#1 彼女は屋上からダイブする
「……なあ、他に方法はなかったのか」
ボソッとつぶやいた声が、真っ白な霧になって流れてゆく。
高層マンションの屋上、氷のように冷え切ったコンクリートの上で、朝比奈明日香はカタカタと震えていた。夜明け前の寒さと静けさが、彼女の緊張をさらに加速させる。
『あったのかもね。でも、時間がないの』
ヘッドセットから伝わる姉の声はあまりにも明るくあまりにも優しく、あまりにも落ち着いていて、明日香には回り続ける走馬燈のBGMにしか感じられない。
「簡単に言ってくれるよ……まったく」
漆黒の作業服に包まれた、細く小さな身体。短く切り揃えられた黒髪はヘルメットの下に押し込まれ、端正な顔立ちを少年のように見せている。
明日香は強張った身体を無理に動かし、軋むフェンスを乗り越えた。硬く締まった風が、吹き付けるたび肌に痛い。
ビルの外縁に立ち、恐る恐る階下を覗き込む。
――おい、冗談だろ……。
左手にエントランスの灯り。人影はない。マンション前の駐車場に並ぶ車は、どれもマッチ箱のように見える。アスファルトまでは三十メートルほど。それは人間が最も恐怖感を覚える高さだと、聞いたことがあった。
壁面を吹き上げるビル風に裾を煽られ、足元が震える。懸命に目を逸らそうとするが、視線は眼下の闇に吸い寄せられてしまう。
『明日香、大丈夫? ……ねえ明日香、返事をして』
振り払えない呪いのように、何度も呼びかけてくる声。ようやく我に返った彼女は、そこでボソリとつぶやく。
「大丈夫……なのかな」
『係長は部屋に向かってる。到着次第、始めるわよ』
「……未知香」
携帯電話のメール着信音。時間だ。
『お待たせ、準備完了。階下も状況クリア』
「聞けよ、未知香。言い忘れていたことがある」
『まだ早いわ』
「遺言じゃない、わたしは高所恐怖症なんだ」
震える彼女の耳元に、クスッと穏やかな笑みが伝わる。
『未知の領域があるって、ステキね。……さ、降下して』
腹部に装着した降下用ハーネスに触れ、もう一度固定を確認した。ここで迷っていたところで、なにかが変わるわけではない。
覚悟を決めた明日香は大きく息を吸い、屋上から身を乗り出す。ビルの壁面を吹き抜ける風が、耳元でゴウゴウと唸り声を上げた。
路上に置かれた灰色のマッチ箱が開き、白い虫のような人影が明かりに浮かび上がる。
それは明日香を見上げたまま、ピコピコと小さく手を振った。
『はァい♪ ……ね、あんまり下は見ない方が良いわよ?』
「うるさいな、黙ってろ」
明日香はロープを引いて確保を確かめ、静かに虚空へと身体を下ろしてゆく。たったひとつの命綱はイヤな音で軋み、自分の呼吸音だけがひどく大きく聞こえた。
ロープ降下は何度もやっているのだと、自分に言い聞かせる。しかし、中層階での訓練と二十階建てマンションの屋上から降りるのはまったく訳が違っていた。
おまけに、もっとも入念にやらされたのは、なぜかロープ降下そのものではなく地上二階程度の高さからの着地訓練だった。
いま考えてみてもあれになんの意味があるのかまったく理解できない。
「……大丈夫……大丈夫だ……」
口に出して言うと、それはひどく空々しいものに聞こえた。
三十メートル下でパックリと口を開けた闇。なにか黒い物に呑み込まれそうな恐怖。怯える心を押さえようと、息を殺して降下を続ける。
『そうそう、もうちょい下。……ねえカメラあるんだけど、記念撮影しとく?』
「ふざけん……ッにゃあぁッ!」
突風に煽られ、身体がフワリと宙に浮いた。背筋が総毛立ち、胃袋が縮み上がる。明日香は必死でロープをつかみ、壁に身を寄せようと空中でもがいた。手足が硬直し、視野が狭窄してゆく。
壁面に張り付いたときには、全身から嫌な汗が噴き出していた。彼女は跳ね回る心臓を鎮めようと、浅い呼吸を何度も繰り返す。
見てはいけないと思いつつ、眼下の闇から目を離せない。
『だいじょぶ? なんかめっちゃクルクル回ってたけど』
「だ、だだだ、黙れ!」
怒鳴り付けたその声は、ヘリウムガスでも吸ったように甲高く裏返る。
恐怖を感じる前に仕事を済ませるという当初の目論見は、初っ端から完全に挫かれてしまった。
『あと五階分、落ち着いて行ってね』
