白薔薇はもう、あなたのために咲かない
王都の春は、いつだって少し残酷だ。
花は咲き誇り、人々は袖口に淡い色を選び、広場の噴水には朝から日差しがきらめく。けれど、誰かの人生が終わる音は、たいがいこんなうららかな日に紛れてしまう。
エレノア・フェアチャイルドは、その日、王宮の中庭に立っていた。
侯爵家の長女として生まれ、幼い頃から「未来の公爵夫人」として育てられた彼女にとって、人前で取り乱すことは教養の欠如を意味した。だからこそ、目の前に立つ婚約者――セドリック・アルヴェイン公爵令息の口から、あまりにも唐突な言葉が落ちたときも、彼女はまばたきを一度しただけだった。
「エレノア・フェアチャイルド。私はここに、君との婚約を解消する」
周囲がざわめいた。
春季慈善園遊会。王都の貴族が集うこの席で、婚約解消を宣言するなど、本来ならありえない。社交は礼節の戦場だが、剣を抜く場所ではない。まして、相手の名誉を傷つけるような行為は、どんな理由があっても歓迎されない。
だが、セドリックは迷いなく続けた。
「君は辺境の孤児院に送るはずだった支援金を、自らの研究費に流用した。さらに、王立植物園の温室管理責任を他人に押しつけ、事故で働き手を怪我させた。公爵家の名にふさわしからぬ不実と傲慢――私には、もう見過ごせない」
息を呑む音が、いくつも重なった。
エレノアの視線は、彼の隣に立つ少女へと流れる。薄桃色のドレスに身を包んだ、小柄で愛らしい娘。最近、王都で急速に注目を集めている男爵令嬢、ミレイユ・サフォークだ。
彼女は両手を胸の前で組み、今にも泣き出しそうな顔をしていた。守ってあげたくなるような表情。庇護欲を誘う瞳。王宮勤めの侍女たちの間でも「あの方は心が清らかで」と噂される娘だった。
エレノアはようやく、何が起きているのかを理解した。
――ああ、そういう筋書きなのね。
怒りより先に、疲労が来た。
彼女は静かに扇を閉じた。
「お言葉ですが、セドリック様」
「弁明は聞く必要がない。証言も記録もそろっている」
「でしたら、ひとつだけ」
エレノアの声は、驚くほど澄んでいた。
「婚約解消をお望みなら、私は異存ありません」
誰かが小さく悲鳴をあげた。
貴族の婚約は、当人同士の感情だけで決まるものではない。家同士の結びつきであり、政治的な契約であり、財と人脈の縁でもある。一方的な解消は、侯爵家にとっても公爵家にとっても大きな痛手だ。
それなのにエレノアは、たしかに言ったのだ。異存はない、と。
セドリックの眉がわずかに動いた。おそらく、彼女が取り乱し、泣きながら潔白を訴え、しがみついてくると思っていたのだろう。九年の婚約だった。幼少から続いた約束が、こんなにも軽く手放されるとは想像していなかったに違いない。
「……認めるのだな」
「いいえ。罪を認めるつもりはありません」
エレノアはまっすぐに彼を見た。
「ですが、信じる気のない方に、何を申し上げても無意味でしょう。婚約関係とは、互いの信頼のうえに成り立つものです。それが失われたのなら、形だけ繋いでも醜いだけです」
その言葉は、思いのほか鋭く響いたらしい。数人の貴婦人が視線を伏せた。
セドリックの頬にわずかな熱が走ったのが、エレノアにはわかった。彼は自尊心が高い。常に正しく、優秀で、冷静でありたい人間だ。そんな彼にとって、婚約者から「信頼を失った」と暗に指摘されるのは、面目を潰されるのに近い。
「では、後日正式な書面を――」
「本日中に、私の側からも確認の署名をお送りします」
エレノアは一礼した。
「これまでお世話になりました、公爵令息セドリック・アルヴェイン様」
その呼び方に、彼の顔色が変わる。いつもなら「セドリック様」としか呼ばない彼女が、そこに他人行儀な肩書きを乗せたのだ。たったそれだけのことで、九年の時間がすでに遠ざかっていく。
エレノアは踵を返した。
背後ではざわめきが大きくなっていたが、振り返らない。庭園を横切る風に、白薔薇の香りが混じっていた。今日のために温室で育てた花だ。慈善オークションに出す予定だった。売り上げは、辺境の診療所へ送る予定だった。
――支援金を流用した、ですって。
あまりの馬鹿馬鹿しさに、笑ってしまいそうだった。
彼女は歩きながら、自分の手がわずかに震えていることに気づいた。怒りでも恐怖でもない。もっと深い場所で、長い長い緊張の糸が静かに切れかけているのだ。
九年。
十六歳で婚約してから二十五歳になるまでの九年、彼女は未来の公爵夫人として学び、働き、整え、支え続けた。社交の場で彼が不在のときは代理を務め、領地経営の資料をまとめ、彼の母の体調不良時には使用人への指示系統まで整えた。王立植物園での薬草研究も、公爵家の事業と連携するために始めたものだった。
それでも最後に残ったのは、「不実で傲慢な女」という札ひとつ。
庭園の端まで来たところで、背後から小走りの足音がした。
「お嬢様!」
振り返れば、侍女のクララが顔を真っ青にして駆け寄ってくる。
「お怪我は!? あの、あまりに突然で、わたくし、何が何だか……」
「大丈夫よ、クララ」
「大丈夫なものですか! あんな、あんな言いがかり……!」
クララは今にも泣きそうだった。エレノアはその肩にそっと手を置く。
「泣かないで。泣くと、私まで泣きたくなるでしょう」
その一言で、クララは唇を噛みしめた。エレノアもまた、喉の奥が熱くなるのを感じた。だが泣くのはまだ早い。少なくとも、王宮の廊下では。
「屋敷へ戻りましょう。父に報告して、必要な手続きを確認しなければ」
「……はい」
歩き出したそのとき、庭園の入口のほうから低い声がした。
「レディ・エレノア」
見れば、濃紺の礼装をまとった長身の男が立っていた。銀に近い灰色の髪、夜明け前の海のような青い瞳。北方辺境伯、ルシアン・ハイデンその人である。
王都の社交界にはあまり姿を見せない人物だった。北の雪深い領地を治める実務家で、若くして戦場を知り、無駄口を好まないと聞く。エレノアとは、王立植物園への耐寒薬草の寄贈を通じて、数度言葉を交わしただけだ。
「……ハイデン辺境伯」
ルシアンは一歩近づき、彼女の顔を見た。探るような視線ではなかった。ただ、事実をそのまま見るような静かな目だ。
「馬車を手配しました。よろしければお使いください」
「お気持ちだけで十分です」
「気持ちではなく、合理性の問題です」
彼は淡々と言った。
「今のあなたが正門から出れば、好奇の視線に囲まれる。裏門なら目立たず帰れる。馬車も紋章を外してあります」
クララが小さく息を呑んだ。そこまで配慮していたのかと驚いたのだろう。エレノアも意外だった。冷徹だと聞いていた男は、少なくとも今日この場においては、誰よりも礼節を守っていた。
「……ありがとうございます」
「礼には及びません。白薔薇の苗、昨冬は北の診療所で多くの命を救いました。私は恩を忘れない主義です」
その言葉に、エレノアの目元が少しだけやわらいだ。
「では、お借りいたします」
「ええ」
それだけ言うと、ルシアンは半歩退いた。慰めの言葉も、軽率な同情もない。ただ逃げ道を用意し、必要以上に踏み込まない。その距離の取り方が、ひどくありがたかった。
裏門へ向かう道すがら、エレノアは胸の内で思った。
――終わったのね。
悲しみは、まだ涙の形にならない。
それでも確かに、何かが終わったのだ。長く丁寧に守ってきた未来図が、紙のように裂けて風に舞っていく音が聞こえる気がした。
王宮の白い壁に、春の光が反射してまぶしい。
世界はこんなにも明るいのに、彼女の足元だけが、ひどく静かだった。
フェアチャイルド侯爵邸に戻るころには、すでに王都中に噂が広がり始めていた。
貴族社会の情報伝達は、伝書鳩よりも早い。馬車が正門をくぐる頃には、使用人たちの顔にも緊張が走っていた。
エレノアは応接間ではなく、真っ直ぐ父の執務室へ向かった。
扉を叩くと、低い声が返る。
「入れ」
室内には、父であるレイモンド・フェアチャイルド侯爵と、弟のエドガー、そして母のヴィヴィアンまでそろっていた。どうやら知らせはすでに届いていたらしい。
「エレノア」
母が立ち上がろうとするのを、エレノアは手で制した。
「まずは報告を」
彼女自身、驚くほど冷静な声だった。
父はしばし娘の顔を見つめ、それから椅子を指した。
「座りなさい」
エレノアが腰を下ろすと、父は机上の紙束を軽く叩いた。
「すでに概要は聞いた。アルヴェイン公爵家からも、婚約解消の打診が正式に来る見込みだ。ただし、こちらを不利にする形で責任を押しつけようとしている節がある」
「支援金流用と温室事故の件ですね」
「そうだ。だが、どちらも事実ではない」
父の声は抑えられていたが、机の上に置いた手には力がこもっていた。
