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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

殺しの切り返し地点

作者: 秋保 あかさ

ホラーですが、オカルトの類ではありません。

   

「はぁ、はぁ、はぁ――――」


 女性――とても綺麗で上品な彼女は、その美しい顔を歪ませてまで必死に走る。

 暗闇の中、走りにくい長めのスカートを振り乱し、その手に持っていたハンドバックをとうの昔に投げ出してまで、彼女は本能が赴くままにただただ走り続ける。

 どうして、どうして、どうして、どうして?

 彼女は自分で考えていることが上手く理解できず、なぜ理解できないのかも理解できず、何に対して疑問を抱いているのかも理解できない――それほどの恐怖、困惑。

 今はただ本能に従うだけだ。本能が全身の筋肉を走るためだけに費やそうとしているのだ。だから、ただただ走る。

 怖い、怖い、怖い――――何が?

 走りつかれて絶望だけが全身を支配し倒れ込む。やがて自分は何に恐怖していたのかすらわからなくなってきた時、そいつ(・・・)は現れた。彼女の逃げ道を塞ぐような形で、そいつは彼女を見下ろす。

 こいつから逃げていたんだ、と彼女が思い出した時にはもう遅い。そいつは地面で脱力しきった彼女に向かってゆっくりと、だが着実に近づいてくる。その手には大振りの刃物。


「ひぃぃ……」


 彼女が何かを叫ぼうにも、掠れた空気が歯の隙間から抜けていくような感覚がもどかしくて上手く声が出ない。そんな、絶望が全てを飲み込んだかのような悲鳴を合図に、そいつは彼女の頭上で刃を振りかぶる。

 どうして――ねぇ?

 彼女は思い出す。自分が抱いていた疑問を、自分が理解できなかったことを、なぜ理解できなかったのかを。

 彼女の顔はとても醜かった。美人だとか不細工だとかいうわけではなく、もっと本質的な意味で、だ。言うなれば、彼女の顔は『恐怖を映し出す鏡』のようだった。

 そんな彼女に向かって、ついにそいつは刃を振り下ろした。彼女には、それが自分の身に飲み込まれるまでの時間が何分間にも感じられる。


 ――――彼女は受け入れた。


 全てを悟った人間はどうしてこんなにも強いのだろうか?

 おそらく、万が一でも、億が一でも、はたまたそれ以下の可能性でも残っていたとするならば、こうはいかなかったであろう。だがこれはそんなに甘い話ではない。完全な“0”だ。だからこそ――


 ――――彼女はその身に飲み込まれていく刃を、受け入れた(・・・・・)






 ◆◇






 九月の終わり。


 まだまだ残暑が厳しいこの季節に、自転車を漕ぎながら通勤する一人の男がいた。彼の名前は“青木 耀司(あおき ようじ)”。

 黒い髪を短く刈り上げており爽やかな印象を受けさせる耀司は、その剥き出しの額に薄っすらと汗を浮かべながら悪態をついている。


「あーあ、どうしてこうも暑いかなー。もう十月になるぞ?」


 そう呟きながら耀司は視線を動かす。その先には大きな公園が堂々と敷地を占領しており、中央から伸びる時計塔の脇には現在の気温を表す文字が己の存在を主張している。


 ――26.0℃


 その文字は赤色で構成されており、なおかつ点滅を繰り返すので余計に暑く感じてきたではないか。

 はて、それにしても昨年のこの季節はこんなにも残暑が厳しかったであろうか?

 そんな耀司の疑問に答えが返ってくるはずもなく、彼は少しの寂しさを覚える。

 そんな耀司だが、何を隠そう彼は刑事である。

 青木警部として今までもいくつか事件の捜査に携わっており、周りからの信頼も厚い優秀な人材だ。




「ああ、青木さん。今日も自転車で来たんですか。 暑いのにすごいですね」

「まあね。毎日の運動が趣味だから」


 ようやく仕事場に辿り着いた耀司を出迎えたのは、彼の部下に当たる細見の女性である。名前は“神崎 玲(かんざき れい)”。

 モデル並みに磨き上げられたプロポーション、そしてその完璧なスタイルに一切引けを取らない美貌の持ち主、なおかつ二十六歳という若さで警部補という地位に就いている期待のホープである。

