シュレディンガーの猫が見る夢。
その部屋に一歩足を踏み入れた瞬間、甘い言葉につられてこんなところまでホイホイついてきてしまった自分の浅はかさを、サリアは呪った。
適当にくつろいでて、と言われたが、いったいどこでどうくつろげばよいのだろう。
そこそこ広めのワンルーム、――だったのだろうが、辺り一面が洋服、雑誌、ぬいぐるみ、化粧品、お菓子などで埋め尽くされており、あらゆる色とあらゆる素材でモザイク模様に彩られた床は、一体どこまでが居住スペースなのか判別がつかない。
部屋の持ち主に無言で帰りたいアピールの視線を送るが、当の本人は全く意に介することなく、屈託のない笑顔で奥へと案内してくれた。
(……やれやれ)
彼女の提案を飲んだのは、ほかならぬ自分だ。
仕方がない、と腹をくくり、とりあえず、有名な海外アニメ映画に出てくるキャラクターの巨大なぬいぐるみを端に押しやり、ベッドに背中を預けて腰を下ろした。
「ごめん、僕コーヒー飲めなくてさ。緑茶か紅茶しかないんだけどどっちがいい?」
「紅茶」
「砂糖とミルクは? といっても、砂糖しかないけど」
「いらない」
サリアが言うと、りょーかい、と言って彼女、――ナギサはケトルを火にかける。半分開いた引き戸の向こうから、何が楽しいのか鼻歌のようなものが聞こえてくる。
——落ち着かない。
他人の部屋という場所は往々にして居心地が悪いものだが、それが、まったく生きる世界が違う人物の部屋ともなればなおさらだろう。
サリアは、待つだけの時間を持て余して部屋の中を視線で物色する。
そして、部屋の隅、わざわざ探すまでもなく、ボロボロの布に覆われたひときわ大きな物体を見つける。
それの実物を、サリアは見たことがない。だが、あれが、きっとそうなのだろう。
「おまたせ」
サリアは座ったままカップを受け取る。口に運ぶと、優しいフレーバーが広がった。
スタンダードなアールグレイだけど、香りが華やかでおいしい。ここに至るまで不信感しかなかった彼女の評価が、ちょっとだけ上がる。
「それで、私はここで何をすればいいの?」
サリアが尋ねると、ナギサはもう片方の手に持っていたマグカップを一口だけ飲み、立ったまま答える。
「絵のモデルだよ。やったことない?」
サリアは首を振る。
当然、やったことなどあるはずがない。ナギサはどこか意外そうに言うが、おそらくやったことのある人のほうが希少だろう。
「そうか。でも、そんなに身構えることもないよ。別にお互いプロってわけでもないんだし、気楽にやってくれればいい。動いちゃったり、ポーズを変えちゃったりしたからって怒ったりするようなこともないし、疲れちゃったら好きに休憩してくれてもいい。簡単でしょ?」
ナギサの言葉に、確かに、とサリアは思う。
もともと、根っからのインドア派なのだ。動かず過ごすことは苦手ではない。
事前のイメージで勝手に想像していたものよりもずっと気楽そうだ。肩の力が抜け、不安も少しは解消された。だが、まだ不信感がぬぐい切れたわけではなかった。
そもそも、一番大きな謎、――大前提となっている疑問の答えを、まだ聞かされていないのだ。
「ねえ、改めて聞きたいんだけどさ。なんで、私なの?」
サリアは、思ったままの疑問を口にする。
当然だ。
彼女がナギサと会ったのは、今日が初めてだった。ほんの数時間前まで、ナギサの顔はおろか、名前すら知らなかったのだから。
四限の講義のあと。晩ごはんの時間までの暇つぶしにと、大学に併設されている図書室で文庫本を読んでいたところへ、彼女は現れた。
派手な存在感を放つ女性だった。
ピンクに染まったウェーブがかった髪に、前髪の一筋にだけ走る青いメッシュ。サリアは、彼女に未知の深海生物に抱くような印象を持った。
――ねえ、ねえ、君。そう、君。前髪ぱっつんの。
まさか声をかけられているのが自分だとは露とも思わず、図書館で騒ぐ狼藉者を睨むつもりで顔を上げたら、彼女と目が合った。
――突然で申し訳ないんだけれど、僕の絵のモデルになってくれない?
