#2 彼女は少女と対峙する
眠そうな顔の新聞配達と入れ替わりに、明日香はマンションのエントランスを出た。
作業服は煤と埃でまだらになり、髪も襟元もクシャクシャに乱れている。彼女は無表情のまま降下装備を壁に叩き付け、背負っていたヘルメットのレシーバーを口元に持ち上げた。
「明日香ぁ~ッ、おつかれッ♪」
マンションの前で、制服姿の未知香が手を振る。百七十近い長身に大人びた美貌、明るく強い光を湛えた瞳。間近で姉の声を聞き、その開けひろげの笑顔を前にして……明日香はわずかにとまどった表情になる。
「車で……帰るんじゃなかったのか」
未知香は投げ捨てられた装備を拾い、自分のダッフルバッグにしまい込んだ。
「そう思ったんだけどね。係長は〝籠城息子〟の相手でしばらく戻れないでしょ。……ほら、顔拭いて」
明日香は受け取ったウェットタオルで顔と首筋を拭い、温かく清潔な感触に少しだけマシな気分になる。
いまから学校に行くには、帰宅する時間など無かった。作業服を脱ぎ捨てると、なかからセーラー服が現れる。靴だけは降下時に履いていたブーツのままだが、それはいつものことだ。
未知香が後ろからスカートの皺を伸ばし、ディパックを手渡す。
「待ってなくていい、って言ったのに」
本気ではなかった。未知香がいなければ、もっと惨めな気分だっただろう。それを認めたくなくて、明日香は姉を振り切るように歩き出す。
「まあまあ。どうしたの、珍しくお疲れみたいね。楽勝だったでしょ?」
長身の未知香は特に急ぐでもなく、あっさりと明日香に追いついた。作業服とヘルメットをテキパキと片付け、ポケットから櫛と寝癖直しのスプレーを取り出す。妹の乱れた髪を、歩きながら器用に整えた。
ようやく本来の女子中学生らしい姿になった彼女は、前を向いたままピタリと足を止める。
「……最低の気分だ」
「そんなの、最初からわかってたじゃない。ヒキコモリ少年の籠城ぶりにはさすがに手を焼いた?」
「十八歳だよ、少年なんかじゃない。……それにな」
向き直った明日香は、姉の手にタオルを押し付けた。
「ホントに最低なのは、あいつ本人じゃない、親のことだ。引き籠もりだなんだって、間にあるのは安普請のドア一枚じゃないか。なんの対処も話し合いもせず何年も放置しておいて、今頃になって引きずり出せなんて……」
「へえ……それで、感謝された? まさかね。泣かれたか、怒られたか、恨まれたか、笑われたか」
「いや、心配された」
「あら意外。で、それが不満?」
「ああ。暴れるわ泣き喚くわ罵るわ唾は吐き散らすわって、あの獣みたいな奴をようやく引っぱり出して、開口一番〝惇ちゃんにケガはないんでしょうね〟って言われてみろ」
未知香は屈託無く笑いながら携帯電話を取り出す。
「〝心配された〟って、そういう意味ね。まぁ、そりゃヘコむわよね……あ、係長? こちら朝比奈。0715、業務終了しました。市民も職員もケガなし事故なしトラブルなし。後の〝搬出〟はお任せしますね。以上ッ!」
言うだけ言って電話を切ると、それをポケットに放り込んだ。
「気にしない気にしない……ね?」
明日香の肩に腕を回し、グイッと引き寄せる。よく似た二人だが、背丈は未知香の方が頭ひとつ高い。柔らかな胸元に押さえ付けられ、明日香は呻き声を漏らす。ふんわりと甘い匂いに、薄い胸がキュンと痛んだ。
「一般市民なんてそんなもんよ」
「おい未知香、く、苦し……」
「困ったときだけ頼ってきて、問題が済んだら文句を言う。公務員は自分たちの思う通り奉仕して当然だと思ってる」
明日香の髪をくしゃくしゃに丸め、笑い飛ばすように言った。
「……まして、わたしたちは〝特殊部隊〟だしね」