 そんな彼女のセリフに耀司は胸を張って答える。毎朝の自転車通勤は女性達の人気を呼び、それを耀司は誇らしく思っているのだ。


「そう。でもまだまだ熱中症には気を付けなさいね?」

「はい、お気遣いありがとうございます」


 耀司と玲は仲が良く、時折このような会話を突然繰り広げる事がある。

 突然切り出したこのようなノリに果敢に反応してくれた耀司に、玲は満足そうに微笑むと、そのまま一礼してその場を後にする。

 もしかして彼女は俺に惚れているのだろうか、なんてことを耀司が考えるのは今日が初めてではない。それくらいに仲が良く、周りからはカップルだとも噂されている。

 耀司はいつも通りに『そんなわけないか』とその思考を放棄し、駐輪場に自転車を停め、自分の仕事を求めて目前の大きな建物へと足を踏み入れていく。









「うーん、それにしても酷い殺され方ですね」

「ああ、頭部に直接刃物を突き刺してある」


 玲の言葉に、耀司は小さく頷きながらそれを肯定する。

 彼らの前には若い女性の刺殺死体が横たわっている。そう、耀司と玲は殺人事件の捜査にやってきたのだ。


「被害者の物と思われるハンドバッグが発見されたそうですよ」

「そうか……」


 玲は気丈に振る舞っているが、頭部に直接刃物を刺され身体の特徴からでしか性別もわからないような死体を前に、必死で吐き気を堪えているのを耀司は気付いている。

 そんな玲の背中に手を回し、近くに停めてある警察車両まで彼女を連れていく。


「ありがとうございます。すいません、死体だけは慣れないですね」

「ああ、俺だってそうだ。だから気にするな。君はそれ以上に他の面でとても優れているからな」


 耀司に優しく声をかけてもらった玲の頬には赤みがさしているが、耀司がそれに気づく気配はない。

 そんな耀司の鈍感さに玲がいつも苦労させられているのはご愛嬌だ。


「ただ、気がかりなのはこれが五件目の犯行だということだな」

「ええ、被害者は全て女性で、全員名前に『漢数字』が入っているんですよね。ただの偶然という可能性も捨て切れませんが、おそらく犯人には殺しの対象にこだわりを持っているとか」


 彼らの言う通り、同じような事件がここ連日続いており、一人目の被害者が“一ヶ谷 薫(いちがや かおる)”、二人目が“二条 愛華(にじょう あいか)”、三人目が“佐藤 千尋(さとう ちひろ)”、四人目が“朝倉 百合(あさくら ゆり)”と、全員の名前に漢数字が入っているのである。今回の五人目の被害者の身元を割り出し、名前に漢数字が含まれているとなったら間違いなくただの偶然ではないだろう。


「可能性は低いですが被害者の中に本当(・・)の標的がいて、それをカモフラージュするために漢数字殺人なんていうことを犯人がしている、なんてことも考えられていたんですよね?」

「ああ、だが知っての通りそれは捕まった後のリスクや、そもそも捕まるリスクが高くなるという理由でほぼ考えられないという結論が出た」


 二人は狭い車の中で事件について話し合っていたのだが、周りから見れば仲睦まじく会話しているようにしか見えない。カップルだなんて噂が広まっているほどだから尚更である。全く、殺人現場であるにもかかわらず場所を選ばない二人だ。

 そんなことを知らない耀司と玲はしばらく意見を出し合っていたが、結局その日は引き返すことになった。









「今夜、一緒にご飯なんてどうですか? と言っても、私の家で友達の誕生日会をするのでそれに同席って形になるのですが……」


 帰り道の車中、助手席の玲はまるで何かのタイミングを見計らうかのように上体をソワソワと揺らしていたが、ついに口を開いた。


「うーん、それってその子に失礼じゃないか? ――――誕生日の子」

「いえ、その……、いいんです。『二人だけで寂しいね』て彼女も言ってたので」


 玲はあたふたと手を振りながらそう言う。

 実は『誕生日の子』とは、玲の恋愛を応援してくれる友人の一人で、耀司を自分の誕生日をきっかけに家に招待するという計画の立案者だった。そうとは知らずに、耀司は変わらず「うーん……」と考え込んでいる。そんな耀司に玲はあきれ返る。