サリアは声の主を一瞥し、悪趣味な冗談は無視しようと決めた。すると、無断で対面の席に座られた。
そして、まったく相手にされていないにもかかわらず、彼女はめげずにしつこく声を掛け続けてきた。無視を決め込んでいたサリアだったが、彼女の思いがけない熱量に、だんだんと罪悪感が募ってきた。
カウンターから放たれる『図書館ではお静かに』という司書からの無言の圧力にも耐えられなくなったころに、トドメのように、極めつけの甘い言葉が放たれた。結局、その言葉に心を折られる形で、サリアは「わかった」と言ってしまった。
百歩譲って、経緯は理解できる。
きっと彼女は、絵を描くことが趣味で、そのモデルになってくれる人を探しており、なかなか適任者を見つけられずにいたのだろう。
そこまでは、まだわかる。
だが、その適任者に自分を選定したその理由について、納得のいく答えをまだ聞けていない。
ここに来るまでの道すがら、ぽつりぽつりと交わしたやり取りから得られた情報は、お互いが同じ大学の学生であったということと、彼女のナギサという名前だけ。
繰り返しになるが、サリアがナギサの顔を知ったのはその時が初めてだ。
サリアは、自分の器量が特段優れているとは思っていない。当然、芸能人やアスリートのような、華やかな何かを持っている心当たりもまるでない。平凡な人間であることを受け入れながら、二十年近くを淡々と過ごしてきたのだ。
なんなら、声をかけてきたときにナギサの後ろに控えていた友人と思しき女性陣らのほうが、よほどモデルに向いた容姿をしていたとサリアは思う。
だが、彼女、ナギサはサリアを選んだ。
その理由を、はっきりとさせておかないことには、あまりにも居心地が悪い。
「理由? そんなの、簡単だよ。僕が君に『特別』を感じたから」
教科書に書いてある当たり前の公式をなぞるように、淀みなく彼女は言う。
サリアは困惑し、眉を顰める。
「特別って、なにが特別なのさ」
「サリアはさ、本が、好きなの?」
唐突に、ナギサが話題を変える。疑問を疑問で返されたことも、いきなり名前呼びをされたことも気にくわないが、そういう理屈を言っても聞いてくれる相手ではない気がした。
「……好きとか嫌いとかで考えたことない。けど、たぶん、特別好きってわけじゃないと思う」
サリアがそう答えると、ナギサは少しだけ驚いたような顔をして、そして一層楽しそうに笑った。
「嘘だあ。僕、毎日あそこに道通ってるんだけど、いつも君があそこで本を読んでいるのを知っているよ」
「毎日図書室で本を読んでいるからって、本好きだとは限らない」
サリアは、少しだけムッとして答える。
「毎日、本がたくさんあるような部屋に行って、毎日、本を読んでにいるのに、本が好きでないなんてことあるの?」
「当たり前でしょ。そりゃあ当然、図書室に入り浸ってる本好きな人もいるだろうけど、そうじゃない人だっている。毒ガスと一緒に箱に入れられた猫が死んでいるとは限らないみたいな話だよ」
「なにそれ?」
しまった、とサリアは思う。
オタクであれば基礎知識レベルの有名な思考実験ではあるが、一般人相手に引き合いに出すのは不適切だった。
「……ごめん、なんでもない。さっきの例えは忘れて。とにかく、勝手に決めつけられるのは気に入らないって話」
「毒だの死ぬだのって話は物騒だけど、君が猫みたいだなってことは、なんとなくわかる気がするよ」
会話の噛み合わなさに、サリアは思わず眉間を抑えるが、いちいち説明するのも面倒だったためフォローは諦めることにする。
「ともかく、私は別に本の虫ってわけじゃない。そういう文学的な属性に『特別』を期待していたのだとしたら、それはあなたの勘違いってこと」
「そうかなあ。だったら、どうして毎日図書館にいるの?」
