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#3 彼女は事件を知らされる

「誘拐?」


 市役所の薄暗い廊下を、明日香は足早に進んでゆく。前を歩くのは、くたびれたグレーの背広を着た中年男。SASの係長、君塚真吉は背広と同じくらい冴えない笑みを浮かべた。

 三十四歳という年齢よりも遥かに老けて見えるのは、早くも後退し始めた額と丸められたままの背中、そして始終貼り付けられたままの気弱な笑みのせいだ。


「まあ、ね」


「でも、それってどう考えても警察の仕事ではないですか?」


「それがさ、なかなか面倒なんだよね」


 SAS係が設立されて四半世紀を経た現在、大気汚染そのものは殆ど解決されたが、〝街の空気を良くする〟という役割はその後も継続されていた。市政で直接拾い上げられないトラブルの調整役として、取り扱いの微妙な案件が広く持ち込まれる。


「ま、面倒だからウチに来たんでしょうけどね。未知香はどこです?」


「県警の山下さんに話を聞きに行ってる。もう戻るだろう」


 廊下の突き当たりで左に折れ、二人は階段下の殺風景なドアを開ける。

 扉に〝SAS係〟というプレートが貼られてはいるが、どう見ても元は書類倉庫である。実際、窓もない部屋のなかはスチール製のラックで埋まり、古びたファイルが雑然と並んでいる。奧に机がふたつと電話がひとつ。


「……奥さんなんだよね、〝犯人〟」


 君塚がこぼしたため息混じりの言葉に、明日香は思わず振り返る。


「え?」


「今回の〝容疑者〟は、被害者の内縁の妻なんだ。国見美由紀、二十八歳。一歳になる子供を、まあ……〝誘拐〟して、亭主を脅迫してる」


「なんでそれが誘拐になるんですか」


「当の〝容疑者〟本人が誘拐だって主張しているんだからしょうがない。第一、通報してきたのも彼女自身なんだ」


 明日香は渡されたファックス書類に目を通し、首を傾げた。

 〝容疑者〟から送られてきた物だというが、宛先は被害者宅ではなく遥野警察になっている。


「脅迫状」


「……のつもり、なんだろうな。そう書いてあるもんなあ」


 子供と引き替えに金を用意しろというのは、確かに脅迫には違いない。

 だが――明日香も何度か脅迫事件に関わった経験はあるが――冒頭に〝脅迫状〟と墨書されたそれは初めて見る。


「もう少し書きようもあるだろうにねえ」


「それに、これゼロがいくつか足りないような……?」


 明日香は書面に書かれていた要求額を指し、首を傾げる。

 要求金額は、五百万。誘拐だ脅迫だと言うわりには、あまりに中途半端でどうにも据わりが悪い。


「単に別れ話の慰謝料でも請求したいだけじゃないですか? きっと、こんなのは痴話喧嘩の尻拭いにしか……」


「入籍していないんだ。だから正式には夫婦じゃない。自宅で産んだらしいから、彼女の主張を裏付ける出生記録もない。それに、彼女は外国籍だっていうし、彼女がどういう立場の人間なのか、どういう罪になるのか。親権が誰にあるのかも含めて、現時点では判断できないんだよ」


「それはまた……」


「盛り沢山だろ? もうひとつわからないのは、旦那の方はそもそも夫婦間でトラブルなんて無かったって言うんだよ。つい数日前まで仲良く暮らしていたって」


「狂言の可能性は?」


「それは、旦那の? それとも、カミさんの?」


 明日香は肩をすくめる。聞いただけでは、どちらも怪しい。


「ぼくも考えてはみたんだけどね。妻にしても夫にしてもさ、ソレって意味ないんじゃないかなあ」


 確かに、狂言を行う意味もメリットもない。が、それでもどこかに違和感があった。やっていることは冗談のようだが、それにしては用意が周到過ぎる。


「わざわざ脅迫状を警察に送っているってことは、つまり警察の介入を望んでいるという意味ですよね?」


「この〝内縁の妻〟に関しては、そうだね」


「亭主は?」


「事件にすることを頑なに拒んでいる。被害届けを出すどころか、被害そのものを認めていない。単なる行き過ぎた痴話喧嘩だってね。それで……弱り果てた山下さんが、ウチにこの件を持ち込んだと。まあ、そういう流れだ」


 二人は顔を合わせて悩むが、いくら唸ったところで現時点で答えが出るはずもない。


 廊下をパタパタと駆けてくる足音が聞こえた。すぐにドアが開き、興奮気味の未知香が顔を出す。


「話、聞いてきたよ。ホラこれ新着」


 言いながら用紙をデスクに置き、君塚と明日香にそれを見せる。

 外国籍を示すパスポートのコピーだった。果物とマリンリゾートで人気のある、東南アジアの小国。ビザは〝観光〟で、滞在期限は超過している。


「昼前に、これを送り付けてきたんだって」


「ご丁寧にまあ」


 君塚が呆れた声でつぶやく。写真には細面の美人が写っていた。


「顔は、日本人にしか見えないな」


「元は日本人よ。二重国籍だったらしいわ」


「……なんだ、それ?」


 明日香の問いに、姉はふふんと胸を反らした。


「出生地主義って言うんだけど、〝自国内で生まれた者には誰であれ国籍を与える〟って国もあるの。だから、日本人でも帰国子女なんかが二重国籍になったりする。日本の場合そのままの状態を認めないんで、成人するまでにどちらかを選択するんだけどね」


「未知香、偉そうに言うけど……それ知ってたのか?」


「まさか。調べたに決まってるでしょ」


 明日香は書類を放り出し、不満げに鼻を鳴らす。先ほどのは〝そんなことも知らないのか〟という顔ではなく、〝よくぞ聞いてくれました〟という意味だったらしい。


「なるほどね……それで、彼女は日本ではなくこの国を選んだのか」


 君塚は納得したようだが、明日香は状況が上手くつかめない。指先でグリグリとこめかみを押さえた。


「ちょ……ちょっと待て。ということはつまり、結果としてはやっぱり彼女は単に不法滞在中の外国人……ってことだよな?」


「まあ、少なくとも法律上は、そういうことになるんじゃないかな」


 むしろ、国見美由紀は自らそれを〝証明〟したかったらしい。自分が外国籍であることも、滞在ビザが切れていることも。だが、その目的がわからなかった。

 未知香はパスポートの国名を指す。


「こちらの国では、父親の国籍を子供が継ぐ〝父系血統主義〟だって。日本は父母両系だから子供はたぶん日本国籍になると思うけど……親権については、まだ不明」


「なんで?」


 明日香の問いに、未知香はもう一枚の用紙を示す。


「これ。これが引っかかってるの」


 警察が行った、簡単な聞き取り調査の結果だった。〝容疑者〟である国見美由紀と、〝被害者〟になる夫、武生隆一のプロフィールが記載されている。

 覗き込んだ全員が、小さくため息をついた。


「確かに、面倒な話だな」


 君塚の言葉に、明日香が憮然とした表情でつぶやく。


「……それに、馬鹿げてるよ」

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