「支援金の記録はすべてこちらで保管している。流用など不可能だ。温室事故についても、現場責任者は植物園側の雇い入れた管理人で、お前は事故当日現場にいなかった」
「それでも、セドリック様は“証言も記録もある”と」
弟のエドガーが机に拳を叩きつけた。
「あいつ、ふざけてる! 姉上がどれだけアルヴェインのために働いてきたと思ってるんだ!」
「エドガー」
母にたしなめられ、彼は悔しそうに黙り込む。
父は深く息をついた。
「おそらく、誰かが意図的に話を作ったのだろう。問題は、なぜセドリックがそれを鵜呑みにしたかだ」
エレノアは少し考え、それから静かに答えた。
「信じたいものを、信じたかったのでしょう」
「……どういう意味だ?」
「この数年、セドリック様は少しずつ変わっておられました。いえ、あの方自身が変わったというより、私を見る目が変わったのだと思います」
王都では近年、恋愛結婚を理想とする空気が強まっていた。古い家同士の政略的な婚約より、心から結ばれる物語が好まれる。劇場では平民娘と若き貴公子の恋を描く芝居が流行り、雑誌には“真実の愛”を讃える読み物が並んだ。
セドリックはもともと理知的な男だったが、その理知は時に、自分が正しいと信じた物語を補強する方向に働く。最近の彼は、エレノアの有能さを頼もしく思うより、「完璧すぎて冷たい」と捉えることが増えていた。
一方で、ミレイユのように素直でか弱く見える娘は、彼に“守る喜び”を与えただろう。
「私は、たぶん、あの方の理想の“恋をする相手”ではなかったのです」
母が痛ましげに目を伏せた。
「そんな言い方をしないで。あなたは何も間違っていないわ」
「ええ。わかっています」
エレノアは笑った。少しだけ、疲れた笑いだった。
「ただ、理由を考えるなら、それが一番自然だと思うのです」
父は椅子にもたれ、しばらく黙っていたが、やがて言った。
「……婚約解消を受けるか?」
エレノアは迷わなかった。
「はい」
「エレノア!」
弟が身を乗り出す。
「なぜです! 冤罪を着せられたまま引き下がるなんて――」
「引き下がるのではないわ、エドガー」
彼女は弟を見た。
「私は、自分を信じない相手と結婚したくないの」
その一言で、部屋が静まり返った。
エレノア自身、それは初めて口にした本音だった。名誉や家格、利害ではない。もっと単純で、人として当たり前の願い。少なくとも結婚生活くらい、背中を預けられる相手と築きたい。
九年も婚約しておきながら、その最低限がなかったのだと、ようやく認めた。
父はゆっくりとうなずいた。
「……わかった。婚約解消そのものは受けよう。ただし、虚偽の罪状については別だ。侯爵家の名誉に関わる。証拠を整理し、必要なら王家の調停に持ち込む」
「お願いします」
「それから」
父の目が柔らかくなる。
「お前はしばらく王都を離れなさい」
エレノアは目を瞬いた。
「離れる、とは?」
「南西のローズウッド領へ行け。お前が整備を進めていた薬草園があるだろう。春の植え付け時期だ。ちょうどいい」
ローズウッド領は、フェアチャイルド家が直轄する豊かな土地だった。温暖で、花と薬草の栽培に適している。エレノアが十代のころから少しずつ改良を重ね、女性の雇用や孤児の職業訓練とも結びつけてきた大切な場所でもあった。
「でも、今は王都で対応を……」
「お前が王都にいれば、好奇の的になるだけだ。あらぬ噂を立てられ、下手をすれば口実を与える。だったら距離を取って、できることをする方がいい」
母も頷く。
「心も休めなさい。強い子ほど、折れたときに音を立てないから」
その言葉に、エレノアはようやく胸の奥に痛みを見つけた。
強い、と言われ続けてきた。
賢い、立派だ、頼りになる――褒め言葉のはずなのに、時々それは「一人で大丈夫でしょう」という意味に聞こえた。泣くことを許されない役割。弱さを見せれば失望される立場。
けれど今、母の手が優しく彼女の頬を撫でた。
「あなたは傷ついているのよ、エレノア。平気なふりは、あとでいいわ」
その瞬間、どうしようもなく泣きたくなった。
エレノアは両手を膝の上で握りしめた。肩が震えそうになるのを、必死に抑える。だが父が立ち上がり、無言で彼女の頭に手を置いたとき、堰が切れた。
「……っ」
涙が一粒、膝に落ちる。
それを見た弟が、泣きそうな顔でうつむいた。
「姉上……」
「ごめんなさい、取り乱して……」
「謝るな」
父の声は不器用なくらいまっすぐだった。
「お前は何も悪くない」
その一言が、九年間の頑張りをまとめて掬い上げてくれるようだった。
エレノアは声を殺して泣いた。嗚咽は小さく、けれど長かった。喪失の痛みだけではない。理解されなかったこと、信じてもらえなかったこと、ずっと背負ってきた役目が突然なくなったこと、その全部が涙になって流れていった。
夕方には泣きやんで、彼女はいつものように姿勢を正した。
「……失礼しました」
母がハンカチを差し出し、弟は何も言わず温かい紅茶を淹れた。
父は執務机に戻ると、すでに戦う顔になっていた。
「では決めよう。お前は三日後にローズウッドへ発つ。それまでに必要な書類は私が整える。支援金の帳簿、植物園との契約書、事故報告書、すべて写しを作る。向こうでも確認しておけ」
「はい」
「それと、婚約時にエレノアが公爵家へ提供していた研究資料や人員リストは、すべて引き上げる」
エドガーがぱっと顔を上げた。
「そうだ、姉上の温室管理計画も! あれがなくなれば、アルヴェインは夏前に立ち行かなくなるぞ」
「嫌味な言い方をするな」
父に叱られつつも、その発想自体は否定されなかった。エレノアも静かに思う。たしかに、彼女が組み上げた人の流れや記録の仕組みは、表から見えにくいぶん、失われたときに効いてくる。
――でも、それでいい。
彼女は復讐がしたいわけではなかった。ただ、自分の労力と知識を当然のように消費される関係は、もう終わりにしたいだけだ。
その夜、王都には春の雨が降った。
寝室の窓で雨音を聞きながら、エレノアは机に向かい、婚約解消確認書に署名した。名前を書き終えたあと、銀のペーパーナイフで封をすると、不思議なくらい指先が軽かった。
喪失が消えたわけではない。
けれど、傷の中に少しだけ空気が入った気がした。
もしかしたら私は、今ようやく、自分の人生を始めるのかもしれない。
そんな考えが浮かんでは消え、彼女はランプを消した。
雨は夜明けまで降り続いた。
ローズウッド領は、王都から馬車で二日半の場所にある。
春の雨上がり、街道沿いには若草が萌え、所々に白い小花が群れていた。車窓から流れる景色を見ながら、エレノアは久しぶりに肩の力を抜いていた。
同行するのは侍女クララと、執事補佐のモーリス、護衛騎士二名。侯爵家の娘の移動としては必要最低限だが、彼女にとっては十分だった。
王都を発つ朝、母は抱きしめてくれたし、弟は「何かあったらすぐ呼んで」と三度も念を押した。父は口数少なく見送ったが、「困ったら一人で判断するな」とだけ言った。その声音には信頼と心配が半分ずつ入っていた。
「お嬢様、少しお休みになりますか」
クララが毛布を整えながら尋ねる。
「いいえ、もう少し外を見ていたいわ」
「……王都より、空が広いですね」
「ええ」
それは本当だった。王都の空は立派な建物に切り取られているが、田園の空はどこまでも続いている。閉じ込められていた視界が開いていくようで、胸が少し楽になる。
午後遅く、馬車はローズウッド邸へ到着した。
領主館というより、広い庭園つきの実務屋敷といった趣きだ。壮麗さより管理のしやすさを優先して建てられた屋敷で、裏手には温室群と薬草園、乾燥小屋、蒸留室まで備えている。エレノアが十代の頃から理想を詰め込んだ場所だった。
出迎えに現れたのは、現地管理を任せていた年配の女性、ハンナだ。
「お嬢様、お待ちしておりました」
「ただいま、ハンナ」
その一言に、ハンナの表情がふっと和らいだ。
「ええ、お帰りなさいませ」
ただいま――その言葉が、胸に優しく落ちる。
王都の侯爵邸も家なのに、不思議とここでは“戻ってきた”感覚が強かった。たぶん、ここは彼女自身の手で整えてきた場所だからだろう。未来の誰かのためではなく、今日ここで働く人々と、ここから届ける薬のために。
食堂では、働き手たちが小さな歓迎会を用意してくれていた。焼きたてのパン、野菜のスープ、蜂蜜をかけた白いチーズ。豪奢ではないが、どれも温かい。
「春植えの進み具合は?」
夕食の席でエレノアが尋ねると、ハンナは帳面を開いた。
「順調です。ですが、王都の植物園へ送る予定だった苗の一部は、先方から受け取り延期の連絡がありまして」
「延期?」
「はい。責任者交代で現場が少々混乱しているとか」
エレノアは眉を上げたが、すぐ事情を察した。王立植物園には彼女の管理手法がかなり入り込んでいた。婚約解消の余波で、アルヴェイン公爵家が圧力をかけてきたのかもしれない。