遥野市役所・経済環境部・生活環境課・大気環境グループ・SAS係。人呼んで、遥野市役所特殊部隊。
スペシャル・エア・サービスの名の通り、本来は大気環境の保全と調査、改善を目的とした部署だ。工場中心の町作りをしてきた遥野町から〝観光で成り立つ自然豊かな市〟を目指そうと、半世紀近くも前に初代遥野市長・朝比奈鋼重郎により設置された。
……表向きは。
「街の〝空気〟を良くする、か。お祖父さんは立派な人だったんだな。……でも」
「うん?」
「理想論だよ、それは」
憮然とした明日香の言葉に、未知香はあっさりとうなずく。
「そうよ。わたしは、その理想論が好きだからここにいる。明日香は違うの?」
真正面から肯定され、明日香は言葉につまる。自分について答えるのは苦手だった。その理由がなんなのか、自分でもわからない。
「あ、そうだ。これは業務とは別なんだけど。……いや、一緒かな」
「なんだ、それ?」
「とにかく、今日の放課後に行って欲しいところがあるのよ」
「装備は」
「花」
「……ハナ?」
「そう、お見舞いなの。胸の病気で小さい頃から入院してる女の子。遥野総合病院の小児病棟404、佐伯春奈。覚えた?」
明日香は急に紅潮した顔を上げ、未知香の顔を睨み付ける。
「これは……仕事か」
「そうね。発症したのは遥野工業地帯の汚染が原因とされているの。直接じゃないけど、少なくとも遠因。示談も補償も終わってるんだけどね」
「そういう問題じゃ……」
「そうよ。そういう問題じゃない。だからお願いしているの。よろしくね」
未知香は苦笑すると、あっさりと妹を置き去りにする。残された明日香は唇を噛み締め、重い足取りで姉の後を追う。
病院は嫌いだった。見舞いも、病気の女の子も。だが、行かないわけにはいかないのだ。
胸にわだかまる理不尽な苛立ちを、明日香は持て余していた。
遥野総合病院は、市内の中心部から一キロほど外れたところにある。市内に大学病院を持たない遥野では、ここが最大の病院だった。
明日香は真っ直ぐ前だけを見据えたまま、行進するような歩調でそのロビーを抜ける。看護士や見舞客が怪訝そうにその姿を振り返った。
エスカレーターで吹き抜けを二階へ上がり、病室へ通じるエレベーターを待つ。奧へ進むごとに消毒液の匂いが強まり、彼女は少しだけ眉をしかめた。いつまでたっても、こればかりは慣れることができない。
指定された病室にたどり着くと、開いたままのドアを静かに叩いた。
「はい?」
即座に返事があり、患者の母親らしい女性が廊下に顔を出した。穏やかだがどこか疲れの見える弱々しい笑みは、長期入院患者の家族に特有のものだ。
その表情が、明日香を前にして一瞬強張る。
「あの……?」
「朝比奈明日香と申します。本日は未知香の代理で伺いました」
母親はそれを聞くと、あからさまにホッとした顔になる。
「春奈、朝日奈さんがいらしたわよ」
――ま、無理もないか。
窓に映った自分の姿を見て、明日香は心のなかで嗤う。
学校帰りの制服は、黒いコートで隠れている。短髪で思いつめた顔の少女が、巨大なヒマワリの束を背負っているのだ。肩に担いだそれは明日香の身体と同じくらい大きく、長い。彼女が手にすると、なにか奇妙な秘密兵器のように見えた。
「ねえ、ヒナっち~ッ?」
嬉しそうな声とともに奥から少女が出てきたが、明日香を見ると母親と同じように固まった。ショットガンでも振り回すように手元で回転させ、明日香はヒマワリを差し出す。
「……」
少女は身構えたままで、受け取ろうとはしない。奇妙な沈黙の後、少女が吐き捨てるように言った。
「なに? ……なんかのいやがらせ? だいたい、あんた誰」
「春奈、失礼な言い方はやめなさい。こちらは……」