明日香は思わず鼻で笑った。それができれば苦労はしない。逆に言えば――高度と恐怖感を除いて――ロープ降下そのものにはさほどの不安材料はなかった。死ぬほど繰り返してきた訓練を思い出す。晴れの日も雨の日もぶら下がりよじ登り落下させられた日々。
着地訓練だけは役に立つことはないと、あえて意識から除外した。
目標の十二階まで順調に降下し、窓際に取りついて停止する。深呼吸して息を整え、乱れたカーテンの陰から内部を覗いた。オレンジの常夜灯に照らされ、ベッドに転がる半裸の男。
「内部目視、目標確認」
『状況は』
「寝てるみたいだけど」
『ねえねえ……昨夜から家族が話しかけても反応がないみたいなんだけど、ちゃんと生きてる?』
「知らないよ、そんなこと」
ガラス切りの準備をしながら、明日香は部屋のなかを覗き込む。窓際にはパソコンラック付きの事務用デスク。ラック上はぎっしりと置かれたフィギュアが林立し、本来そこにあったはずのプリンターとPC本体はラック裏に押し込まれている。ゴチャゴチャと置かれた本や雑誌や箱やビニール袋。唯一の居住スペースであるベッドの上で、男は転がったまま身動きもしない。
『そこからなにか見える?』
見えた。明日香はそれを無線で伝える。男の手に握られた細長いなにか。シーツに広がる黒い染み。足元に転がった錠剤の小瓶。飛び交う小虫と、枕元の紙片。
「未知香、ひょっとしてあいつ……」
言い終えるより早く、未知香の声が命令口調に変わった。
『……強行突入、窓を破って!』
「え? 待てよオイ、まだ自殺と決まったわけじゃ」
『いいからやるの、すぐ!』
舌打ちをして壁を蹴ると、明日香の身体は宙に舞い上がる。恐怖と焦燥が綯い交ぜになった興奮。ロープの反動をいっぱいに使って、窓際のPCラックごと窓枠を吹き飛ばした。つながったケーブルでラックは軌道を変え、本棚を薙ぎ払って地響きを立てる。無傷で残っていたクリアケースも、振動で揺らいだ後ガラガラと倒壊して砕け散った。
粉々になった玩具が飛び散り、視界いっぱいに埃が舞い上がる。
「ぷわッ……!」
咄嗟に袖口で鼻を押さえるが間に合わず、汗と皮脂と黴とヤニとシンナーと蛋白質の腐敗臭が鼻腔に流れ込んだ。吐き気が込み上げ、全身の産毛が怖気立つ。
「うぷッ……ぉぇ」
『明日香、対象の安否確認!』
「いや、動いてない。っていうか、このひッどい臭いからしてコレはもう……ぅわァッ!」
完全に死んでいたかと思われた男が、ビクンと痙攣して跳ね起きた。
手には溶けかけたキャンディーバー。ヨダレとチョコレートがそこらじゅうに垂れ落ちている。
「な、なんだ……なんなんだよコレ!」
「……それはむしろこちらが訊きたい」
怒りと嫌悪感を噛み殺し、明日香は静かにつぶやいた。これだけ派手に突入して気付かないというのは、どういう神経なのかと訝る。
『救急車は必要?』
傍らに転がる錠剤の瓶を拾い上げた。睡眠導入剤ではなく精神安定剤、それもOTCと呼ばれる薬局売りの市販薬だ。一瓶呑んでも、死にはしない。
「いや、いらない」
『無事?』
「ああ。対象は生きてるよ。わたしは……死にそうだけどな」
室内の空気は生温かく湿っていて、息をするたびに饐えた臭いが鼻腔に流れ込んでくる。
「うぷッ……うぼェ……ぷヒゅんッ」
胃が勝手に痙攣し、口に苦い味が広がった。唇を押さえると鼻が痛み、続けざまにくしゃみが出る。口も鼻も押さえると、今度は塵と埃と刺激臭に目がチカチカした。心より先に身体が拒否反応を示す。防御機能をフル稼働させているのが手に取るようにわかった。
涙で歪んだ視界のなかで、男がゆっくりと立ち上がる。
「な、なんだよお前! ブツブツ言いやがって、出てけよ!」
男の拳が振り上げられる。その動きはあまりにも遅く、鈍い。明日香は頭を下げてかわし、空を切った腕を取って軽く引いた。
「な……うぉぶッ!」
相手は呆気なくバランスを崩し、ベッド脇の堆積物に顔から突っ込む。雑誌と書類と箱でできたトーテムポールが衝撃で揺らぎ、連鎖反応で次々と崩壊し始めた。紙片が舞い散りプラスティックが砕ける。爆風のように吹き上がる埃。まるで怪獣映画のセットだ。
もがく男の腕を問答無用で捻りあげ、プラスティックの拘束テープで後ろ手に固定した。
『明日香、大丈夫? どうしたの、ねえ……?』
