第五十九話
太陽を隠す分厚い雲が零層都市周辺を覆いつくす中、学院長兼市長であるヴァイゼン・アカデミアは、飛空艇でリスティア湖まで向かっていた。
旅の疲れを感じさせない工夫に富んだ椅子に深く腰掛けながら、こんなものではなく戦団使用の船ならば、と思う。しかし、ないものねだりをしても仕方ない為、ヴァイゼンは手元の資料に目を落とした。
先ほど零層都市でとある人物から手渡された、二つの資料である。資料の一つ目を開き、ヴァイゼンは改めその内容に眉を顰める。
「……解放者。それに、”核の適合者”とはね…」
そう静かに呟いたヴァイゼンはつい数刻前を思い出した。幻魔の群れの出現を確認し、その指揮の為に市長室へと向かったあの時を。
♢
「…とにかく、リディアにある全ての戦力を結集する必要がある。そうでもしなければ、この襲撃には対処できないよ」
学院で生徒達に詳しい状況を説明してナユタと短い会話を交わした後、ヴァイゼンは全軍の指揮の為に、足早に市長室を兼務している学院長室へと向かっていた。
隣で情報を整理していた副市長の女性が、手元のファイルにきびきびと彼の言葉をメモして頷く。
「…了解しました。それで、各軍の指揮官は……」
「……」
副市長の言葉に答えず、辿り着いた学院長室の前で、ドアノブに手を掛けたまま茫然と立ち尽くすヴァイゼン。
彼は部屋の中に存在する魔力に僅かながらに目を眇める。これは一体、誰の魔力だ?
「…あの、市長? どうされましたか?」
「ん?」
再び副市長に声を掛けられて、ヴァイゼンは慌てたように片手を上げた。
「ああ、すまない。少しだけ考え事をしていてね」
「そうですか。今は有事ですから、あまり他の事に気をとられないで頂けると助かるのですが」
「はは…そうだね」
相変わらず手厳しい副市長に苦笑するが、ヴァイゼンはすぐに真剣な眼差しになる。
部屋の中に副市長を入れるのは得策では無いと判断したヴァイゼンは、一度彼女に向き直ると、頭の中に広げた戦力図を読み取って告げた。
「幻魔が出現したのは三か所だよね。…東南方面”モンテスク大森林”。西方面”ホログナ教会跡”。そして北東方面”リスティア湖”」
「はい。特にリスティア湖に関しては、他に比べて幻魔軍の強度が高いようです」
「なるほどね」
補足情報に頷いたヴァイゼンは、時間も無い為即座に結論を出した。
「東南方面軍、および西方方面軍の指揮官に関しては、全面的に君に任せる。ただ東北方面軍については、フッキさんを指揮官にするように伝えてくれ」
「フッキというと……アリシア国軍大将、フッキ・ファイディンガル氏でしょうか?」
「ああ。そうだ。君は今すぐ本部に向かい、これを伝えて欲しい。……僕は少し”来客”があったから、その後で合流するよ」
「来客?」
「ああ」
「……なるほど、そういうことなら了解しました。それでは失礼します」
ヴァイゼンが市長室を見据えて頷くと、何かを察した様子の副市長はすぐに敬礼をして、駆け足で対策本部へと向かう。
その背中を見送って、頼もしいなあと笑みを浮かべながら、ヴァイゼンは再び市長室のドアノブを握った。
その瞬間、部屋の中から放たれた気配に、思わず身を震わせる。しかし、ただ待っている訳にもいかない為、ヴァイゼンは溜息をつきながら扉を開けて中に入った。
開け放たれた部屋の窓から吹き込む生暖かい風が、ヴァイゼンの頬を撫ぜる。
膨大な魔力の主は、入り口から入って正面にあるヴァイゼンの執務席に座って、曇り空が広がる窓の向こうを眺めていた。
透き通る華奢な体に翡翠色の髪を携え、目元を黒色のベールで覆った少女の様な人物。ヴァイゼンも面識は少ないが、彼はその人物を知っている。
ゆっくりと振り返った少女が口元に柔らかな笑みを携えて、耳を優しく撫でる様な、透き通った声を発する。
「…ヴァイゼン学院長、お久しぶりですね」
ただ声を発しただけにも関わらず少女は、ヴァイゼンが思わず攻撃態勢に移行したがるほどの圧倒的な圧力を放つ。
随分と長い息を吐いて、緊張を少しだけ和らげたヴァイゼンは苦笑を浮かべてそれに答えた。
「……ええ、お久しぶりです。しかし全く、心臓に悪いので、今度からは正式なアポをとってから来ていただけますか? 僕じゃなかったら今頃心臓発作で倒れてますよ」
冗談では無く、本気でそう言ったのだが、少女はくすくすと笑うだけだった。
「あなただから、こうして直接訪れたのですよ。あなたの力を、私は認めていますから」
「……それは光栄なことですね」
「そうでしょう」
笑う少女が放つ圧倒的な力の波動に少しだけ慣れてきたヴァイゼンは、彼女に歩み寄りながら本題へと入る。
「それで、何用でしょうか。今は非常事態でして、正直そう長くお話をしている時間もありませんので」
襲撃に際して、ヴァイゼンは一秒でも時間を無駄にできない状況に置かれている。それでもヴァイゼンが時間をとったのは、彼女がそれだけの人物だからだ。
少しだけ焦りを滲ませたヴァイゼンの言葉に、少女は軽く頷いて答えた。
「状況は理解しています。ただこれは、今回の襲撃に際して非常に重要な事項なのです」