サリアが図書室に入り浸っている理由は、一人で自分の世界に没頭できる時間が好きだからだ。だれにも邪魔されず、自分のためだけに使う贅沢な時間が好きだからだ。ナギサへ言った言葉の繰り返しになるが、特別、本だけが好きだというわけではない。
それがかなうならば、別に本を読むに限らず、パズルに没頭するでも、料理をするでも、あるいは滝行などでもいいのかもしれない。
それでも、あえてひとつ、本を読んでいる理由をあげるとすれば――。
「インクの匂いが、好きだから」
「あはっ。いいね。すごく、いい。やっぱり君は、僕の期待以上だ」
ナギサの言い方に悪意は全くない様子だった。だが、まるで自分が変わり者のように扱われるのは気分はよろしくない。
「なんだか、馬鹿にしている?」
少し語調が強くなったのが自分でもわかった。
「馬鹿になんてしていないよ。誓って。そして、やっぱり君こそが、僕が探していた特別だよ」
にもかかわらず、ナギサの言葉には、やはり淀みがない。
サリアは、もうそれに否定も肯定もしなかった。たぶん、どちらも意味がないだろう。
「じゃあ、逆に質問。あなたはどうして、特別を求めているの?」
ナギサは、傍らに転がっていたスツールを立てて、そこにカップを置く。そして、まるで舞台役者のように大げさな仕草で自分の胸に手を当て、言う。
「僕も『はしくれ』とはいえ表現者に身を置く人間だからね。普遍的でない存在っていうものに対して憧れが強いんだ」
「……ふぅん」
「作曲家にしろ芸術家にしろ、あるいは、作家や菓子職人なんかもそうなのかな。とにかく、表現者っていう人種は二つの相反する厄介な欲望を併せ持っていると僕は思ってる。一つは『他の誰にも出来ない自分だけの特別な世界を表現したい』という欲望。もう一つは『それを万人と共有して認めてもらいたい』という欲望」
ナギサはそこで一度言葉を止める。サリアに放った自分の言葉の手ごたえを楽しむように。
サリアは、芸術に造詣が深いわけではない。家族や知人にそういった仕事をしている人物もいない。だが、フィクションの世界では、そういう芸術家肌を持った人物を、ごまんと見てきていた。自分にはない感性だけれど、少しだけわかった気はする。
彼女は、特別に飢えているのだ。『自分らしさ』を求め続ける芸術家などにとっては陥りやすい悩みなのだろう。
「たしかに、矛盾してる」
「だから、芸術家には変わり者が多い」
「人間嫌いの寂しがり屋みたいなものかな」
「そうだね。今度の例えは、僕にもわかりやすい」
「あなたは絵が好きなの? 毎日描きたいくらいに」
何気なく尋ねると、ナギサは今日一番の笑顔で答えた。
「好きだよ。見るのも好きだけど、どちらかというと描くことのほうが大好きだね」
「そして、自分だけの『特別』が描きたいんだ?」
「そう。本当は、僕本人が特別になれればそれがベストだったんけど、残念ながら僕にそんな才能はなかった。だから、逆アプローチ。僕は世の中から特別を探して、それを描く道を選んだ」
そう言ってナギサは指で作った四角形越しにサリアをのぞく。
素人である自分から見れば、世界を切り取って紙に表現できる才能はそれだけで十分に特別なようにも思えるが、たぶん、感性が根本的に違うのだろう。
ナギサの言葉にはある程度の正当性も妥当性もある。
――そして、少しだけ興味もわいた。
「分かった。今晩いっぱいで終わらせてくれるって言うなら、ちゃんとやってあげる。そのモデルってやつ」
「やった」
「ただし、バイト代は忘れないでよ」
「もちろん。例の百貨店の限定スイーツでしょ。ツテならあるから任せといて」
人好きのする屈託のない顔でナギサは笑う。
それにつられて、サリアも思わず顔がほころぶ。
不思議な気分だった。
たぶん、普段の自分ならまず選ばないような選択をしてしまっている。
自分のことながら、はっきりとした原因は分からない。