「では、その苗はここの北区画へ回しましょう。耐寒種の交配試験に使えます」
「かしこまりました」
「乾燥室の稼働は?」
「先月から増やしています。辺境の診療所から、痛み止めの葉の追加要請が」
「それも対応します。明日、全体の在庫を確認しましょう」
やることを口にしていると、不思議なくらい気持ちが落ち着いた。誰かに与えられた役目ではなく、自分で選んだ仕事がある。それだけで人は、立っていられるのだ。
翌朝、エレノアは日の出とともに薬草園へ向かった。
露を含んだ土の匂い。木枠を伝うつる植物。温室のガラスに白く光る朝日。しゃがみこんで新芽を確かめると、指先に命の柔らかさが伝わる。
「やっぱり、ここが好きだわ」
独り言のように呟くと、クララが少し離れたところで微笑んだ。
その日の午前は、働き手たちと一緒に植え付けを行った。午後には乾燥室で品質確認をし、夕方には孤児院から来ている年長の子どもたちに簡単な識別講習までした。
「これは見た目が似ているけれど、こちらは煎じても問題ない葉。こっちは量を間違えると危険よ。葉脈の入り方を見て」
「お嬢様、同じに見えます」
「最初はそうよ。だから触って覚えるの」
子どもたちが真剣な顔でうなずく。その横顔を見ているうちに、エレノアの心の奥に、王都で失ったものとは別のあたたかさが灯っていく。
夕暮れ、仕事を終えて温室の扉を閉じようとしたときだった。
表門から、見慣れぬ紋章の馬車が入ってくるのが見えた。
グレー地に銀の狼。
ハイデン辺境伯家の紋章だ。
「どうして……?」
やがて馬車が止まり、ルシアン・ハイデンその人が降りてきた。王都で見た礼装ではなく、旅装の上に薄手のマントを羽織った姿だ。北方の人間らしく無駄のない身のこなしで、屋敷の方へではなく、まっすぐ温室のあるこちらへ向かってくる。
「突然の訪問をお許しください、レディ・エレノア」
「辺境伯。ローズウッドへ何のご用件で?」
「取引の相談です」
風が、白薔薇の香りを運んだ。
ルシアンは温室を見渡し、手にしていた革筒を差し出した。
「北方診療隊からの正式依頼書です。昨年あなたが調整した鎮咳用の混合薬が非常に有効でした。今年は流行り病の兆しがあり、早めに量を確保したい」
エレノアは革筒を受け取り、書面に目を通した。たしかに正式な依頼書だ。数量はかなり多い。だが不可能ではない。
「王都の商会を通せばよろしいのでは?」
「通しました。しかし、途中で妙な値上がりが生じている」
ルシアンの目が細くなる。
「誰かが中間で薬草を買い占め、価格を吊り上げている。実需ではなく、政治的な意図を感じる」
エレノアは書面から顔を上げた。
「……アルヴェイン公爵家ですか?」
「断定はしません。ただ、あなたの婚約解消直後から動きが出ている」
空気が少し冷えたように感じた。
王都での騒ぎは、単なる痴話や社交上のもつれでは終わらないかもしれない。もし薬草流通にまで手が伸びているなら、被害を受けるのは病人や現場の診療所だ。
「こちらとしては、ローズウッドと直接契約したい。適正価格で、継続的に」
ルシアンは言った。
「あなたが嫌でなければ」
その最後の一言が、エレノアを少し驚かせた。
彼は常に合理的に話す。しかし今の発言だけは、わずかに彼女の意思を尊重するやわらかさが混じっていた。命に関わる話なら本来、迷っている暇などない。なのに彼は“嫌なら断っていい”という余地を残したのだ。
「……嫌ではありません」
エレノアは答えた。
「むしろ、お役に立てるなら」
ルシアンは小さくうなずいた。
「なら、詳細を詰めたい。今夜、少し時間をいただけますか」
「ええ。夕食後でしたら」
そのやり取りを横で聞いていたクララが、あとになってこっそり囁いた。
「ハイデン辺境伯様、王都でお見かけしたときより、ずっと優しい方に見えますね」
エレノアは少しだけ笑った。
「優しい、というより……誠実なのだと思うわ」
その夜、執務室で向かい合って書類を広げながら、エレノアは何度もそう感じた。
ルシアンは感情で押し切らない。必要な数字を示し、輸送経路の安全性を確認し、相手の負担も織り込んで話す。交渉なのに、対立ではなく“どうすれば両方にとって最善か”を探す話し方だった。
「北方へ送るなら、乾燥工程を一段増やした方が保存性が上がります」
「その分、香気成分は減るか?」
「少しだけ。でも鎮咳効果を維持する配合に変えれば問題ありません」
「配合表を書いていただけると助かる」
「今ここで?」
「あなたがよければ」
エレノアはペンを取り、さらさらと処方案を書き始めた。ルシアンはその手元を黙って見ていたが、しばらくして言った。
「あなたは、噂どおりの人ではないですね」
ペン先が止まる。
「噂では、どんな人になっているのです?」
「感情に乏しく、冷たく、他人を駒のように使う女」
あまりに露骨で、かえって苦笑したくなった。
「ずいぶんひどい評価ですこと」
「ええ。ひどすぎて、実物と結びつかない」
ルシアンの声に茶化しはなかった。
「私は王都の庭園で、あなたが侍女を気遣うのを見た。今日も、働き手の少年が誤って苗を倒したとき、叱る前に怪我がないか確認した。冷たい人間は、そういう順番で動かない」
エレノアは目を伏せた。
「……見ていたのですね」
「見るべきところは見ます」
それは褒め言葉のようでもあり、ただ事実を述べているだけのようでもあった。だが妙に胸に残った。
王都では彼女を“できる女”として見る人は多かったが、“どういう順番で気にかける人か”まで見てくれる者は少なかった。
書類仕事を終えるころには、夜半近くになっていた。
席を立ったルシアンは、最後にこう言った。
「レディ・エレノア。ひとつだけ、私見を」
「何でしょう」
「婚約解消は、あなたの価値を示すものではありません」
あまりにもまっすぐな言葉に、エレノアは一瞬返事を失った。
ルシアンは続ける。
「手放した側が損をしたかどうかは、これからわかる。ですが少なくとも、あなたが粗末に扱われてよい人間でないことは、今日一日で理解できた」
それだけ言うと、彼は礼をして部屋を出ていった。
扉が閉まったあとも、エレノアはしばらく立ち尽くしていた。
胸のどこかに触れてはいけない場所があって、そこへ静かに手を置かれた気がしたのだ。
婚約を失ってから初めて、彼女は自分の中に“怒り”ではない熱を見つけた。
それは、たぶん救われるという感覚に近かった。
ローズウッドでの生活は、忙しくも穏やかだった。
北方診療隊との契約がまとまり、薬草園はにわかに活気づく。増産のため新しい雇用も生まれ、孤児院の若者たちには乾燥加工や帳簿補助の仕事が回るようになった。エレノアが長く目指していた“支援ではなく自立につながる仕組み”が、少しずつ形になっていく。
一方、王都から届く手紙は、穏やかではなかった。
――アルヴェイン公爵家が、婚約解消に関する社交上の説明を開始。
――ミレイユ・サフォーク嬢が、公爵家主催の茶会に同席。
――一部貴族の間で、エレノアによる「不適切な資金管理」の噂が拡大。
クララは手紙を読み上げるたび険しい顔になるが、エレノアは以前ほど揺れなくなっていた。
「噂は風よ」とハンナが言ったことがある。「ただし、風向きを変えるには、火元を見つけないとね」
火元。
それが誰なのか、エレノアにも見え始めていた。
ある日、父から送られてきた書類の中に、見覚えのある名前があった。
**オズワルド・ブレナー**
王立植物園の副管理官で、事故当日に現場責任を担っていた男だ。三年前、植物園の管理刷新に伴ってアルヴェイン公爵家の推薦で入った人物でもある。
「この人が?」
クララが目を丸くする。
「事故報告書の署名者です。お嬢様が命令を出した、と」
「でも、当日お嬢様は侯爵夫人様のお茶会に出てらしたじゃありませんか。出席名簿にも残ってるのに」
「そう。だからおかしいの」
エレノアは書類をめくった。すると、支援金の帳簿にも奇妙な点がある。王都の慈善委員会を経由した本来の送金額と、植物園側が記録した受領額の間に、微妙な差があったのだ。ごく少額を何度にも分けて抜いている。大きな不正に見せず、管理ミスに紛れ込ませるには都合がいいやり方だ。
「これは……」
「たぶん、単独犯ではありません」
そこへノックの音がし、モーリスが入ってきた。
「失礼いたします。お嬢様、北方からの使者が」
応接室に向かうと、訪ねてきたのはルシアンの部下である女性騎士、セラだった。背の高い褐色の肌の女性で、きびきびした所作が印象的だ。
「ハイデン辺境伯より書簡を預かっております」
封を切ると、簡潔な筆跡が現れる。
> 王都の薬草市場で、サフォーク男爵家に紐づく商会が急速に台頭している。
