番外編③ あなた自身の優先順位
王太子妃となったクレアのもとには、ときおり若い令嬢たちから相談が持ち込まれるようになった。
縁談について。婚約者について。結婚を前にした不安について。
その多くは、母や姉には話しにくいけれど、王太子妃になったばかりのクレアになら聞いてもらえるかもしれない、というものだった。
今日、応接室を訪れた侯爵令嬢アデラも、その一人だった。
「申し訳ございません。このような話を、王太子妃殿下に……」
「構いませんわ。ここで伺ったことを、私から誰かに話すこともありません」
クレアがそう告げると、アデラは膝の上で握りしめていたハンカチを見つめた。
目元は赤く腫れている。ここへ来る馬車の中でも、ずっと泣いていたのだろう。
「婚約者が、幼馴染ばかりを優先するのです」
絞り出すような声だった。
「幼馴染の方は、女性ですか?」
「はい。子爵家のご令嬢で、幼い頃から妹のように思っていると……」
アデラは涙を拭い、少しずつ話し始めた。
「この前は、彼女が熱を出したからと、私との観劇を取りやめました。その次は、新しいドレスを選んでほしいと頼まれたそうで……。そして昨日は、とうとう昼食の席にも現れませんでした」
「まあ」
クレアは思わず手を止めた。
「どこかで聞いたことのあるお話ですわね」
「ご存じなのですか?」
「いいえ。こちらの話です」
温かい茶をアデラの前へ置く。
「昨日は、どのくらい待ったのですか?」
「一時間ほどです。店の方にも迷惑をかけてしまいました。彼から使いが来たのは、その後で……」
「理由は、幼馴染の方ですか?」
「相談したいことがあると呼び出されたそうです。彼女には自分しかいないから、放っておけないと」
かつて何度も聞いた言葉に似ていた。
事情を理解できるのは自分だけ。
相手には自分しかいない。
婚約者なら、待ってくれる。
クレアはカップに口をつけ、少しぬるくなった茶を飲んだ。
「幼馴染の方が王都へ戻るまでは、こんなことはなかったのです」
アデラが切実な思いを訴える。
「十年間、あの方は私を大切にしてくださいました。約束を破ることもありませんでしたし、私の意見も聞いてくれて……。ですから、きっと今だけなのだと思いたいのです」
「いつ、王都へ戻られたのですか?」
「二年前です」
「この二年間で、約束を破られたのは何度でしょう」
唇が動いた。
けれど、答えは出てこない。
数え切れないのか、数えるのが怖いのか。
「でも、私たちは十年前から婚約していて……」
「長さは関係ありませんわ」
クレアが言うと、アデラは顔を上げた。
「十年大切にされたからといって、これから後回しにされ続けなければならない理由にはなりませんもの」
「ですが、十年も一緒にいたのに、今さら婚約を見直すなんて……」
「今さらではなく、今からですわ」
アデラの手から、力が抜けた。
「私は、婚約を破棄した方がよいのでしょうか」
「それを決めるのは、私ではありません」
はっきりとしたクレアの答え。
でも、それは突き放すような言葉ではない。
「ただ、彼が幼馴染を優先する自由を持つのなら、あなたにも、ご自分の時間を優先する自由がありますわ」
「でしたら、私も別の殿方を頼ればよいのでしょうか」
「いいえ。あなたは、その幼馴染を真似るようなことだけは、なさってはいけません」
「なぜですの?」
「あなたまで、ご自分の品位を下げる必要はありませんもの」
アデラはその言葉を聞き、はっとしたように、目を瞬いた。
「相手を困らせるために、同じことをやり返すのではありません。これまで後回しにしてきた、ご自分の時間を取り戻すのです」
「私の時間を……」
「次に約束を破られたときは、待つのをやめてはいかがでしょう。空いた時間で、あなたがしたかったことをなさるのです」
「ですが、それでは婚約者としての務めを果たしていないと、思われませんか?」
「婚約者だから後回しにされて当然、という務めはございません」
二人の間に沈黙が流れる。
やがて、震える声でアデラが尋ねる。
「私が彼を優先しなくなれば、嫌われてしまうかもしれません」
