第六十五話
しばらく歩いて、ナユタが寝そべっていたのはどこかの洞窟の一部だったことが分かった。圧迫感の強い壁と天井が、地面から数メートルの所にある、ごく普通の洞窟の様に見える。しかし、青白い光を放つ氷のような独特の素材で周囲が覆われており、それが何なのかはナユタにも分からなかった。しかし、松明から零れ落ちる光を煌びやかに反射する光景はとても美しく、大自然の力強さを感じた。
状況も忘れかける程の景色に驚いているナユタだったが、前方を行く男が再び口を開いた事で、意識を現実へと戻す。
「我々が貴女をこちらへお連れした理由だが、心当たりはあるか?」
お連れとはまた丁寧な言い方をする。十割誘拐だろう。
しかしナユタはその感情を抑えて、首を横へ振った。
「…ありません」
「そうか」
きっぱりと否定したナユタに、大男は少しだけ考える様な素振りをして続ける。
「…まぁそうであろうな。…理由は幾つかあるのだが、まずはこの場所について説明しておこうか」
男の視線を追って、ナユタは自身を取り囲む洞窟を見上げる。
「ここはリスティア湖の地下だ。ここには巨大な力の源である”地脈”が走っている。この洞窟の素材は、その地脈から溢れ出た魔力が結晶化したものだ。我々は湧きだすこの力を使って、計画を実行する」
その言葉に、ナユタは目を見開く。
地脈、その言葉をナユタはかつて聞いたことがあった。それは失われた故郷での記憶だ。
そもそも大国レーテは地脈の上に存在した国だった。地脈を活用した国力強化によって、レーテは世界有数の強国に成り上がったのである。その国家の王族であったナユタは、国王の父から地脈に関する研究内容を僅かに受け継いだ。まだ幼かったため膨大な研究データ全てを理解することはできなかったが、ただ一つ、やけに記憶に残った言葉がある。
『地脈は全てに通ずる世界の根幹だ。地脈は膨大な恩恵をもたらす一方で、世界を滅ぼす力を持っているんだ』
父の真剣な声が蘇ってくる。
だからナユタは、男が口にした作戦という言葉に戦慄した。地脈の力を用いる計画など絶対に碌なものではない。ナユタはそう確信できる。
ナユタが警戒心を強めたことに気が付いたか、男はしばらく口を噤んだ。
そして随分と歩いた所で、再び口をひらく。
「……さて、到着だ」
男はそう言って、細い通路の先に広がっている空間へと足を踏み込んだ。
ナユタも自然とそれに続いて、その空間の巨大さに目を丸くした。上下左右にそれぞれ千メートルはあろうかという巨大空間であるにも関わらず、そこは洞窟の通路よりずっと明るい。空間の中心部分から湧きだす光を帯びた液体が、まるで湖の様に広がり、それはこの世のものとは思えない程に美しかった。しかしナユタの視線は、その湖の中央に聳える存在に固定された。
「…あれは、一体…」
そう呟いたナユタの頬を、一筋の冷や汗が滴り落ちる。ナユタの目が驚きと動揺に揺れるが、彼女は一時も”それ”から目を離せなかった。それほどまでに圧倒的な存在。それが何なのか、ナユタの頭と本能をもってしても推し量る事のできない、人知を超越した存在だった。
大きく見開かれたナユタの碧眼に、淡い龍の影が映る。淡く輝く宝石達に照らされた、姿が朧げな巨龍がそこにいた。まるで存在そのものが曖昧であるかのようなその異様に、ナユタは思わず息を呑む。
それと少なからず同じような感想を抱いているのか、背後から小男の歓声が聞こえてきた。ナユタの前方で立ち止まって、振り返った大男”ホルス”は言う。
「…この龍の名は、ディストピア。人類の呼び名に改めるならば、災厄、|破壊ノ幻魔≪デストロイ≫」
仰々しく告げられたその言葉に、ナユタは疑問を抱かなかった。そうか、これが一国を滅ぼして尚余りある力を持った存在なのかと、心の底から納得した。
そこに不思議と、普段幻魔に抱くような感情は生まれない。恐怖、怒り、焦り。そう言った人間が持ちうる原始的な感情すらをも飲み込む存在。人類の本能が戦わずして降伏し、崇拝すら厭わない存在。それが災厄級なのだと、ナユタは”破壊ノ幻魔”と対面して、初めて思い至った。