> 買い占めに用いられた資金の流れの一部に、植物園関係者の名がある。
> 詳細は対面で説明したい。可能なら近日ローズウッドへ伺う。
エレノアは顔を上げた。
「辺境伯は今どちらに?」
「本日夕刻にはこちらへ到着予定です」
「……早いわね」
「閣下は必要なときにしか動きません。必要だと判断されたのでしょう」
セラは淡々と言ったが、その声音には主君への信頼がにじんでいた。
夕方、ルシアンが再びローズウッドへ来た。
今回は執務室ではなく、エレノアの希望で温室の横の小さな談話室を使った。殺風景な机上より、植物の香りがあるほうが落ち着く気がしたのだ。
ルシアンは持参した資料を広げる。
「結論から言います。あなたに罪を着せた件と、薬草買い占めは、おそらく同じ線上にある」
「サフォーク男爵家……つまり、ミレイユ嬢のご実家が?」
「表向きはそう見えますが、男爵家だけでこの規模の資金は動かせない。背後に別の後ろ盾があるはずです」
「アルヴェイン公爵家?」
「可能性はある。ただし、セドリック本人がどこまで知っているかは別問題です」
エレノアはこめかみに指を当てた。
「彼は利用されているだけ、ということですか」
「あるいは、自分に都合のいい話だけを見ている」
身も蓋もないが、その通りだと思った。
ルシアンはさらに一枚の書状を差し出した。差出人は王都の会計監査局の補佐官。北方との契約に関する確認という建前で得た情報らしい。
「植物園副管理官ブレナーが、数か月前からサフォーク男爵家の商会と私的な接触を繰り返していた」
「やはり……」
「加えて、あなたの支援金の帳簿が書き換えられた時期と、その接触時期が一致する」
談話室の窓の外で、夕陽が温室のガラスを赤く染めていた。
エレノアはしばらく黙ったあと、低く言った。
「私ひとりを陥れるために、そこまでするとは思えません」
「ええ。あなた個人への悪意だけではない」
ルシアンの指が資料の一点を示す。
「ローズウッドの薬草園は、品質管理と価格の透明性で他商会の脅威になっていた。あなたが王都の植物園と公爵家事業に関わっていたからこそ、手を打たれた可能性が高い」
「私を外し、流通を握るため……」
「そう。婚約解消は、感情劇に見せかけた切り離しだ」
ぞっとした。
もちろん、セドリックの心がミレイユに傾いたこと自体は事実だろう。だがその感情さえ誰かの思惑に利用されていたとしたら? “真実の恋”に酔う若き公爵令息を前面に出し、その裏で金と品を動かす者がいたのだとしたら。
エレノアは無意識に手を握りしめていた。ルシアンが静かに言う。
「怒るのは当然です」
「……怒っています、ええ。とても」
「なら、どうします」
問いは穏やかだった。煽るでも咎めるでもなく、ただ選ばせるように。
エレノアは胸の内を確かめた。
泣き寝入りはしない。けれど、ただ仕返しがしたいわけでもない。守りたいのは名誉だけではなく、現場の暮らしだ。薬が必要な人々がいて、働く場を得た若者たちがいて、ここでようやく回り始めた仕組みがある。
「証拠を集めます」
彼女ははっきりと言った。
「私個人の潔白だけではなく、流通の操作と不正経理を立証したい。そうでなければ、同じことが何度でも起こる」
ルシアンの目が、わずかにやわらぐ。
「あなたならそう言うと思った」
「褒めているのですか?」
「ええ。かなり」
その答えに、エレノアは少しだけ笑った。
するとルシアンは、真面目な顔のまま続けた。
「では協力します。北方の商会網と、会計監査局に貸しのある人間を動かす。ただし条件がある」
「条件?」
「無理をしすぎないこと。あなたは疲れると、自分の限界を忘れる」
思いがけない言葉に、エレノアは目を見開いた。
「私、そんなふうに見えますか」
「かなり」
まただ。冷静に、当たり前のように、彼は彼女をよく見ている。
王都にいた頃は、誰もがエレノアの“できる部分”ばかり見た。崩れないことを期待し、頼り、当然のように仕事を渡した。けれどルシアンは、彼女が無理をする癖まで見抜いている。
「……気をつけます」
「気をつけるだけでは不十分です。倒れたら意味がない」
「厳しいのですね」
「北の冬よりはましです」
その返答に、思わず吹き出した。
笑うと、胸の重さが少し軽くなる。こんなふうに自然に笑えたのは、いつ以来だろう。
その夜、証拠集めの計画が具体的に決まった。
まず、王都の会計監査局に不自然な差額の調査を依頼する。次に、植物園副管理官ブレナーとサフォーク商会の取引記録を押さえる。並行して、ミレイユがどの程度事情を知っていたかを探る。
「彼女が主犯だとは限りません」
エレノアが言うと、ルシアンはうなずいた。
「同意します。だが、少なくとも“無垢な被害者”ではないでしょう」
「なぜそう思うのです?」
「あなたの悪評が広まる速度です。偶然ではありえない」
たしかに。噂は自然発生したにしては整いすぎていた。“冷たい女”“金に汚い”“善意を踏みにじる”。まるで人の嫌悪を引き出すため、あらかじめ選ばれた言葉のように。
話し合いが終わるころ、外はすっかり暗くなっていた。
談話室を出ると、温室の白薔薇が月明かりの中でぼんやり浮かんでいる。エレノアはその一輪に触れ、息をついた。
「辺境伯」
「何でしょう」
「私……最初は、全部終わったと思っていました」
ルシアンは黙って聞いている。
「婚約も、努力も、未来も。大切に積み上げてきたものが、一日で壊れた気がして」
「ええ」
「でも今は、終わったのではなく、見えていなかったものが表に出ただけなのかもしれないと思っています」
彼は少し考えてから言った。
「終わりと始まりは、たいてい同じ場所にあります」
その言葉は、夜気の中で不思議なくらいまっすぐ届いた。
エレノアは白薔薇を見つめたまま、小さくうなずいた。
そうだ。ここからだ。
崩されたなら、作り直せばいい。奪われた名誉は取り戻せばいい。信じてくれなかった人に縋る必要などない。
私の人生は、まだこれからなのだから。
転機は、初夏の仮面舞踏会に訪れた。
毎年この時期、王都では王家主催の大規模な夜会がある。形式上は季節の祝宴だが、実際には社交界の力関係がもっとも露骨に見える場でもある。誰が誰と踊り、誰が誰を無視し、どの家が誰を歓迎するか――そのすべてが政治だった。
フェアチャイルド侯爵家にも招待状は来た。通常なら、婚約解消直後の令嬢がそんな場に顔を出すことは少ない。噂の的になるだけだからだ。
だが今回は違う。
父が言った。
「出るぞ」
弟が言った。
「当然だ」
母は微笑んだ。
「一番きれいなドレスを仕立てましょう」
エレノアはその瞬間、家族の戦い方を知った気がした。縮こまるのではない。堂々と立つのだ。こちらにやましいことは何ひとつないのだから。
そして、ルシアンからも短い書簡が届いた。
> 私も出席します。必要なら、隣に立ちます。
たった一行なのに、妙に心強かった。
夜会当日、エレノアは白銀のドレスをまとった。華美ではないが、月光を思わせる生地に、ローズウッドで咲く白薔薇の刺繍が裾にほどこされている。髪は高く結い上げ、真珠の耳飾りだけをつけた。
鏡の前の自分は、少しだけ知らない女に見えた。
弱っている被害者でも、捨てられた元婚約者でもない。傷を抱えたまま前を向く女の顔だ。
会場に入った瞬間、いくつもの視線が向けられた。さざ波のようなざわめき。哀れみ、興味、値踏み――そのすべてが肌に触れる。
けれどエレノアは微笑みを崩さなかった。
侯爵夫妻とともに挨拶を済ませ、何人かの貴婦人と会話を交わす。意外にも、露骨な冷遇は少なかった。むしろ「お元気そうでよかった」と声をかけてくる者もいる。噂だけでは判断せず、態度を保留していた層が一定数いたのだろう。
やがて会場の反対側がざわめいた。
セドリック・アルヴェインが、ミレイユ・サフォークを伴って現れたのだ。
ミレイユは淡い金色のドレスを着ていた。可憐で、儚げで、今夜の主役のように周囲の視線を集めている。セドリックは以前よりやや痩せて見えたが、相変わらず整った容貌で、人々は彼らを“新しい恋の象徴”として歓迎しているようだった。
エレノアは不思議と胸が騒がなかった。
かつてなら痛んだだろう光景が、今は遠い絵のようだ。ただ、どこか歪んで見える。幸福な恋人たちというには、セドリックの目があまりにも落ち着かない。
「レディ・エレノア」
振り向くと、ルシアンがいた。
今夜の彼は黒の礼装に銀糸の刺繍をまとい、北の貴族らしい厳格さの中に洗練を宿していた。仮面を片手に持ったまま、彼は軽く頭を下げる。
「お似合いです」
「ありがとうございます、辺境伯。あなたも」
「今夜は護衛も兼ねています」
「頼もしいわ」
その返答に、彼の口元がほんの少しだけ緩んだ。