少女は虚空から二つの資料を取り出して、ヴァイゼンの執務席に置く。そしてそれを手に取るようにヴァイゼンに促した。
どうやら手に取らないと始まらないようなので、ヴァイゼンは大人しく机に置かれた資料を掴み上げた。少女が続ける。
「…目を通しながらで構いませんので、聞いてください。……それは我々が調査の末に掴んだ、新たな情報です」
一枚目の資料に軽く目を通したヴァイゼンは、その内容に思わず目を見開いた。
「…これは、本当なのですか!?」
冷静な彼らしくない、叫びにもにた声音が学院長室に響く。しかし対照的に少女は、静かに首肯した。
「ええ。我々も調査を重ねた末に到達した、まごう事無き事実です」
返ってきた少女の言葉に、再び衝動的に資料を眺めたヴァイゼンは、ゆるゆると首を振った。
「…信じられません。まさか、そんなことが……」
「ふふ。あなたのその表情も、懐かしいですね。あなたがまだ戦団組合にいた頃には、随分と沢山目にしたものですが」
「…まぁ戦団組合は、この手の驚きをもたらす情報には、事欠きませんでしたからね」
からかう様な口調にヴァイゼンがやれやれと肩を竦めて苦笑する僅かに懐かしそうな気配。
「…そうでしたね。本当に懐かしいものです。もう数年前になりますか」
「…ええ。我々も年をとったものですね」
「ふふ。女性の年齢に口を出すなと、あれほどイラスに言われていたのに、もうすっかり忘れてしまっているんですね」
あらあらと笑う少女にヴァイゼンが苦い表情で頷くと、少女はあっと思い出した様に軌道修正した。
「話が逸れましたね。ごめんなさい。先に進みますので、次に二枚目の資料を見てくださいね」
二枚目に書いてあった内容もこれまた衝撃で、ヴァイゼンは今度こそ眩暈を覚える。
そして額に手を当てて、思わず呟いた。
「……なんてことだ。どうして彼女が…」
「それは分かりません。とにかく彼ら、”解放者”と名乗った集団が、その少女を探していいたみたいですので、ご連絡を。零層都市在住とお聞きしていましたが、お知り合いでしたか?」
その書類に書かれていた最重要人物は、ヴァイゼンのよく知る人物だった。
事も無さげに問うてきた少女に、ヴァイゼンは焦りを押し殺した声で答える。
「…僕の、姪です」
少女の眉が嘆かわし気に潜められて、それからヴァイゼンに背を向け、再び窓の外へと視線を送る。
「……それならば、できるだけ早く行ってあげた方が良いかもしれません。”核”として、取り込まれる前に」
少女の言葉に、ヴァイゼンは手元の資料に映った、ナユタの写真に目を落とした。
その後少女は、ヴァイゼンに短い挨拶だけを伝えると、ふわりと浮かび上がって窓から去っていった。彼女が居なくなった部屋で、ヴァイゼンは指揮官としての任務を一通り果たし、本部で様々な指令をこなして、零層都市を発った。解放者と呼ばれる存在に狙われている、ナユタを守る為に。
♢
「……”解放者”か。相当な手練れだ。……正直言って、ナユタ君には荷が重い。イオ君が彼女と一緒に居てくれるとありがたいんだが」
少女から手渡された資料の一枚目に記載された、解放者と呼ばれる存在の強さに、ヴァイゼンは祈る思いで呟いた。
「…戦団組合の精兵を、容易く葬った存在とはね」
フッキやリンカーンなどの指揮官クラスを除いて、そんな存在に対処できるのはイオくらいなものだ。姪であるナユタが挑んだ場合、どのような事態になるかは想像に難くない。
万全な態勢であっても十中八九、これまでのリスティア防衛戦で奮闘した事を考慮すれば、九分九厘ナユタは敗北する。ヴァイゼンにはそう言い切れるだけのデータが揃っていた。
「ナユタ君、無茶だけはしないでくれ」
これまで数年に渡って見守り続けて来た彼女の笑みを思い浮かべて、ヴァイゼンは祈るように目を瞑る。それから不安、恐れ、迷い、自らの全ての感情を吐き出してしまおうとする様な長い息を吐いて、ヴァイゼンは再び目を見開いた。
「彼女にそれを言っても、無理な話ではあるか…」
はっきり言って想像したくも無い事態だが、可能性として考えておく必要はある。
ヴァイゼンは常に最悪の事態を想定して、これまで準備を行ってきた。報告にあった不死鳥の様な性質を持つ幻魔についても、その限りでは無い。
とにかく、今は一秒でも早く、リスティア防衛戦指揮官のフッキに連絡事項を伝えなければならない。もはや手遅れかもしれないが、ナユタ達が交戦していることも考慮して、それに間に合う事も重要だ。
ヴァイゼンは焦りを感じさせない、落ち着いた声音で問う。
「…リスティア湖までは、あと何分で着く」
「十分もかからずに到着すると思います」
操縦桿を握る機長が緊張した面持ちで答えるが、ヴァイゼンは普段通り、それでいて力強く頷いた。
「そうか。悪いができるだけ急いでくれ。とにかく今は時間が惜しい」
「了解です。出力を上げますので、お気をつけてください」
「ああ。分かった」
ヴァイゼンはそう言って、窓の外を見やる。気持ちは今日の空の様に晴れないが、とにかく今は祈る事しかできない。
「どうか無事でいてくれ。ナユタ君」
最悪の事態を想定して、ヴァイゼンはリスティア湖へ向かう。