 彼は鈍感の極みだ。



 結局その後の玲による粘り強い説得により、耀司は現在、若い女性の一人暮らし宅前にて色々な意味で緊張を隠せずにいる。

 そんな耀司の様子に嬉しくなった玲は、急かすように玄関の入口めがけ階段を上がっていく。

 玲の家は中々綺麗なマンションの一室で、家賃は月十万程だろうか? どっちにしろ一人暮らしには十分な広さだ。

 耀司は慌てて玲の背中を追いかけ、ようやく追いついた頃には既に玲は自室の玄関を開け中に入ろうとしているところだった。

 玲に続き部屋に入った耀司は、鼻腔をくすぐる甘酸っぱい匂いに感動する。玲の部屋は綺麗に片づけられていて、家具は白と緑を基調としている。そんなオシャレであり清潔感溢れる部屋に耀司は、どこか柔らかいものに包まれているような錯覚を起こす。


「おかえりー」


 その声で耀司は、入って左手側の台所で女性が何やら作業をしていることに初めて気づいた。女性の視線は耀司と玲の間を行ったり来たりしており、その表情はどこか満足そうだ。


「あ、もう、料理は私がするからいいって言ったでしょう? ほーら、主役なんだからゆっくりしててよ」

「はーい、わかりましたよ」


 玲が女性を台所からさがらせると、その女性は耀司の前へと歩いていき自己紹介を始めた。


「初めまして、私の名前は“斎藤 伊代里(さいとう いより)”といいます」

「初めまして、青木 耀司です。本日は突然すみません」


 丁寧に自己紹介をしてくる伊代里を前に、耀司は彼女の誕生日会に部外者である自分が乱入することに、再び罪悪感を感じ始めた。女性の部屋という理由で浮かれていたさっきまでの自分が無性に恥ずかしくなった耀司は、深々と伊代里に頭を下げた。


「いえいえ、そんな。二人きりで寂しかったところなんです」

「そうですか……」

「ええ、そうなんです」


 伊代里は整った顔をしており、茶色いショートヘアがとてもよく似合っている。

 耀司はそんな伊代里の笑顔についつい破顔してしまい、それを見かねた玲が眉根を寄せながら料理を運んできた。

 テーブルの中央に置かれたそれは、俗にいう『キムチ鍋』だ。ツンと鼻を衝く甘辛い匂いに釣られ、三人は示し合わせたかのようにテーブルを囲む。


「青木さん、さっきも言いましたがお気になさらずに」

「……ああ、わかった。ありがとう」


 鍋から漂う香ばしい匂いに観念したのか、耀司は礼を言うと小さくはにかんだ。


「では、いただきます」

「「いただきます」」


 玲の号令に耀司と伊代里は勢いよく続く。


 その夜、三人は大いに誕生日会を楽しんだ。

 鍋をつつきながらビールをあおり、米の炊き忘れに溜め息を漏らし、カロリーなんて知ったこっちゃないとばかりにケーキを平らげた。









 その翌日、例の連続殺人事件に動きがあった。

 ここ五日間連続で発生していたにもかかわらず、昨日は誰も殺されなかったのだ。もちろん喜ばしいことなのだが、ここ近辺で名前に漢数字の付く一般人を徹底マークしていた警察にとっては逮捕のチャンスでもあったのだ。


 そんな中、耀司と玲は聞き取り調査を辿って一人の女性と会っていた。

 一昨日に殺された女性(“五十嵐 紀子(いがらし のりこ)”と判明済み)と当日に会っていた女性――――“筒井 理衣沙(つつい りいさ)”は、一軒家の和室に二人を招き入れお茶を出している。傍らに小さな女の子を連れた、小柄で小太りな若妻だ。