二人で並んでいると、視線の質が変わるのがわかった。哀れみよりも、驚きと警戒。北方辺境伯は王都では外様だが、同時に侮れない実力者でもある。その彼がエレノアの隣に立っていること自体、ひとつの声明なのだ。
音楽が変わり、第一舞踏が始まる。
「踊っていただけますか」
ルシアンが手を差し出した。
「あなたと踊るのは、少し緊張します」
「私も慣れてはいません」
「嘘がお下手ですね」
「……見抜かれましたか」
笑いながら手を重ねると、彼の手が思いのほか温かかった。
ホールの中央で踊り始めると、あちこちから視線が集まる。だが不快ではない。ルシアンのリードは堅実で、派手さはない代わりにひどく安心感がある。見せつけるためではなく、相手を転ばせないために踊る人だ。
一曲の終わり際、会場の端で小さな騒ぎが起きた。
会計監査局の役人が、王家の法務官を伴って到着したのだ。
ざわめきが広がる中、王家側近の侍従長が高らかに告げた。
「慈善資金および王立植物園に関する不正調査のため、関係者数名に対し聞き取りが行われます」
セドリックの表情が凍りついた。
ミレイユの顔色も、ひどく悪くなる。
エレノアは息をついた。父が動き、ルシアンが動き、監査局の証拠が整ったのだ。今日この場が選ばれたのは、逃げ道を塞ぐためでもある。
まず呼ばれたのは、副管理官オズワルド・ブレナーだった。彼は最初こそしらを切ったが、提出された帳簿の写しと商会との金銭授受記録を前に、次第にしどろもどろになる。
「この署名はあなたのものですね」
「そ、それは……業務上の裁量で」
「ではなぜ、慈善資金の差額があなたの私設口座を経由していたのです?」
会場の空気が凍る。
さらに、サフォーク男爵家の名義を使った買い占めの伝票も提示された。複数の商会が裏でつながり、価格操作をしていた証拠だ。
ミレイユが震える声で言った。
「わ、私は知りません……! お父様が勝手に……」
そのとき、ひとりの老婦人が前へ出た。
アルヴェイン公爵夫人だ。
彼女は厳しい顔でミレイユを見た。
「ならばなぜ、あなたは私に“エレノアは会計に疎く、現場任せにしているから、いずれ問題になる”と繰り返し吹き込んだのです」
ミレイユの顔から血の気が引いた。
会場がざわめく。
公爵夫人は続ける。
「最初は若い娘の無邪気な心配かと思っていました。だが、あなたは何度も同じ話をした。息子にも。使用人にも。そして偶然とは思えぬほど、あなたの言葉通りの噂が広がった」
「それは……!」
「エレノアは私の義理の娘になるはずだった方です。彼女の勤勉さを、私は知っています」
その一言は、遅すぎるとはいえ、重かった。
セドリックがまるで初めて聞くような顔で母を見た。
「母上……なぜ今まで……」
「あなたが聞かなかったからです」
冷え切った声だった。
「あなたは恋に浮かれていた。都合の悪い助言を“嫉妬深い年寄りの偏見”と切り捨てた」
その言葉は、刃のようにセドリックへ刺さった。
彼の視線が、ゆっくりとエレノアへ向く。そこには怒りでも軽蔑でもなく、打ちのめされた人間の顔があった。
「エレノア……私は……」
だが彼女は、もうその続きを待っていなかった。
法務官はさらに事実を読み上げる。ブレナーとサフォーク男爵家の癒着。買い占めによる価格つり上げ。慈善資金の差額操作。そして、温室事故の責任転嫁。
最後に、会計監査局の補佐官がはっきりと告げた。
「以上の調査により、レディ・エレノア・フェアチャイルドに対する資金流用および過失責任の疑いは、虚偽であると判断されます」
静寂。
その一瞬の沈黙が、嵐より大きく感じられた。
そして次の瞬間、会場は爆発したようにざわめいた。
誰かがミレイユを非難し、誰かがブレナーを罵り、誰かがアルヴェイン家の失態を囁く。だがその喧騒の中で、エレノアの周囲だけは奇妙に静かだった。
ルシアンがそっと言う。
「終わりましたね」
エレノアは首を横に振った。
「いいえ」
彼女はまっすぐ前を見た。
「終わらせるのは、これからです」
舞踏会の翌日、王都は大騒ぎになった。
新聞はこぞって「慈善資金不正」「植物園副管理官の背任」「サフォーク商会の価格操作」を報じ、社交界では一夜にして風向きが変わった。昨日までミレイユを庇っていた者たちが急に距離を取り、エレノアに愛想よく挨拶を寄越してくる。
だが彼女は、それを喜ばしいとは思わなかった。
風向きが変わっただけだ。真実が重んじられたというより、勝ち馬が入れ替わったにすぎない。だからこそ、今後をどう整えるかが重要だった。
侯爵邸の応接室で、父は書類を並べて言った。
「サフォーク男爵家には処分が下る。商会の営業停止と罰金、場合によっては爵位返上もありうる。ブレナーは逮捕された」
「ミレイユ嬢は?」
母が尋ねる。
「関与の程度を調査中だ。直接の横領記録はないが、噂拡散と虚偽証言の誘導が認められれば社交界からの追放は避けられまい」
エドガーが鼻を鳴らした。
「当然だ」
エレノアは黙っていた。
そのとき、執事が来客を告げる。
「アルヴェイン公爵令息セドリック様がお見えです」
室内の空気が張りつめた。
母が不快そうに眉を寄せ、弟は今にも断れと言い出しそうだった。だが父は一度エレノアを見てから判断を委ねるように言った。
「会うか?」
少しだけ迷った末、エレノアは答えた。
「会います」
応接室に通されたセドリックは、一晩で別人のように見えた。
目の下には薄く隈があり、いつも整えられていた金髪もどこか乱れている。高慢さや自信に満ちた立ち姿は影を潜め、彼は入るなり深く頭を下げた。
「……お時間をいただき、ありがとうございます」
父は冷ややかに応じる。
「用件を」
セドリックは唇を結び、それからエレノアへ向き直った。
「謝罪に来た」
言葉は短く、けれど掠れていた。
「私は、君に取り返しのつかない侮辱をした。事実を確かめず、周囲の言葉に流され、君を信じなかった。婚約者として、人として、最低の振る舞いだった」
エレノアは何も言わなかった。
かつて夢中で見つめていた人が、今はひどく遠い。彼が謝っていることは理解できる。誠意も、きっとあるのだろう。だがそれは、壊れたものを元通りにはしない。
セドリックは続ける。
「もし許されるなら、婚約解消を撤回したい。いや、こんなことを言う資格がないのはわかっている。だが私はようやく、自分が何を失ったのか理解した」
エドガーが椅子を蹴るように立ち上がった。
「ふざけるな!」
「エドガー、座りなさい」
父の声で、弟は歯を食いしばりながらも座る。
セドリックはその怒りを受け止めるように目を閉じた。
「当然だ。何を言われても仕方がない」
「そこまで理解していながら、なお口にするのですね」
エレノアはようやく口を開いた。
「撤回したい、と」
セドリックは痛ましい顔でうなずいた。
「……愛していたんだ」
その言葉に、エレノアは静かに首を傾げた。
「本当に?」
「エレノア」
「あなたが愛していたのは、あなたにとって都合のいい“正しい世界”ではありませんか」
部屋がしんとした。
「有能で、隙がなく、何でもそつなくこなす婚約者。けれど同時に、少し冷たくて可愛げがないと思えば、突然現れた“守りたくなる娘”へ心が傾いていく。そうやって、あなたは自分の感情に都合よく物語を作った」
セドリックの顔がみるみる青ざめる。
エレノアは淡々と続けた。
「もし本当に私を愛していたなら、一度くらい確かめたはずです。帳簿を。事故当日の所在を。私の言葉を。あなたは何一つしなかった」
「それは……!」
「私が何年あなたを支えてきたか、あなたは知っていたでしょう。それでも一瞬で疑えた。その事実が、すべてです」
セドリックは反論できなかった。拳を握りしめ、うつむいたまま震えている。
エレノアは不思議と穏やかだった。怒りをぶつけたいわけではない。ただ、ここを曖昧にすると、自分がまた“理解のある女”を演じてしまうとわかっていた。
「謝罪は受けます」
彼女は言った。
「けれど、婚約は戻りません」
セドリックがゆっくり顔を上げる。目に薄い涙が浮かんでいた。
「……二度と、だめか」
「ええ」
「やり直すことも?」
「やり直しは、壊した側が望む言葉です」
その一言は、部屋の空気ごと切った。
セドリックは息を呑み、言葉を失う。母が静かに目を伏せ、父は無表情のまま腕を組んでいた。弟だけが、姉を見つめる目に強い敬意を宿している。
エレノアは続けた。
「私たちは、楽しかったこともあった。あなたに感謝している過去もあります。だからこそ、憎み合って終わりたいわけではありません」
「なら……」
「でも、それと結婚は別です」
彼女ははっきりと言った。
「私は、私を信じない人と一生を共にできません」
セドリックの肩が、がくりと落ちた。
