1話 黒猫
テスト明けはひたすら寝るしかない。ぎりぎりまで詰め込んだ試験範囲を、きれいさっぱり忘れるためにあるんだ。きっと。
布団に倒れこんでからかなり時間が経ったらしい。目を閉じていても分かるくらい、外が明るかった。これ以上横になっていても夢の中には多分戻れない。却って目が冴えてしまって、そろそろ痺れを切らして起こしに来る両親や、日当たりの良い布団を乗っ取りに来る飼い猫のことを考え始めていた。
(これだけ寝ちゃったら、明日の学校起きられないだろうなあ)
観念して身を起こそうとして、ごつ、と何かがぶつかる鈍い音がした。
(頭、痛い)
頭部に鈍い痛みと、疑問符が浮かぶ。
私が寝ていた場所はごく普通に布団の上で、こんな低い位置で頭にぶつかるような物はない。はずだった。
目を開けると白い天井が見えた。
(うち、焦げ茶の木目天井)
ということはここは自宅ではないみたいだ。
(なんで? 確かに昨日父さんと母さんにおやすみって言って寝たはずなのに)
今夜は早いなぁ、そうかテスト終わったのか、て言われたのをはっきり覚えている。
手を伸ばすとそう遠くない所でガラスに当たる。体を囲むようにアーチをかけていて、カプセルのように閉じ込められているらしい。
ガラスの終端部にある側面の壁を確かめていると、いきなり何かが叩かれる大きな音がした。反射的に身が竦んだ。何も起きなかったので徐々に顔を上げると、
黒猫が一匹、ガラス越しに覗き込んでいた。
猫はすぐにカプセルの死角へと姿を消し、ややあってばくんという気の抜ける音とともにカプセルが開いた。
(開けてくれた?)
恐る恐る体を起こす。背中が長い間動かなかったみたいに硬かった。すぐそこにはひたと見据える黒猫。
(警戒されてる。野良猫みたいだ)
要はまだ、半覚醒状態だったのだ。この一連の行動を見ても、まだ私は目の前の何かを猫だと思い込んでいた。
「……なあ、あんた」
どこかから低めの声が聞こえる。
ぬっと手が出てきた。黒く短い毛におおわれた、「人間に似た」5本の長い指の。
「これ、何の道具かわかるか?」
その手が持っていたのはスマートホンだった。
ぐいと突き出されて思わず受け取ってしまい、その軽さと柔らかさに驚いた。柔らかすぎて筒状に曲がる。逆に画面の面積は広く、B5サイズくらいあった。
ボタンらしきものは何もなく、手掛かりになるような記号もなく。ただ、側面部分にぎざぎざなパーツが付いていた。
(なんか、携帯ゲーム機とか音楽プレーヤーによくあるあれに似てる)
指をかけてかちりと音がするまでスライドする。ジャ―ンと音を立てて真っ黒の画面に手紙や電話等、日常的に使っているアイコンが現れた。やっぱり誤作動防止のストッパーだ。
「これ、ひょっとして私の知ってる所の……?」
ちらっと現れたロゴに見覚えがあった。父さん愛用のパソコンメーカーだった気がする。
「使い方知ってるのか!?」
たぶん、と言いかけて気がついた。
私は誰と喋っている?
顔を上げれば黒猫の顔が至近距離にあった。
「あ……っ」
二本足で立ちあがり、こちらを見下ろすのは猫じゃない。
全身黒い体毛で覆われているのは人間でもない。
猫と人間を混ぜ合わせたような見たことのない姿に悲鳴を上げかけて……思い留まった。留まってしまった。
問いかける表情が、必死さを物語っていた。話を聞かなければいけないと思った。パニックを起こしている場合じゃないと。
「……スマートフォンの使い方、知らないんですか?」
猫は数秒間黙った後、首を横に振った。多分否定のジェスチャー。
「すまーとほんて言葉自体初めて聞いた。ここにあるもので俺が分かるものは殆どない」
彼が腕を引いてそのまま歩きだすのでつられて私もカプセルから出る。
裸足で歩くのはためらいがあって、何か無いかともう一度カプセル内を調べるとサンダルが入っていた。
歩くうちに右足に何かあたって、足元を見るとまた別のカプセルがあった。内部は暗くてはっきり確かめようにも強く引っ張られているため歩かざるを得ない。
改めて周囲を見渡せば、そんなカプセルは相当数設置されている様だった。
(あの中にも、人がいるの?)
案外広かった部屋一杯にそれが埋まっている様子は、虫か何かの卵のようで薄ら寒いものを覚えた。
「……なんで、私がここにいるのか、知ってますか?」
「知らない」
振り向きもせず、すいすいとカプセルをよけて歩く猫。ぴしっと立った尻尾がカーゴパンツから飛び出しているのが見えた。
(長靴をはいた猫じゃなくて、カーゴパンツをはいた猫、か)
目の前のものを直視できなくて、自分でもくだらないと思うことを考えていないとやっていけなかった。
服装にしてもそうだ。いつものパジャマで寝ていたはずなのに、今は水色のガウンとパンツスラックス。まるで病院の患者服だ。
まだ半覚醒状態で夢の中なんだろうか。猫は好きでも、これはよく分からない。なんだかおかしな夢だった。