 理衣沙は二人の前にお茶を出し終えると、その正面に座って口を開く。


「あの……、この子なんですが」


 理衣沙の視線の先には、彼女の娘である“筒井 粧裕(つつい さゆ)”の姿。


「まだ二歳なので……」

「ああ、大丈夫ですよ。ディープな話をするつもりはありませんので、そのまま抱いてあげていてください」


 理衣沙の言いたいことを瞬時に理解した玲は、粧裕の同席を許可した。

 そんな玲に理衣沙は「ありがとうございます」と頭を下げると、そのまま事件の日について話し始める。


「彼女――その、被害者の方は同じ高校に通っていた後輩でして、同じ陸上部に所属していたのでそれなりに仲は良かったんです」

「陸上部……ですか」

「ええ、今となってはこんな体型ですけど……」


 理衣沙は自嘲気味にお腹をさする。

「出産の時に……」なんて呟いているが、耀司と玲は視線で先を促す。


「それで、その日は彼女から相談したいことがあるとかで連絡を受けたんです」

「詳しくお願いします」

「はい、内容は主に友達関係でした。私は卒業後に直ぐ今の旦那と結婚したのですが、彼女は大学に進学しており、どうやらそこで女友達と一悶着あったようでした」


 理衣沙はその後、その大学にその女友達の情報、その他に紀子と何を話したのかなど、事細かく二人に話した。耀司と玲は一通り聞き終えると、今日のところは帰ることにした。

 耀司と玲が玄関へと歩いていくと、粧裕が可愛らしい足取りで駆け寄ってくる。


「おじちゃん、おねえちゃん、ばいばーい」

「はーい、ばいばーい」


 この世の全てを魅了するかのような可愛らしい声に、玲は頬を赤らめながら、ついつい粧裕を抱きかかえてしまう。


「やー、本当に可愛いですね」

「ふふ、ありがとうございます」


 頬の緩み切った玲を前に、理衣沙は思わず小さく笑った。

 その後一通り粧裕を愛でて満足した玲は、耀司との間に子供ができたら幸せだろうな、なんてことを考えて余計に頬を赤らめた。もちろん鈍感の極みである耀司は、そんな玲に気付いていない。



 耀司と玲の新たな目的地は、ここから車で二十分ほどの場所にある、紀子、そして理衣沙から聞き出した紀子の女友達――――“松井 弓歌(まつい ゆみか)”の大学である。

 目的はもちろん弓歌に話を聞くことだ。


「松井 弓歌――筒井さんが被害者から聞いた話によると、彼女は所謂『いじめっ子』らしいですね」

「ああ、彼女たちと同じ二十歳。その年になってまで周りに『いじめっ子』として認識されているとはな」


 淡々と事実確認をする玲に対し、耀司は内心辟易としていた。

 耀司は基本的に横暴で理不尽な人間が嫌いだ。もちろんそんなのは皆同じだとは思っているが、彼は異常だ。実際に何か不利益を被った訳でもないのに、不良と言われる人間を見ると嫌悪感に顔を顰め、実際に何か悪さをしている所を見たとなると胃が痛くなってくる。殺人現場で被害者が犯人にされたであろうことを考えると吐き気を我慢できなくなる。

 そしてそれは、刑事としての正義感に触発され大きくなるばかりだ。


 いじめっ子――程度の違いはあれ、もしも弓歌が耀司の想像するような人物なら、耀司は彼女に対し嫌悪感を隠し続けるのは困難であろう。


「青木さん、またあれ(・・)ですか? 正義感が強すぎるってやつ」

「ん、ああ。すまないな」

「いえ――」


 玲は耀司のことが好きだ。だから耀司の性格もそれなりに把握しており、それは前述したものについても同様だ。だがそんな耀司がかっこいい。とても憧れる。確かに耀司の感覚は異常と言えるかもしれないが、もっとポジティブに考えれば、それは『刑事の鑑』と言っても過言ではない。

 玲はやっぱり耀司が好きだ。そんな、彼の人間らしい狂った正義感が好きだ。

 いつも現場では――――現場?

