第1部 予知の時代 第1話 負け知らずの玉座
魔界の深淵にそびえる黒曜石の城は、永遠の闇に沈んでいた。
玉座の間は薄暗く、壁面に刻まれた古代の呪文が、蝋燭の炎に照らされて赤く脈打つように揺らめく。
その中央に、魔王ザルガは深く腰を沈めていた。
黒い長衣に包まれ、鋭い角が天を衝く。赤く輝く瞳は、冷徹さと退屈を湛えていた。
膝の上に置かれた一冊の本――闇の魔導書。
古びた革装丁の表紙には、不明瞭な紋様が刻まれ、時折ぼんやりと黒い光を放つ。
この本こそが、ザルガを「負け知らずの王者」にした唯一の秘密だった。
ザルガは指先でページをゆっくりめくる。
文字は闇のように浮かび上がり、すぐに溶けるように消える。
「ふむ……今日も人間界の勇者どもは、俺の領地に近づかぬようだ。
辺境の村で反乱の兆しがあるが、明日までに鎮圧される。……完璧だな。」
低く響く声に、側近の魔族たちが控えめに頭を垂れる。
朝の謁見はいつも通りだった。
領地の報告、捕虜の処遇、魔族貴族の忠誠確認。
ザルガは興味なさげに聞き流し、適当に指示を出す。
すべては本の予知によって、事前に把握済みだったからだ。
敵の動き、味方の裏切り、どんな策も、この本があれば先回りできる。
負け知らずの称号は、決して誇張ではなかった。
「陛下。」
側近の一人、黒い翼を畳んだ魔族少女・リリアが一歩進み出た。
幼馴染であり、ザルガの秘書役を務める忠実な部下だ。
「昨日捕らえた人間の斥候から、興味深い情報が入りました。
人間界で『カード』なるものが流行っているそうです。
ブックに収めて魔法を発動する、ゲームのようなものだとか。」
ザルガは軽く鼻で笑った。
「くだらん。
俺の闇の本があれば、そんな玩具など必要ない。」
だが、その瞬間。
膝の本が、わずかに震えた。
ページが勝手にめくれ、文字が浮かぶ。
「……カード……欲……」
ザルガは眉をひそめ、本を閉じた。
「黙れ。お前は俺の予知の道具だ。」
本は静かに沈黙した。
だが、心の奥で、何かがざわついている気がした。
今まで一度もハズレたことのない予知が、ほんの少し、ぼやけたように感じられたのは、気のせいか。
リリアが心配そうに顔を覗き込む。
「陛下? 何か……」
「いや、何でもない。」
ザルガは立ち上がり、玉座の間を後にした。
廊下を歩きながら、窓の外に広がる魔界の荒野を眺める。
赤い空、毒々しい植物、遠くで咆哮する魔獣。
すべてが、ザルガの支配下にある。
本のおかげで、永遠にそうあり続けるはずだった。
午後、ザルガは城の庭園を散策した。
魔界の花は血のように滴り、棘のある蔓が絡みつく。
リリアが付き従い、今日の報告を続ける。
「人間界のギルドでは、カード争奪戦が過熱しているそうです。
良いカードを多く持つ者が強い……そんな風潮だとか。」
ザルガは足を止め、庭園の奥に視線を向けた。
「人間の遊びなど、どうでもいい。」
だが、本のページが、再び微かに震えた。
今度は、文字ではなく、声が頭の中に響いた。
低く、抑えたような、しかし確かな欲求。
「……カード……食わせろ……」
ザルガは本を強く握り締めた。
「黙れ。」
声は消えた。
だが、予知の文字が浮かぶページが、ほんの少し、歪んで見えた。
今まで完璧だった未来の予知が、初めて、ほんのわずかに……ぼやけていた。
負け知らずの魔王は、まだ気づいていなかった。
この小さな歪みが、すべてを変える始まりだということを。
(つづく)