「朝比奈明日香。未知香の……妹だ」
「妹? ヒナっち、妹いたんだ。で、その妹がなんの用?」
「見舞いに、きた」
春奈は鼻で嗤い、差し出されたままのヒマワリの束を薄気味悪そうに見つめる。納める先を見失った明日香は部屋の片隅にそれを立てかけた。
「明日香さん、でしたっけ。座ってください、いまお茶入れますから」
「お構いなく」
椅子を勧める母親に答えながら、明日香は早くも訪れたことを後悔していた。
この少女とはお互い面識もなく、お互い愛想もなく、共通項も共有できる話題も、そもそも会いに来る理由すらないのだ。
「……未知香とは、病院で会ったのか?」
唐突に話しかけた声に、少女は窓の外を眺めたまま返事をしない。娘に代わって、母親がうなずいた。明日香にお茶を差し出し、自分も座る。
「そうなんです。もう二年……三年くらい前になるかしらね。未知香ちゃん、こちらの病院に入院してるご親戚のお見舞いに来てたの。春奈と廊下でお話しして仲良くなったんですって。それから、自分のご用のついでだって、ずっと欠かさず来てくれてるの」
「……頼んだわけじゃないわ」
「春奈、失礼でしょ」
「そうか、あいつ……その頃から来てたんだ」
受け取った湯飲みを見下ろしながら、明日香は意外そうに言った。
「そのご親戚、ずいぶん長くこちらに入院されてたみたいだけど、たしか転院されたとか。ご存じ?」
「……ええ。知っています」
「それで、その……」
続けようとした母親に、入ってきた看護婦が声をかける。
「お母様、担当医の方からお話がありますので」
「あら。すみません、明日香さん……少しお願いできます?」
一瞬、春奈は母親に縋るような視線を向けた。明日香の相手をしてくれる人間が、席を外すのは不安なのだ。
この意地っ張りな少女を困らせてやりたいという気持ちになり、そんな自分を少し嫌いになる。
「どうぞ。わたしはここにいます」
「それじゃ、すみません。すぐ戻りますから」
パタパタとスリッパを鳴らして母親が立ち去ると、予想通りの気まずい沈黙が続いた。
春奈も落ち着かないだろうが、明日香自身も重い空気を持て余した。元々、会話が得意な性格ではない。
会話のきっかけもつかめないまま、ベッドに転がった少女の横顔を眺めた。細く端正な顔立ちと、つやつやした髪。しかめられた眉の神経質さが消えれば、きっと可愛らしいのだろうなと思う。
「ねえ……」
そっぽを向いたままの春奈が顎を上げ、ふて腐れたような声で言った。
「……なんなの、これ。なにかのおまじないのつもり?」
傍らのヒマワリを指しているのだと気付く。最初の〝いやがらせ〟という言葉は、少しだけ気をつかったものに変わっていた。
巨大な頭部を傾け壁に寄りかかったヒマワリの束。それは確かに、どこか呪術に使う依り代のようにも見えた。
話しかける糸口には違いないが、なんと言っていいものやら明日香はしばし悩む。
「花を……」
答えが返ってくるとは思っていなかったのだろう。ボソッと発せられた言葉に、春奈は驚いて顔を上げた。
「え?」
「見舞いには花を、持ってくるものなのかと思ったんだ。しかし、どんな花が良いのかはよくわからなかった。……だから、一番大きいものを」
春奈は呆れたように宙を見上げ、そのままベッドに倒れ込む。
「一番大きいもの……って、それでヒマワリ?」
仏頂面を保とうとするが、我慢できずプッと吹き出す。顔を背けて肩を震わせていた春奈は、ついに大笑いし始める。
「そんなにおかしかったか?」
「おかしいよ。そんな、お見舞いの花を勝ち負けみたいに選ぶかな。信じられない」
「なんでだ? ヒマワリはいいぞ、大きくて長閑で綺麗で丈夫で、太陽みたいな匂いがするんだ。……それに、種は食べられるしな」