 玲は何か言い得ぬような違和感を感じる。それは朝目が覚めた時にさっきまで見ていた夢が思い出せないようなもどかしさ、むずがゆさに似ているかもしれない。

 だが、そんな違和感も所詮は違和感だ。何かを疑問に感じたわけでも、怪しんだわけでもない。隣で車を運転している思い人の存在を感じていると、次第に全てを忘れていった。





 無事に大学に到着した耀司と玲は、駐車場に車を停めるとそそくさと大学内に歩を進める。

 二人がやってきた大学――大洋大学は、とある学校法人によって設立された私立大学で、校舎はA棟とB棟に分かれており、彼らの目的としている人物はA棟にいる。

 あらかじめ大学側の関係者へは然るべき許可を取ってあるのでその足取りには迷いがなく、二人は直ぐに目的の人物と遭遇できた。


「あなたが松井弓歌さんね?」

「ええ、話は聞いています」


 弓歌は二人を所属しているゼミのゼミ室に招き入れ、適当な椅子に座らせた。

 何のゼミ室かは知らないが、小学校の理科室のようなどこか釈然としない匂いに耀司は眉根を寄せる。


「そうですか、では話が早いですね。早速一昨日に何があったのかを聞かせてください」


 そんな耀司の代わりに玲が話を進めようと口を開くと、弓歌は黙って頷いてから苦々しく話し出す。


「あの日は……確かに喧嘩をしたかもしれません。だけどそれは……!」


 弓歌の瞳には大粒の涙が浮かんでいる。

 それを見て耀司と玲はふと思い出す。『いじめっ子』という言葉による先入観のせいで、弓歌に対するイメージは決して良くないものが出来上がっていた。そのせいで弓歌が一方的に被害者である紀子に嫌がらせをする『悪い奴』なんていう、根も葉もない想像をしていたのだ。理衣沙による話だと『いじめっ子』の以前に紀子の『女友達』だというにもかかわらず。


「すみません、辛いですよね。ゆっくりでいいので落ち着いて話してください」

「うぅっ……ごめん、なさい」


 玲が弓歌の背中をさすってやると、とうとう弓歌が泣き出してしまった。

 そんな様子を見ていた耀司は己の浅慮を恥ずかしく感じた。確かにいじめるという行為は褒められたものではないが、それがどの程度によるものかは理解していなかった。ただのいたずら好き、周りより少し口が悪い、『いじめっ子』というのはただの言葉の綾だったのかもしれない。それなのに友達を失ってしまった人物に対し、自分は悪い印象しか持っていなかったのだ。これほど人をコケにしたのは初めてだ。これではまるで自分が『悪い奴』ではないか。


「こちらこそ失礼しました。どうぞ、これを使ってください」


 耀司は先ほどまでの自分を払拭するように、ポケットから綺麗に折り込まれたハンカチを取り出し弓歌に渡した。そんな耀司の様子に玲は暖かい笑顔を向ける。この優しさこそ自分が耀司に惚れ込んだ最大の要因なのだ。

 もちろん耀司は玲のそんな笑顔を理解していない。もう一度言おう、彼は鈍感の極みだ。


「……ありがとうございます。――もう大丈夫です」


 弓歌は渡されたハンカチを極力汚さないように涙を拭き取ると、覚悟を決めて目の前の刑事に向き直った。



 弓歌が話してくれた情報はとても有意義なものだった。

 彼女によると、喧嘩の理由は紀子の恋愛によるものらしかった。紀子に好きな人ができたと相談されたのだが、それを軽く流して、なおかつ、少し茶化すような言動をとってしまったのが発端らしい。

 話を元に簡単に推測するとこんな感じだろう。


 紀子『好きな人ができたんだ』

 弓歌『ふーん、そうなんだ』

 紀子『うん、それでね。相手は――』

 弓歌『じゃあ告白しちゃえばいいじゃん』

 紀子『え? でもいきなりは……』

 弓歌『何? そんな根性無しじゃいつまで経っても結ばれないね』

 紀子『こ、根性無しって……もういい、相談した私がバカだった!』


 もちろん二人にも思うところがあったんだろう。それでも弓歌は後悔していると言っていた。この喧嘩が事件に関係しているかはさて置き、こんなのがお互いの交わす最後の会話になるとは思っていなかったのだから。