その姿は哀れでもあり、どこか当然でもあった。過去のエレノアなら、この弱った顔に胸が痛んだかもしれない。庇ってしまったかもしれない。けれど今は違う。
同情はしても、自分を差し出す理由にはならない。
長い沈黙のあと、セドリックは絞るように言った。
「……わかった」
彼は深く頭を下げた。
「二度と、君の前に軽々しく現れない。せめて、名誉回復のために必要なことがあれば協力する」
「ありがとうございます」
「それから」
セドリックはかすかに笑った。ひどく苦い笑みだった。
「白薔薇の温室。君が抜けてから、半月で回らなくなった」
エレノアは少し目を瞬いた。
「そう」
「君が当たり前にしていたことが、何一つ当たり前ではなかったと、遅すぎるほど思い知った」
彼はそれだけ残して去っていった。
扉が閉まると、エドガーが勢いよく息を吐く。
「……よく言った、姉上」
母もそっとエレノアの手を握る。
「あなた、本当に強くなったわ」
「強く……なれたのかしら」
「ええ」と父が言った。「少なくとも、自分を安売りしなくなった」
その言葉に、エレノアはようやく微笑んだ。
謝罪に意味がないとは言わない。誤りを認めることは大切だ。だが謝罪は、受ける側が未来を差し出す義務を生むものではない。
許すことと、戻ることは違うのだ。
その日の夕方、侯爵邸の庭を歩いていると、門の近くでルシアンの姿を見つけた。来客の列から少し離れ、静かに待っている。
「辺境伯」
「終わったようですね」
「ええ」
「どうでしたか」
エレノアは少し考え、それから正直に答えた。
「悲しくはありました。でも、後悔はしていません」
ルシアンはうなずく。
「それで十分です」
しばらく庭を並んで歩く。薔薇の季節が近く、つぼみがいくつも膨らんでいる。
「あなたに、少しだけ報告が」
ルシアンが言った。
「北方診療隊から感謝状が届きました。あなたの配合した薬で、今年の流行り咳の重症化がかなり抑えられたそうです」
「本当ですか」
「ええ。診療隊長が『白薔薇の薬師に礼を』と」
エレノアは胸の奥がじんと熱くなった。
王都で何を言われようと、自分の仕事は確かに誰かの役に立っていた。その事実は、何より強かった。
「……嬉しい」
「そう言うと思いました」
風が吹き、庭の若葉が揺れる。
ルシアンは少し間を置いてから言った。
「ところで、ひとつ私情を挟んでも?」
エレノアは彼を見上げた。
「珍しいですね。どうぞ」
彼は珍しく、ほんのわずか言い淀んだ。
「あなたが過去に戻らないと聞いて、安心しました」
鼓動が、一拍だけ強く打った。
けれどルシアンはそれ以上踏み込まず、ただ静かに視線を逸らした。エレノアも、すぐには返事ができなかった。
夕方の光の中で、薔薇のつぼみがふくらんでいる。
まだ咲かない。だが確かに、季節は変わろうとしていた。
事件は終わったはずだった。
少なくとも王都の人間たちは、そう思っていたかもしれない。犯人の一部は捕まり、真相も表に出た。婚約解消は完全に無効にならないものの、エレノアの名誉は回復された。社交界は新しい噂へ移っていくだろう。
だが現実は、そんなに簡単に片づかなかった。
ローズウッドに戻って半月後の深夜、温室の一つから火が上がった。
「火事です!」
叫び声に飛び起きたエレノアは、上着も羽織らず部屋を飛び出した。夜気に混じって焦げたにおいが鼻を刺す。温室群の南端、育成試験に使っていた区画だ。
「水を! 乾燥室には近づけないで!」
ハンナの指示が飛ぶ。使用人たちと働き手が列を作り、井戸から水を運ぶ。護衛騎士が扉を破り、延焼を食い止めようとする。エレノアも駆け寄ろうとして、クララに腕を掴まれた。
「お嬢様、危険です!」
「でも中に記録帳が――」
「モーリスが取りに行きました!」
火は幸い、温室一棟を焼くだけで収まった。だが夜明け前、焼け跡に立ったエレノアは唇を噛みしめるしかなかった。試験中だった耐寒種の苗の多くが失われ、乾燥前の葉も一部だめになっている。
「自然発火ではありません」
灰を調べた護衛騎士が言った。
「油の痕があります。誰かが意図的に火をつけた」
胸が冷えた。
ここまで来て、まだ終わっていないのだ。帳簿と噂だけではない。今度は物理的に、彼女の仕事を潰しにきた。
午前のうちに父へ報せを送り、近隣の衛兵詰所にも通達を出した。夕方には、聞きつけたルシアンが自らやってきた。
焼け跡を見た彼の目が、これまでにないほど冷たくなる。
「怪我人は」
「軽傷が二人。煙を吸っただけで済みました」
「それならよかった」
そう言いながらも、声には押し殺した怒りがあった。
エレノアは灰になった棚を見つめる。
「もう罰は決まったはずなのに」
「末端を処分しただけでは、主導した側が残ることがあります」
「……サフォーク男爵家の残党?」
「あるいは、その背後」
ルシアンはしゃがみ込み、焼け焦げた地面を指でなぞった。
「これだけ手際がいいなら、素人ではない。誰かに雇われた可能性が高い」
「私を黙らせたいのかしら」
「あるいは、あなたの事業を潰したい」
エレノアは目を閉じた。怒りより先に、悔しさが押し寄せる。ここで働く人たちの努力を、こんなふうに踏みにじられるなんて。
「再建します」
彼女は低く言った。
ルシアンが顔を上げる。
「もちろん警備は強化する。でも、それだけじゃない。絶対に立て直します。相手が望んでいるのは、私が諦めることだから」
しばらく彼女を見つめた後、ルシアンは立ち上がった。
「なら、私も手を貸す」
「辺境伯」
「木材なら北方から耐寒処理済みのものを回せる。温室の構造も見直した方がいい。火と湿気に強い設計に変える」
「そこまでしていただくわけには……」
「できます」
彼ははっきり言った。
「私は、あなたの仕事が失われるのを見たくない」
この人は、肝心な時にいつも迷いなく言う。
弱っている心に、まっすぐな言葉は痛いほど染みる。エレノアは視線を落とし、焼け跡の中の白く焦げた鉢を見る。昨日までそこに、新芽があった。
「……悔しいのです」
「ええ」
「せっかくここまで来たのに。ようやく、自分の足で立てると思ったのに」
「あなたは立っています」
ルシアンの声は静かだった。
「倒れていない。泣きながらでも、前を見ている。それを立っていると言います」
その言葉で、張りつめていたものが少しだけほどけた。
気づけば、エレノアの目には涙がにじんでいた。泣くつもりはなかったのに、ぽろりと一粒落ちる。
「……私、最近よく泣くわ」
「いいことです」
「そうですか?」
「以前はたぶん、我慢しすぎていた」
エレノアは涙をぬぐい、小さく笑った。
その日の夜、再建計画が始まった。ルシアンは本当にその場に残り、温室の図面を一緒に引きなおした。火に弱い木枠を減らし、区画ごとに遮断しやすい構造へ変える。水路も増やす。資材輸送の段取りまで、彼は驚くほど具体的だった。
「……あなた、本当に何でもできますね」
「辺境では、“できない”と言っても雪は待ってくれません」
「便利な名言ですね、それ」
「真理です」
作業が一段落した深夜、二人は温室脇のベンチで冷めた紅茶を飲んだ。
月は細く、夜気はまだ少し冷たい。焦げた匂いの中に、別の温室から漂うカモミールの甘い香りが混じる。
「辺境伯」
「はい」
「どうして、そこまで私に親切なのですか」
ルシアンは少し黙った。
彼にしては珍しく、答えを選ぶ沈黙だった。
「最初は、恩返しでした」
「白薔薇の苗の?」
「ええ。北の診療所で多くの命が助かった。だから、あなたが困っているなら助けるのは当然だと思った」
「今は?」
ルシアンは紅茶のカップを見つめたまま、低く言う。
「今は、あなた個人に報いたい」
心臓が、ふいに強く鳴った。
「あなたは、何かを与えることには慣れている。けれど受け取ることには不器用だ。誰かに頼ることも、弱音を吐くことも、たぶん昔から下手だったのでしょう」
「……否定できないわ」
「だからこそ、私はあなたが譲らなくていい場面では、横にいたいと思う」
エレノアは言葉を失った。
それは恋だとか愛だとか、そういう直接的な言葉ではない。けれどそのぶん、ずっと深く響く。彼は彼女の役に立ちたいのではなく、彼女の人生が損なわれるのを望まないと言っているのだ。
「ずるいですね」
やっと絞り出した言葉に、ルシアンが目を上げる。
「何がです?」
「そんなふうに言われたら、頼りたくなるでしょう」
すると彼は、かすかに笑った。
「それが狙いです」
その微笑みを見た瞬間、エレノアははっきり知った。
自分の心はもう、過去の婚約者のところにはない。
いつからか、この無口で誠実で、必要なときにだけまっすぐ現れる人の言葉に救われてきたのだ。
夜明け前、温室再建のための最初の杭が打たれた。
白薔薇は焼けなかった棟で、変わらず咲いている。