「なにそれ」
春奈の声が少しだけ陰った。
一瞬、なにが問題なのか理解できなかった明日香は、〝丈夫〟という言葉が入院患者にとって不快な表現であることに気付く。弱い本人への批判と受け取られることもあるのだ。
「あ、ああ……いや、すまん。こういうことには……疎くて」
振り返った春奈は、笑顔こそ押さえているが顔が紅い。何気ない素振りで、目尻に滲んだ涙を拭う。
「いいよ。ねえ、明日香……ちゃん。もしかして、自衛隊の人?」
「いや、まだ学生で、遥野市役所の臨時職員だ」
「市役所がお見舞いに来るの?」
「今日のところは、未知香の代理で来た」
「代理」
「未知香は、いまやらなければいけないことがあって、手が離せない。時間ができたら、また顔を出すと言っていた」
「……そう。ヒナっち、忙しいもんね」
「ヒナっち?」
それが姉の事を指しているのはわかるのだが、何度聞いてもそのコミカルな語感とイメージがつながらず、明日香は首を傾げる。
「そう、アサヒナ・ミチカだから、ヒナっち。同じように呼ぶとしたら、明日香ちゃんは……ヒナっす?」
「いや、ふつうに呼んでくれたらいい」
「え~、いいじゃない〝ヒナっち&ヒナっす〟って。なんか売れない芸人みたいだけど」
明日香は苦笑しつつ、少女の無邪気な言葉にとまどう。これまでの人生で、あだなを付けられたことはなかった。誰かとそこまでの関係を築けなかったから。そして、きっそういう関係を望まなかったからだ。
「それより、〝今日のところは〟って、どういうこと?」
「いや、特に意味はない。今後のことは……わたしの判断するところではないから」
「……そ、〝仕事だから〟ってことね」
自分の硬い物言いと、意味も無い建前論が少女を不快にさせている。それはわかるが、明日香はこういう状況での対処法を知らない。近い世代の少女と付き合う術も。
明日香は息苦しくなって顔を上げ、どうしたらいいかわからないまま口を開いた。
「春奈」
〝困ったら、笑え〟という姉の言葉を思い出し、明日香はぎこちない笑顔を見せる。なぜか泣きそうな自分を、どこか遠くにいるもう一人の自分が嗤う。人嫌いと話し下手を克服するためのアドバイスだったが、効果はなかったようだ。
「例えば……例えばの話だ。これから、未知香が来れないときにはわたしが見舞いに来るっていうのは、いやか?」
春奈はちらりと視線だけ振り返る。
硬直した明日香の笑顔を不思議そうに眺め、首を傾げて目を逸らした。
「わたしはどうでもいい。でも、明日香ちゃんがイヤなんじゃない?」
「春奈に会うのは……いやじゃない」
「そう? ずっと落ち着かない感じだよ。わたしに気があるのかと思った」
「え?」
キョトンとした表情の明日香に、顔を背けたままめんどくさそうに手を振る。
「冗談よ。息がつまるんでしょ、みんなそう」
「そんなことじゃない。ただ……」
「朝比奈さん、いらっしゃる?」
突然の声に振り返ると、看護士が手招きしていた。
「ああ、明日香ちゃんだったのね。電話が入ってるわよ、市役所から」
明日香は立ち上がり、キョトンとした顔の春奈に向き合う。
「すまん、ちょっと行ってくる。すぐ、戻るから」
なにもこんなときに、と眉をしかめるが、わざわざ病室に連絡して来るというのは、なにかあったのだと思い直す。
振り返ると、春奈と目が合った。婦長と知り合いなのをいぶかしがっているのだろう。
「ねえ、もしかして明日香ちゃん……」
「ああ、その話は後で……そうだ、今日は遅くなりそうだから、明日また来る。来るからな、いいか?」
春奈は少し首を傾け、窓の外を見たまま小さく鼻を鳴らす。
イエスの意味だと、判断することにした。