だけど、おそらく思ってしまったからだろう。
ほんの少しだけ。本当に、ほんの少しだけ。見た目も、趣味も、人間関係も、全く別の世界に住んでいるはずの、彼女の内向的な探究心が、自分と似ている、と。
「で、私はどうすればいいの? このままここで座ってるだけでもいいの?」
「いいよ。さっきも言ったけど、好き勝手にしてくれて構わない。僕の中でピンと来たら、勝手にこっちで始めちゃうから、基本的には、自由にくつろいでいて」
「分かった」
そう言うと、サリアはナギサの言葉を額面通りに受け取り、イヤホンを耳につける。そして、スマートフォンで音楽を聴きながら、今日図書室で借りてきた文庫本を読み始める。
最初こそ居心地が悪かったが、気の置けないナギサの性格からか、あるいは遠慮という概念が不要なほどに壊滅的に散らかった部屋だったからか、自室と変わらない程度にリラックスすることができたのは不思議だった。
途中、小腹がすいてきたかなと思ったタイミングでナギサがカップ麺を差し出してくれた。普段はあまり口にしないそれだが、その時差し出されたそれは非常に魅力的に見えたし、案の定とてもおいしかった。
ナギサは、いつの間にか、部屋の隅へと移動していた。
最初に見かけていた大きな物体は、今はボロ布が取り払われ、大きなイーゼルへと姿を変えていた。ナギサはそれを前に小さなスツールに座り、何をするでもなく、ただ、サリアをずっと見ていた。何も考えていないような、あるいは明日の晩御飯のメニューでも考えているようないい加減な様子で体を揺らしているだけだった。
時折、サリアが視線を上げてそちらを見ると目が合ったが、無言で手をひらひらと振るだけだった。
サリアは、いつしか瞼が重くなり、意識がはちみつに包まれるかのような甘い停滞感を覚え始める。
それから間もなく、あっさりと眠りに落ちたのだった。
カーテンの隙間から差し込む朝日が瞼に落ちて、目を覚ます。
体が柔らかく、あたたかい感触に包まれている。
サリアは、あたりの様子を確認する。
記憶にないが、いつの間にかベッドに移されていたようだ。
置かれていた状況を飲みこむのに時間はかからず、ざっと身体の具合を確認した限りでは、取り立てて予想外の事態にもなっていなさそうだったので一先ずその点は安堵する。
ナギサの姿もすぐに見つかった。スツールの横で丸まって床に寝ているようだった。
サリアは、どうしたものかと思案する。
最初は起こそうかとも思ったが、ちょうど今寝たばかりの様子にも見える。であれば、そのまま寝かせておいたほうがいい気がした。
風邪をひくような季節ではないけれど、よくわからない画材などに交じった衣類の中から上着を探して、彼女の肩にかけておいた。
そこで、気づく。
「……ふぅん」
A2サイズのキャンパスの半分に線画で描かれていたのは、安らかに眠っているサリアの寝顔だった。
もう半分には、ためらいがちな線が何本か引かれているが、それきりで空白のままだ。
全体のイメージがまとまらなかったのか、あるいは途中で眠気に負けたのか、はたまたこれで完成なのか。
絵に詳しいわけでもないので、それは本人に聞かなければわからない。
ただ、素直な感想を述べれば。
キャンパスに描かれた自分の姿を観るのは、悪い気分ではなかった。
たぶん、これで約束は果たしたことになったのだろう。
今日は土曜日。講義もなく、やらなければいけない予定も特にない。
どうしようか少し悩んだけど、結局、もう一度寝なおすことにした。
もぞもぞとベッドに潜り込み、再びまどろみの世界に沈み込む。
そして、自我の輪郭がおぼろげになり意識が混濁し始めたころ。
(……あ、この匂い)
昨日は全然気が付かなかったけれど。
顔まで上げたブランケットからは、少しだけインクに似た匂いがした。
ー了ー