 帰りの道の車中、玲は事件の収束が決して遠いものではないことを実感していた。

 犯人が繰り返す『漢数字殺人』は、当然のことながら被害者の名前を知っていないと不可能な行為だ。となれば、被害者五人の共通の知り合いを見つけていけば自ずと犯人は絞れてくるはずだ。その為に、弓歌から紀子の思い人の存在を知らされた今回の行動は決して無駄足ではなかった。


(これ以上、犯人の思い通りにはさせない)


 昨日、事件が発生しなかったことから、もしかしたら犯人はこれ以上誰も殺すつもりがないのかもしれない。だがそんなのは関係ない。犯人は罪を犯し、今も逃げ(おお)せているのだ。もちろん住民の危険などもあるが、それ以上に自分の尊敬する青木警部のような、己の肉体を構成する正義感がそれを許さないのだ。

 そんな正義感はまるで磁石のように引き合うのか、玲の頭が耀司の肩に力なく乗せられた。


「えーと、玲さん? 何をしてるんですか?」

「あー、少し眠たいので肩をかしていただきますね」

「え? どうして?」

「……黙って運転していてください」


 終始あたふたする耀司に、玲は満足そうに微笑んだ。








 その日の夜、玲は昼間の自分の大胆さに顔を赤らめながら、今まで捜査してきた事柄をまとめていた。

 五人目の被害者である紀子のように、一人目から四人目までの被害者についても同様、その関係者や当日の行動を洗い出してある。そして驚くことに、今回の紀子のように一人の男性の存在が挙がっているのだ。名前はいづれも不明、おそらく被害者たち本人しか知らないのだろう。もしもこの男が共通の人物だとしたら、何か重要な手がかりを握っている可能性が極めて高く、犯人である可能性だって否定できない。


「うーん、今考えたって仕方ない」


 玲はそう呟くと、冷蔵庫から缶ビールを取り出してきた。

 缶ビールでもしっかりとジョッキに注いでから飲む玲は、昨日の誕生日会で耀司が使っていたジョッキを取り出すと、ビールを注ぐ。


(いや、ちゃんと洗ってあるからね? そういう趣味はないからね?)


 玲は誰ともなく言い訳をすると、そんな自分に小さく笑いながらほろ酔いの世界に身を投じていった。








 家に帰ってきた耀司は、早速風呂に入ることにした。その顔は何かを考え込んでいるようだ。


(今日は疲れたな。昨日酒を飲みすぎたか?)


 耀司は怠そうに服を脱ぎ捨てると、蛇口を小さくひねってから温度を確認し、やがて丁度いいお湯が出てくるとそれを頭から浴びる。

 普段なら毎日、夜になるとお気に入りのジャージに着替えて外へ走りだして行く耀司だが、今日は中止にするようだ。それは昨日の誕生日会までは連続で五日間続けていた習慣だが、それぐらい疲れているのだろう。

 耀司は当たりをつける。

 おそらくこの疲れは昨日の酒だけではないだろう、と。昼間の玲の行動を思い出した耀司は、恥ずかしながらも、顔が緩んでいくのが抑えられなかった。

 耀司に知り合いの女性は少ない。玲を入れて五人ぐらいだろうか? だからこそ女性に対する免疫が少ないのだ。


(この間まではもう少しいたんだけどな。減ったのは仕方ない(・・・・・・・・・)


 耀司は「そろそろ飽きたな」と呟くと、シャワーを止めた。


「れいよりいさゆみか」


 耀司は何やら呪文のような言葉を紡いでいく。


「レイヨリイサユミカ」


 耀司の顔は無表情だが、何か得体の知れない感情が渦巻いているようにも見える。

 時刻は午後八時半。全身を簡単に洗い終わった耀司は、脱衣所で濡れた身体を乾かし、寝巻を纏うとそのままベッドへダイブした。


「れいよりいさゆみかれいよりいさゆみかれいよりいさゆみか――」


 耀司はその呪文を気に入ったのか、何回も、何回も呟き続ける。

 その顔は先ほどとは違い、とても満足そうだ。耀司はその顔を笑顔に歪めていく。




 さて、ところで、いやはや、私は所詮語り部――第三者でしかない私には、彼が毎日夜な夜な何処へ、何をしに行くのかなんて知ったことではありません。悪しからず……。




「うん、次は『しりとり』でもしてみようかな――――」



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