「あなたが自分の時間を持っただけで離れていく方なら、その方が見ていたのは、あなたではなく、いつまでも待ってくれる都合のよい婚約者だったのでしょう」
「そんな……」
「反対に、あなたを大切に思っているのなら、自分が何をしていたのか気づく機会になるかもしれません」
婚約破棄を勧めたいわけではなかった。
誰かとの関係を続けるか、終わらせるかは、彼女自身が決めることだ。
けれど、相手が変わることだけを願いながら、待つ場所から動けずにいる彼女の姿は、かつての自分によく似ていた。
「あなたは、何をしている時間が好きなのですか?」
「以前は、刺繍が好きでした。でも、婚約者にいつ誘われてもいいように、最近は大きな作品を作らなくなって……」
「では、刺繍を再開しましょう」
「よろしいのでしょうか」
「誰の許しが必要なのです?」
アデラの瞳が揺れる。
やがて、赤くなった目元を緩ませ、ほんの少し笑った。
「大きな壁掛けを、作りかけたままにしています」
「それは完成させなければいけませんね」
「はい」
扉の外で、控えていた侍女が声をかけた。
「王太子殿下がお戻りになりました」
ほどなくして扉が開き、政務を終えたアルベリックが姿を見せた。
朝から会議が続いていたはずだが、疲れを表へ出さず、先に客人であるアデラへ礼をする。
「話の途中だっただろうか」
「ちょうど終わったところです。お疲れさまでした」
「クレア、体調は大丈夫か?」
「はい。今日は朝から落ち着いています」
アルベリックの表情がわずかに緩む。
クレアは無意識に、腹部へ手を添えていた。まだドレスの上から変化がわかる時期ではない。アデラもその仕草には気づかなかったようだった。
「昼食は取れたか?」
「きちんといただきました。侍女にも確認なさいますか?」
「あなたは無理をしても、大丈夫だと言うことがあるからな」
「今日は本当に大丈夫です」
「それならよかった」
二人の会話を、アデラが静かに見つめていた。
王太子は政務を放り出して、クレアのそばにいるわけではない。
クレアもまた、自分のために政務を後回しにしてほしいとは望んでいない。
それでもアルベリックは、戻れば真っ先にクレアの体調を尋ねる。クレアも、彼が戻ることを疑わずに待っている。
優先するとは、ほかのすべてを投げ出すことではない。
相手を、後回しにしても失われない存在だと思わないことなのだ。
「今日は、本当にありがとうございました」
「少しでもお役に立てたなら、何よりです」
「帰ったら、まず刺繍を再開します」
「完成したら、ぜひ見せてくださいませ」
アデラは今度こそ、はっきりと笑った。
扉へ向かいかけた彼女へ、もう一度声をかける。
「アデラ様」
「はい」
「ご自分の優先順位を、ご自分で下げてはいけませんわ」
アデラが振り返った。
「あなたが、ご自分を後回しで構わないと扱い続ければ、相手にもそう思わせてしまいます」
「私も、優先順位を変えてみます」
彼女はその言葉を胸に収めるように、深くうなずいた。
扉が閉じたあと、アルベリックがクレアの隣へ来た。
「ずいぶん身に覚えのありそうな話だったな」
「まあ。何のお話でしょう」
「とぼけるのか?」
「ただ、どこかで聞いたことがあると思っただけですわ」
彼は笑いながら、クレアの手を取る。
「では、今のあなたの優先順位を聞いても?」
「一番は、私自身です」
「……私は?」
「その次です」
アルベリックは不満そうに眉を寄せるのを見て、クレアは笑った。
「私が自分を大切にできなければ、あなたのことも大切にはできませんもの」
「なるほど。それなら異論はない」
「それに」
「それに?」
「今は、二番目が二人おりますから」
「……そうか」
重ねられた手をそっと握り返す。
アルベリックは目を見開き、それからクレアの腹部へ視線を落とした。
その視線は、ひどく優しく、これ以上ないほど嬉しそうだった。
ふと思い立って、その後の二人の番外編追加してみました!
楽しんでいただけると、嬉しいです。
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