失ったものは痛い。けれど、灰の上からでも、育ち直す命はある。
エレノアはそのことを、もう知っていた。
放火事件をきっかけに、捜査はさらに深まった。
数日後、父から密書が届く。犯行に使われた油の購入記録から、王都の下級貴族の一人が浮上したという。その名は、ヴィンセント・レイス子爵。アルヴェイン公爵家の遠縁にあたり、近年サフォーク商会への投資を行っていた人物だった。
「やっぱり、後ろに別の誰かが」
エレノアが言うと、ルシアンは顎に手を当てた。
「レイス子爵は表向き穏健ですが、投機好きで有名です。薬草流通を握れば大きな利益になる」
「でも、なぜそこまでアルヴェイン家に食い込めたのかしら」
その答えは、思わぬところからもたらされた。
アルヴェイン公爵夫人から、面会の申し入れが来たのだ。
王都に戻ったエレノアは、侯爵邸の客間で彼女を迎えた。公爵夫人は以前よりやつれて見えたが、背筋はまっすぐだった。
「突然のお願いを受けていただき、感謝します」
「こちらこそ、お越しいただきありがとうございます」
短い挨拶のあと、公爵夫人は単刀直入に切り出した。
「レイス子爵は、私の義弟です」
エレノアは目を見開いた。
「義弟……?」
「亡き夫の異母弟にあたります。公爵家本流には入らなかったものの、昔から“家のため”を口実に、裏で口を出してくる人でした」
つまりセドリックにとっては叔父に近い立場だ。
公爵夫人は疲れた顔で続ける。
「私はあの人を好いていませんでした。でも、夫が亡くなってからは、公爵家の古参家令たちに顔が利くぶん便利な面もあった。そこへミレイユ・サフォークが近づき、セドリックの周囲に入り込み……」
「全部、つながっていたのですね」
「ええ。おそらく最初から」
公爵夫人の声には苦みがあった。
「セドリックは幼い頃から優秀で、正義感が強すぎるところがありました。だから“悪を暴き、守るべき弱者を救う自分”という構図に酔いやすい。レイスはそれを知っていたのです」
エレノアはゆっくり息を吐いた。
あまりにも情けなく、そして悲しい。セドリックは完全な黒幕ではなかった。だが、だからといって責任が軽くなるわけではない。操られる余地を持ったまま、他人を断罪したのは確かなのだから。
「私は、あなたに謝らねばなりません」
公爵夫人が頭を下げる。
「もっと早く動けたはずだった。息子を止め、義弟を遠ざけ、あなたを守れたかもしれないのに」
エレノアは静かに言った。
「お顔を上げてください、公爵夫人。謝罪は受け取ります。でも過去は戻りません」
「……ええ」
「ただ、もし本当に終わらせたいのなら、レイス子爵の関与を公にしてください」
公爵夫人はゆっくりとうなずいた。
「わかりました」
その約束が果たされるまで、そう時間はかからなかった。
翌週、王家の調査会にて、レイス子爵とサフォーク商会、植物園副管理官ブレナーの癒着が正式に認定された。さらに、ローズウッド放火の実行犯が子爵家の私兵崩れだったことも判明する。
状況証拠だけでなく、金銭の流れ、命令書の断片、仲介した商人の証言――積み重なった事実は、もう覆せない。
レイス子爵は爵位剥奪、財産の大半没収。サフォーク男爵家も社交界から失墜した。ミレイユは最後まで「自分は愛されただけの娘だった」と泣いていたと聞くが、その涙に同情する気は起きなかった。
愛される無垢を演じることも、また一種の力だ。
そしてその力で誰かを踏みにじったのなら、責任はある。
調査会が終わった日、王都の空はよく晴れていた。
侯爵邸へ戻る前、エレノアはひとりで王立植物園へ足を向けた。ここは、彼女が多くの時間を費やした場所だ。失ったものもあるが、学んだことも多い。温室のガラス越しに揺れる緑を見ていると、不思議と胸が静まった。
「来ると思っていました」
振り向くと、ルシアンがいた。
「つけてきたのですか?」
「偶然です」
「その顔で言うと、説得力がありません」
彼は珍しく肩をすくめた。
「では半分だけ認めます。心配だったので」
エレノアは苦笑した。
二人で温室の中を歩く。以前のように胸が締めつけられることはない。むしろ、ここはもう“終わった場所”なのだと、穏やかに思える。
「全部、終わりましたね」
エレノアが言うと、ルシアンは首を横に振った。
「あなたが終わりと言うなら、終わりです。ですが私は、始まりにも見えます」
「またそれを」
「本心です」
立ち止まると、目の前に白薔薇が咲いていた。ここでもまだ育てられていたのだ。エレノアがかつて改良した品種。丈夫で、香りがやわらかく、薬効もある。
「この花を見ると、いつも思うのです」
ルシアンがその白薔薇を見つめたまま言う。
「強い花だと」
「白いから、儚く見えるのに?」
「ええ。でも寒さにも病にも強い。見た目で判断すると間違える」
その言葉に、エレノアは少し笑った。
「誰かさんみたいですね」
「そうかもしれません」
数秒の沈黙のあと、ルシアンは彼女へ向き直った。
「レディ・エレノア」
その声音だけで、いつもと違うとわかった。
「はい」
「私には、あなたを慰める資格は最初からありませんでした。助けると言っても、お節介かもしれないと思っていた」
「辺境伯」
「でも今は、言わなければ後悔する」
温室の中は静かで、遠くで水滴の落ちる音がする。
ルシアンは一歩近づいた。
「私はあなたを敬愛しています」
胸が熱くなる。
「困っているから放っておけないとか、恩返しがしたいとか、そういう段階はもう過ぎた。あなたが笑えば嬉しいし、傷つけば腹が立つ。あなたの作る場所が広がっていくのを、近くで見ていたい」
エレノアは喉が詰まり、言葉が出ない。
こんなふうに、尊重と感情を同時にまっすぐ差し出されるのは初めてだった。所有ではなく、対等な願いとして。
ルシアンは続ける。
「すぐに答えを求めるつもりはありません。あなたはようやく自由になったばかりだ。だからこれは、求婚ではなく……願いです」
彼は少しだけ息を吐いた。
「どうか、今後の人生の選択肢の中に、私を入れてほしい」
涙が出そうになった。
けれど今度の涙は、痛みからではない。
エレノアはそっと笑った。
「それは、ずいぶん狡い言い方ですね」
「否定しません」
「答えを急がないとも言いながら、断りづらいでしょう」
「それも認めます」
あまりにも正直で、とうとう声を立てて笑ってしまった。こんな大事な場面で、笑ってしまうなんて思わなかったのに。
ルシアンは少し困った顔をしたが、その表情もどこか嬉しそうだった。
エレノアは涙をこらえながら言った。
「選択肢に入れるどころではなくて」
「……?」
「もうずっと前から、かなり大きな場所を占めていると思います」
ルシアンが息を止めたのがわかった。
「それは……私に期待してもいい言い方ですか」
「はい」
彼は目を閉じ、ほんの僅かに肩の力を抜いた。いつも冷静な彼が、これほど安堵を露わにするのは珍しい。
「ありがとう」
「こちらこそ」
二人の間に、白薔薇の香りが満ちる。
過去を消すことはできない。傷ついた事実も、失った時間も、全部なくならない。けれど、それらを抱えたままでも、人は新しい幸福へ向かえるのだと、エレノアはようやく信じられた。
夏の終わりには、ローズウッドの新温室が完成した。
以前より広く、強く、美しかった。耐火性の高い素材を使い、水路も複数設けられ、万一の際には区画ごとに閉じられる。北方の技術者とローズウッドの職人たちが協力して作り上げたその場所は、まるで“再出発”そのものだった。
完成の日、働き手たちが拍手する中で、エレノアはテープを切った。
「お嬢様、おめでとうございます!」
孤児院から来ていた少年が、嬉しそうに花束を差し出してくる。受け取ると、白薔薇と青いリンドウが混じっていた。北と南の色だ。
「ありがとう。とても素敵」
隣ではクララが目を潤ませ、ハンナが誇らしそうに胸を張っている。モーリスは帳簿を抱えたまま「予算内で収まってよかった」と現実的な感想を漏らし、皆に笑われた。
その少し後ろで、ルシアンが静かに立っていた。
彼は最近ローズウッドへ来る頻度が増えていたが、以前のような“用件だけ”ではなくなっていた。昼食に立ち寄ったり、新しい苗を見に来たり、時には何も理由を言わずに夕方の散歩に付き合ったりする。
そしてエレノアも、それを当たり前のように受け入れている。
「辺境伯様!」
子どもたちが駆け寄ると、ルシアンは一瞬だけ困った顔をして、それからしゃがみ込んだ。無愛想に見えて子どもには弱いのだ。最近はもう、働き手たちにも完全に知られていた。
「今日は北のお話をしてください!」
「雪狼の話!」
「……雪狼は誇張されがちなんですが」
そんな会話を聞きながら、エレノアは微笑んだ。