荘厳な龍を前に立ち尽くしたナユタに、大男が続ける。
「…我々が貴女をこの場にお連れした理由が、まだだったな」
大男が指を一つ鳴らすと、彼の手中に、白い巫女服らしきものが出現する。それを丁寧に折りたたんで、数々の装飾をそこに乗せた男は言う。
「…一つ目は、貴女が貴重な情報源である可能性が浮上したからだ。我々は”とある力”についての情報を集めている。その情報を引き出すために、我々は貴女を生きてこちらへお連れした」
ナユタの生かされた理由が少なからず明らかになるが、あまりに抽象的な表現が多すぎて、ナユタは理解に苦しむ。
「そして、二つ目」
手に持った巫女服らしくものを持って、男はナユタに歩み寄ってくる。
「…貴女はディストピアを動かす『鍵』でもある。貴女の肉体と、精神力を糧に、我々は再びディストピアに力を吹き込むのだ。それが我々と、我が主の悲願故に」
これまでで一番感情の籠った大男ホルスに、ナユタは思わず唾を呑みこんだ。
ややあって、男がナユタの目の前までやってくる。男の紅瞳とナユタの碧眼がぶつかる。男の目に、確かな力が宿った。
「……我々の名は”解放者”。どうか我々と共に、世界を救うために戦ってはくれないか。もし君が自主的に我々に協力してくれるのなら、君自身の人格を保護することを約束しよう。君がこのディストピアを操るのだ」
眼前に迫った紅の瞳。ナユタはそこに本気を見た。
この大男は、何一つ嘘を言っていない。彼らがナユタを連れ去った理由も、世界を救うためと語った行動原理も、そしてナユタの人格とやらを保護するという条件も、全てが彼にとっては真実だと分かる。何故なら、自らの信念に従って行動する者特有の気配が、彼の瞳に写っていたから。
なるほどとナユタは思う。確かに大男の話は中々に興味深い。人格が保護されるという条件である以上、彼と一緒に行けば、ナユタが死ぬことは無いのだろう。それに、もしかすると世界の真相にも迫れるのかもしれない。自分が生まれた意味、人類が行きつく先、そして幻魔が存在する理由。それらを知る事は、誰にとっても魅力的な話だ。ここで下手に逆らって死ぬよりも、彼らに協力し、自分を守る方がずっと賢い選択だ。
しかし、けれど、それでもーーー。
「……私には、あなた方に協力できることは、何一つとしてありません」
ナユタは、震える口の端に淡い笑みを浮かべて、キッと大男の瞳を見返した。
大男はナユタの瞳を静かに見降ろして、残念そうに、それでいて無造作に右手を突き出した。高まる魔力の気配。
「そうか……貴女も、我々と同じだったのだな」
男に譲れないものがあるように、ナユタにも譲れないものがある。
彼らの目的が破壊ノ幻魔の復活であるならば、それは人類に対する明らかな敵対行為。つまりは彼らは、幻魔と同じか、或いはそれ以上にナユタが屈してはならない存在だ。そんな彼らに与えるべき情報とやらも無ければ、この身を易々と渡すつもりもない。この短い人生で経験した痛みも、悲しみも、喜びも、全てはナユタのものだ。誰にも渡さない。この心を、奪われてたまるものか。
覚悟を決め、ナユタはじっと目を閉じる。浮かんでくるのは傲岸不遜なイオの笑みだった。ナユタはそれに心から安堵する。正直言って、ナユタが男達に勝てる可能性は皆無に等しい。だがそれでも、彼なら、きっと……。
男から繰り出された魔術が何だったのかは、ナユタには分からない。けれどナユタは、自身が内側から崩壊し始めていることを自覚した。暗転する視界の中で、ナユタは祈るように笑った。
「……辛い役目を、背負わせてしまってごめんなさい。イオくん。でも……」
ナユタはイオを信じている。彼なら、ナユタに大切な人達を傷つけさせない。彼なら、ナユタを破壊ノ幻魔の中に留めたりしない。彼なら、破壊ノ幻魔になったナユタを、ーーー絶対に殺してくれるから。