「大丈夫な、わけ……ないだろぅッ、ぷしぇッ!」
できるだけ口で呼吸をしながらふと傍らを見ると、カップ麺の容器の陰でなにかが蠢いているのが見えた。
硬直した明日香の足元で、小さな黒い物が一斉に湧き出す。
――き、気のせいだ。なにもいない……なにも見ていない。
「聞けよ人の話を! オイお前! なんなんだ、オイ!」
男が身をよじらせて抗議するたびに、周辺から埃がバフバフと噴き出す。猛烈な腐臭も、そして無数の小虫も。
立っているだけで眩暈がした。気を抜くと悲鳴を上げてしまいそうになる。
「し、静かにしてください。あと、なるべく動かないように。われわれは、遥野市役所です」
「……われわれ、って……え? 市役所?」
静かになったところで明日香は男から離れ、部屋の入り口を塞ぐバリケードの撤去を始めた。
近所の目に付かないように、という条件だったが、そんなことは窓を蹴破った時点でもうまったく意味がなかった。
それでも、急がなければいけないことに変わりはない。
「ええ、市役所です。遥野市役所・経済環境部・生活環境課・大気環境グループ・SAS係です。では確認しますが、氏名、大須賀惇一。年齢、十八歳、無職。……間違いないですね?」
振り返った明日香に、惇一はキョトンとした顔を向ける。
「む……無職は余計だろ。それがなんだよ。なんの用だ! 市役所がなんの権限でぼくの部屋に入ってくるんだよォ」
「それはご両親からの……」
「あァああッ! やめろバカ、ガレキが倒れてるじゃないかッ!」
「瓦礫?」
心張り棒になっていたパイプ椅子と木刀の混合物をドア前から動かし、隙間につめ込まれたガムテープと段ボールの塊を除ける。ドアに踏み出した足元でなにかが砕けた。構わず爪先で弾き飛ばして、もう一度振り返る。
「ご両親からの依頼により、これからこの部屋の〝清掃〟を行います」
「うがぁあ、ぷりぷり秋帆ちゃんの脚が……! メストロンジェットのアームまで潰れてるしィ! オイこれ弁償しろよ!」
「室内備品の損害については後ほど依頼者とお話し合いください」
崩したバリケードを押し退け、内側から幾重にも付けられた施錠を解除する。部屋の外に怪物でもいるのかと思うような厳重さだった。
「なに言ってるんだ、お前……朝っぱらから市役所が何様のつもりだよ。こんな横暴が許されると思っているのかッ!」
「家主・世帯主・債権者にして保護責任者からの依頼です。お知らせについては事前に何度も……」
明日香は、傍らに落ちていたピンクの紙屑を広げた。脳天気なほど明るいレイアウトの〝清掃通知書〟には、得体の知れないゴミと染みがこびりついている。
「……出してあります」
籠城生活についての素朴な疑問がいくつかあったが、本人に訊くのはやめた。ペットボトルに入った黄色い液体も、見なかったことにする。
軋むドアをこじ開けると、居間で待ち構えていた惇一の両親と目が合った。その脇にはSAS係長、君塚の姿もある。
「お待たせしました。無事ですよ」
不安そうな表情の両親に言って、ポケットからカッターナイフを出す。
ベッド脇に戻った彼女は怯える男の腕を掴み、拘束していたプラスティックテープを切り離した。
「では、これより清掃作業が終了するまで一時ここから退去していただきます。外出できる服に着替えてください」
光が差し込み暗闇が去ると、惇一は改めて明日香を見た。まじまじと顔を見つめ、唖然として口を開く。いままでどう見えていたのかは知らないが、現実の明日香は小柄な女子中学生でしかない。惚けた顔の彼に、もう一度繰り返す。
「惇一さん、外出する準備をしてください」
ハッと我に返ると、彼は急に視線を泳がせた。
「が、外出? ……冗談じゃない、なんの権限があって親やら市役所がこんな……」
聞き取りにくい吃音と、耳障りな甲高い声。恐怖と苦痛でささくれ立った神経が唐突に悲鳴を上げ、暴力的な炎となって明日香の臓腑を炙る。
彼女はとびきりの笑顔を浮かべ、そのまま相手の目を真正面から見据えた。惇一はビクンと背筋を震わせ、唇を半開きのまま硬直させる。
「問題はわれわれの〝権限〟じゃないんですよ、大須賀惇一さん」
握り締めた拳でも叩き込むように、明日香は一語一句を、ゆっくりとぶつけてゆく。
「あなたの、〝義務〟と〝責任〟が問われているんです」