かったのか? それを早く言えよ!」
『もちろん、確信はないわよ。だいたい、なにか言う前に勝手に出てっちゃったんじゃないの』
とはいえ、いまのところ未知香たちのいるマンション周辺にそれらしい人物は現れていないらしい。
『ちょうどいいわ。そっちは一応、街道の東側を確認してみて』
生返事で携帯を切った明日香は、ワンブロックほど流して追跡を切り上げた。街道を走るすべての車をいちいち調べて回るわけにはいかない。
元々、西前田の繁華街で捕捉できなかった時点で無理だとは思っていたのだ。
遥野街道を北側に折れ、スピードを上げる。日が落ちるより前に、なんらかの成果が欲しい。明日香は、久保田理恵子が住んでいたという住所に向かった。
メモしておいた住所には、寂れた木造アパートが建っていた。砂利敷きの駐車場でフェンスに自転車をつなぎ、狭い階段を上がる。
二階の外廊下を進むと、理恵子が住んでいた部屋はすぐに見付かった。薄っぺらいドアに、薄汚れた空っぽの表札。
ドアを叩いたが、室内から反応はなかった。ドア脇に設置された電気メーターを見ても、動いてはいない。
「いないか。……いるわけ、ないんだよな」
見渡すと、二階に住んでいる住人自体がほとんどいないようだった。電気メーターを順に見て回る。
――全滅じゃないか。
理恵子本人はもちろん、話を聞ける相手までいないということだ。
帰ろうとした明日香は、足元の消化器を蹴り飛ばす。転がった消化器はスチール製の床に当たってけたたましい音を立て、階下から中年女が不機嫌そうな声を上げた。
「うるさいわね、なんなの……誰? 警察呼ぶわよ!」
明日香は階段を降り、女に身分証明書を示す。
「失礼、市役所の者です。ここの住人のかた?」
「なに? 管理人よ。だから、市役所がいったいなんの用なの?」
「よかった、久保田理恵子さんはこちらに……」
「いないわ。どこに行ったかも知らない。家賃踏み倒して逃げたんだもの」
「では、なにか手掛かりになるようなものはありませんでしたか? 急いでいるんです、このままだと子供が死んじゃうかも知れない。お願いします、協力してください」
女は、明日香の勢いに気圧される。渋い顔をしつつも、なにかを考え込んでいる様子だった。
「子供……って、誰の子供よ?」
「それについても、お訊きしたいことがあるんです。少し時間をいただけますか」
アパートを出たところで、携帯が鳴る。画面を見ると、予想通り未知香からだ。
『明日香、いまどこにいるの』
「錦町。そっちは?」
未知香と君塚は、公用バンで帰庁するところだった。
結局、いくら待ってもマンション近くに容疑者らしき人物は現れず、金策に出た武生からも連絡はなかったのだ。
『ねえ、錦町って、まさか久保田理恵子のマンション? そこには電話したけど、もういないって言われたわよ』
「それは聞いた。どう思う?」
『わからないわね。家賃滞納のまま消えたんでしょ? 実家にでも戻ったんじゃないかな』
「それはないな。久保田理恵子はずいぶん前に勘当されてる。いま両親はもう亡くなってて、実家にはお墓しかないらしい」
『じゃあ、武生さんの言ってたあの恋人といっしょに……』
「ここに住んでいた数年間、男の出入りはなかったそうだ」
携帯の向こうから、未知香が苦笑する声が伝わる。
『あのオバさんから、そこまで話を聞き出したの? すごいわね、わたしが電話したときにはとりつく島もなかったのに』
「話を聞いて、理恵子の部屋にあった私物を見せてもらった。お菓子もくれたよ」
管理人がまとめた段ボール箱を開けてみたが、なかを掘り返してもほとんどが衣服で手掛かりになりそうなものは見当たらなかった。あとは書籍や雑誌、使いかけの生活用品や化粧品。住所や連絡先を書いたものはない。いまどきは携帯に入れるのだろう。
「それとな、たぶんここに美由紀が来てる」
『え?』
「理恵子が姿を消す少し前、若い女が彼女を訪ねてる。細身で長身の美人。写真じゃ決め手にならなかったけど、印象が似てはいるそうだ」
今回の誘拐事件に、理恵子が関与している可能性もある。というより……
『もしかして、派手に動いてる方が囮?』
未知香も同じ事を考えたらしい。だが、そう考えるには不可解な点が多すぎた。
「理恵子が主犯? わたしも最初はそう思ったんだけどな。仮にそうだとして、動機はなんだ。怨恨? でも、交際してたのはずいぶん前だし、振ったのも理恵子の方だって言ってたよな。じゃあ、金銭か? 武生は会ってみると特に金持ちじゃなさそうだし、要求額も五百万だろ。それに、金が欲しいだけなら〝警察に言うな〟ってのがふつうだよな」
理由はともかく、理恵子が単に武生を脅迫したいのであれば、美由紀を通すなどという回りくどいことをせず、それこそ離婚を盾にして慰謝料名目という方が遥かに話が早い。
「だいいち、美由紀が理恵子の言いなりになって犯罪行為を行う理由はあるのかな」
『さあ』
実際、わからないことだらけだった。
自転車に乗った明日香は電話を切ろうとする。未知香が慌ててそれを止めた。
「なんだよ。まだなんかあるのか」
『うん……あのさ、春奈ちゃんのことなんだけど。どうだった?』
明日香は、病院での息苦しい空気を思い出す。姉への怒りと混じり合う、自己嫌悪のような苛立ち。
「どうもこうもない。会ってるときに呼び出されたからな。話の途中だったんで、明日も顔を出すと言っておいた」
『ありがとう、助かるわ。きっと彼女も喜んでくれると思う。あんまり……気持ちを素直に表現できない子だけど』
「いいよ、そんなのはお互いさまだ」
なんだかくすぐったい気分になり、明日香は姉の言葉を遮る。
わざわざ礼を言われるとは思っていなかった。声の不自然な明るさも、彼女の居心地を悪くする。
『でも、ホントは素直な良い子なのよ』
「そうかもな。それより、そっちはなにかわかったのか?」
電話の向こうで未知香が苦笑した。今度は自然な反応だった。
『残念ながら、全然。係長と話したんだけど、いっぺん山下さんの意見を聞いてみた方がいいかと思って。明日は、署の方に行ってみるわ』