午後、完成祝いの小さな茶会が開かれた。そこへ、王都から一通の封書が届く。差出人はセドリックだった。
少し迷ったが、エレノアはその場で開けた。
内容は簡潔だった。アルヴェイン公爵家の改革に着手し、これまで彼女が見えないところで支えていた業務の整理を進めていること。使用人や下働きへの待遇改善も始めたこと。そして最後に、短い謝辞。
> 君に教えられたことの重さを、ようやく学び始めた。
> 遅すぎるが、無駄にしない。
> 君の今後の幸福を祈る。
エレノアは静かに封を閉じた。
「悪い手紙ではなさそうですね」
傍らのルシアンが言う。
「ええ。たぶん、彼なりに前へ進もうとしている」
「それで、あなたの気持ちは動きますか」
「まったく」
そう答えると、ルシアンは露骨に安堵した顔をした。
「……そんな顔をするのですね」
「します。私は案外、狭量です」
「知っています」
二人で笑う。
その日の夕方、温室の一角でエレノアは白薔薇の植え付けをしていた。ルシアンが隣に立ち、手袋をはめたまま土を運ぶ。
「辺境伯に土仕事をさせるなんて、贅沢かしら」
「あなたは時々、自分のしていることの価値を軽く見積もる」
「また説教ですか?」
「忠告です」
エレノアはスコップを置き、彼を見上げた。
「では、忠告ついでに聞きますけど。以前の“願い”は、今も有効ですか」
ルシアンの手が止まる。
「……それは」
「だって、私があまりにも待たせているから」
「待つと決めたのは私です」
「ええ、でも」
エレノアは少し息を吸った。
「待たせる理由が、もうないのです」
風が、白薔薇の香りを運ぶ。
「私は、あなたといると安心する。無理をしても見抜かれるし、落ち込んでも黙ってお茶を出されるし、逃げようとすると仕事の話で引き戻される」
「最後のは褒めていますか?」
「もちろん」
彼女は笑った。
「あなたの隣なら、自分を偽らなくていいと思えるの」
ルシアンが静かに彼女を見る。
「だから――」
エレノアは手袋を外し、素手で彼の手に触れた。
「今後の人生の選択肢どころか、これからの未来そのものに、あなたにいてほしい」
しばらく、ルシアンは何も言わなかった。
そんなに真顔で固まられると、こちらまで心配になる。言い方を間違えただろうか、とエレノアが思い始めたころ、彼は掠れた声で言った。
「……レディ・エレノア」
「はい」
「その言い方は、求婚を許可したと受け取っても?」
「ええ」
「正式に、改めて言っても?」
「ぜひ」
ルシアンは深く息をつき、彼女の手を両手で包んだ。
「エレノア・フェアチャイルド」
その呼び方は、ひどく丁寧で、誠実だった。
「どうか私と、人生を共にしてほしい。喜びも重荷も、仕事も静かな日々も、できる限り隣で支えたい」
エレノアは微笑んだ。
「喜んで」
次の瞬間、ルシアンの表情がほっとほどける。あまりに珍しい顔で、彼女は思わず見入ってしまった。
「そんな顔、初めて見たわ」
「今、たぶん人生で一番気が緩んでいます」
「後でクララに教えておきます」
「それは困る」
笑いながら、二人はしばらく手をつないでいた。
派手な抱擁も、劇的な口づけもない。ただ温室の片隅で、白薔薇の苗の前で、小さく未来が定まっていく。
それがとても、この二人らしかった。
***
## 第十章 白薔薇はもう、あなたのために咲かない
翌春、王都では再び園遊会が開かれた。
昨年、婚約解消を宣言されたあの中庭である。皮肉といえば皮肉だが、今年エレノアは招待を受けて迷わなかった。逃げる理由は、もうどこにもない。
ドレスは去年と同じ白銀ではなく、淡い青磁色にした。胸元には白薔薇のブローチ。隣には、婚約者となったルシアンがいる。
会場へ入ると、視線が集まった。けれどその質はもう違う。侮りや同情ではなく、敬意と純粋な関心だ。ローズウッドの薬草事業はこの半年で大きく拡大し、北方との共同事業も成功していた。エレノアは“崩れた元婚約者”ではなく、実績ある事業責任者として認識され始めている。
「緊張していますか」
ルシアンが低く尋ねる。
「少しだけ」
「なら、手を」
彼が差し出した腕に自分の手を添えると、不思議と落ち着いた。
中庭の中央には、去年と同じ噴水がある。けれど景色は全く違って見えた。あの日、足元だけが静かだった場所に、今はたしかな足場がある。
遠くにセドリックの姿が見えた。
彼は数人の貴族と話していたが、エレノアに気づくと一礼した。隣に誰もいない。以前より落ち着いた顔つきで、どこか肩の力が抜けている。エレノアも軽く会釈を返した。
それだけだ。
未練も、憎しみもない。あったのは、過去をちゃんと終わらせた者同士の静かな距離だけだった。
「大丈夫ですか」
ルシアンが囁く。
「ええ。もう本当に、大丈夫」
その言葉は自分でも驚くほど自然に出た。
式典の後半、王妃主催の慈善展示が始まった。今回の目玉は、ローズウッドと北方診療隊が共同開発した新しい保存薬と、耐寒種の白薔薇。その効用と育成法を説明する役目を、エレノア自身が任されていた。
彼女は壇上へ上がり、集まった人々を見渡した。
昔の自分なら、完璧に話さなければと肩に力を入れただろう。だが今は、届けたいことが先にある。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
穏やかな声が、中庭に広がる。
「白薔薇は、見た目には繊細ですが、病や寒さに強い花です。適切に育てれば、薬としても暮らしを支える力になります」
人々が静かに耳を傾ける。
「私はかつて、この花を“誰かのために咲かせなければならないもの”だと思っていました。役目のため、期待のため、未来の約束のために」
そこで一度だけ、彼女は風を見た。
「でも今は違います。花は、必要な人に届くために咲けばいい。誰かに所有されるためではなく、その力を活かすために」
ルシアンが少し離れた位置で、静かに彼女を見ていた。
「人も同じだと思います。誰かの期待に合わせて自分を削り続けるのではなく、自分の力を、自分で選んだ場所に使っていい」
その言葉に、何人かの若い令嬢が目を見開いた。年長の貴婦人たちも、含みのある笑みを交わす。社交界は保守的だが、変化を欲してもいる。
「もし今、何かを失って立ち尽くしている方がいるなら、どうか覚えていてください。終わったように見える場所からでも、人は育ち直せます」
空気が静まり、そして拍手が起こった。
最初は控えめだったそれが、次第に大きくなる。貴族たちだけでなく、招かれていた慈善団体の人々、薬師たち、侍女たちまでが手を打っていた。
エレノアは深く礼をした。
壇上を降りると、ルシアンが迎えに来る。
「見事でした」
「少し語りすぎたかしら」
「いいえ。たぶん、必要な人に届きました」
そのとき、若い令嬢が一人、勇気を出したように近づいてきた。
「あの、フェアチャイルド様」
「はい」
「私、昨年のことを見ていました。とても怖くて、もし自分なら死んでしまうと思って……でも、今日のお話を聞いて、少し勇気が出ました」
彼女の頬は緊張で赤い。エレノアはやわらかく笑った。
「ありがとう。生きて、育ち直す方がずっと大変だけれど、そのぶん強いです」
令嬢は何度も頷き、去っていった。
ルシアンが低く言う。
「あなたは誰かの灯になっています」
「大げさです」
「事実です」
そのまま二人で中庭の端へ歩く。去年、裏門へ向かったあの小道が見えた。
「あの日、あなたはここで馬車を手配してくれたわね」
「ええ」
「本当に助かった」
「あなたが歩けるよう、最短距離を示しただけです」
エレノアは足を止め、彼を見上げた。
「でも、あの日の私は、自分で立っているつもりで、実は立てていなかった。だからあの馬車が必要だったの」
ルシアンは何も言わず、彼女の手を握る。
「今は?」
「今は、自分の足で歩ける」
「ならよかった」
「ええ。でも、できればこれからも隣にいて」
「もちろん」
風が吹き、白薔薇の花びらが一枚、噴水の水面に落ちた。
エレノアはその白を見つめながら、静かに思う。
もう私は、誰かに選ばれるために咲くのではない。捨てられないように、役に立ち続けるために生きるのでもない。
私の花は、私が選んだ場所で咲く。
傷ついた分だけ、根は深くなった。失った分だけ、誰かの痛みもわかるようになった。婚約は終わったけれど、人生は終わらなかった。むしろ、そこから始まったのだ。
ルシアンが指先に口づけを落とす。
「エレノア」
「はい」
「幸せですか」
彼女は笑った。
春の光が、去年とは違う明るさで中庭を満たしている。
「ええ、とても」
白薔薇は、もうあなたのために咲かない。
けれどそれは、枯れたという意味ではない。
ようやく自分のために、そして本当に届けたい誰かのために――
誇り高く、しなやかに、咲けるようになったということだ。




