第五話:新しい日常
翌日。何とか手持ちの物品をやりくりして数日分の金を作ったイオは、再び大衆酒場ギンにいた。
昼間から酒を飲む気分にもなれなかったので、ユリナおすすめのスペシャルブレンドのコーヒーを頼み、試験勉強の休憩がてら店の入り口付近に用意された新聞を読み漁っていると、ユリナがカウンターからイオを見やって口を開いた。
「イオ君さ。昼間から学校に行かずに、こんな所に居座っていていいのかい?」
呆れとも同情とも取れる問いに、イオは静かに新聞を捲って答える。
「俺は学校にはいっていませんよ。家庭的な事情があったもんで」
別に学校に行かずとも、イオには学習が十全に行えるだけの環境が、幸いなことに揃っていた。そもそも前線で暮らしていた彼に、学校などという概念は無い。
イオが淡々と答えると、ユリナはバツの悪そうな笑みを浮かべた。
「あ…いやぁなんかごめんね。そっか、そういうこともあるよね」
何だか理解に齟齬が生まれている気がしたが、それで学校に行っていないという事実が変わる訳でもないので、イオは心の揺らぎも無く答える。
「気にしないでください。まぁよくある話ですよ」
「…ご両親は何も言っていないの?」
まだ聞くのか。
そう口にしたい気持ちをどうにか落ち着けて、イオはふと記憶を探りつつ答えた。
「…そうですねぇ。両親は知りませんし…俺の面倒を見てくれた姉さんは…」
そこまで言うと、突然喉元まで感情が昂ってきた。しかしイオは首を一つ振って、吐息交じりの言葉で答える。
「…まぁ何も言ってませんでしたね」
「へーそう。君は随分と苦労人なのね」
「ま、そんなとこですね」
イオはそうお茶を濁しつつ、それに関しての追求を避けた。秘匿を要請されている以上、自分が戦団員である事を知られる訳にはいかなかった。
「それより、アイツこそ学校に行かなくていいんですか?」
これ以上の詮索を回避する為に、イオはユリナから向けられた視線を受け流すようにして隣の席を指さした。勉強に励んでいることが如実に伝わってくる机周りであり、イオが昨日最初に座ろうとした一番右端の席だ。しかし席の主は現在離籍中であり、そこには誰もいない。
しかしユリナの視線がその空席に注がれることは無かった。それどころか逆に面白そうな笑みをイオに向けたままユリナは答える。
「彼女は中等部でも優秀な成績だからね。いろいろあるのよ。なに? 彼女が気になるの?」
「…そういう訳じゃないですよ」
「へぇ?」
じっと見据えてくるユリナから、イオは僅かに視線を逸らした。そして再びコーヒーに口をつけていると、話の渦中の少女が戻ってきた。
「…ただいま戻りました。って、ユリナさん、何ですか?」
ニヤニヤとした表情で自分を眺めているユリナに気が付いたらしいナユタは、イオの隣に腰を下ろしつつ首を傾げる。するとユリナは暖かい目をして静かに首を横に振った。
「何でも無いわ」
「あ、ユリナさん。オレンジジュース追加でお願いします」
「じゃあ俺はフライドポテトで」
「りょーかい」
そして他愛の無い事務的なやり取りの後で、ユリナはとてつもない爆弾を投下する。
「あ! そう言えばナユタちゃん。何で学校行ってないのって、イオ君が気になってたわよ」
さらりと爆弾を投下したユリナは、そのまま注文された品を提供する為にカウンターの奥へと引っ込んでいく。しかし思ってもみなかった彼女の言葉に、イオは思わずコーヒーを吹き出しそうになった。
彼女の言葉を受けて、ナユタの蒼色の瞳がイオに向く。
まずいと思った。何故ならナユタが学校に行っていない理由、そんなものは絶対に何かしらの特殊な事情に決まっているからだ。
ユリナを非難することは一旦置いておいて、何とか頭の中で上手い言い訳を考えるイオ。しかし対するナユタは、ただ朗らかに笑うだけだった。
「なんだ、そんなことですか。確かに私は中等部に在籍してますけど、飛び級して、もう既に教育課程を終えてますからね。学院に入学してしまえば自動的に卒業になります。ですから今は、こうして学院の試験に向けて自習に励んでいるんですよ」
彼女の口から飛び出した言葉が凄惨なものでなかったことに、イオは静かに安堵する。
しかし同時に、彼女が本当に優秀な人材であることに改めて気が付いた。
焦りが一転して、感心へと変わる。
「へぇ、そういうことだったのか。…勉強してんの隣で見てたから何となくは分かってたけど、ほんと頭いいのな」
「自分でいうのもあれですけど、結構賢いですよ。何せ、特待生になりますから」
彼女の口から飛び出した、特待生という言葉にイオは首を傾げた。
言葉の意味が分からなかった訳では無い。特待生はどこの教育機関でもあるように、試験結果上位者を優遇するシステムの事だ。
イオが理解できなかったのは、ナユタがそれを目指す理由だ。
「特待生狙いってことは、優待が目的なのか? だけどナユタは別に金には困ってないんだろ? 俺に借りてる六百万リアは抜きにして」
手入れが行き届いた髪や肌。真新しい白色のワンピースに身を包んだ彼女が金銭的な問題を抱えているとは、イオには思えなかった。
彼の言葉に含まれた、金銭目的ではないだろうという問いに、ナユタは大いに頷きを返す。
「そうですね。イオくんに借りている六百万リアは、完全に私個人の問題ですからそれはこの際考慮しないとして。…イオくんの予想通り、私は金銭的な問題解決の為に特待生を目指している訳では無いんです。もちろんそれも理由の一つではありますけど」
「まぁ免除できるなら、それに越したことは無いよな。んで、一番の理由は?」
「卒業後の為です。知っていますか? 卒業時の最終成績で十番以内に入っていると、卒業後の戦団立ち上げ費用をある程度国に負担してもらえるんです」
「あー、それでか」
ナユタの言葉に、イオは納得顔で頷いた。
戦団に所属していた身である彼はその内部事情にある程度精通している。戦団組合に所属し、自分の戦団を立ち上げるためには多額の資金が必要なのだ。彼女の話が本当ならば、学院を優秀な成績で卒業すれば、どうやらその一部を国が負担してくれるらしい。何と太っ腹なことか。
「確か卒業時の成績には、入学当初の成績も一部反映されるんだっけか」
特待生、すなわち特別招待生はその名の通り、学院生活において特別的な待遇を受ける。そしてさらに、入学金や心身維持に掛かる費用全て免除といった金銭面での援助はもとより、卒業後の進路に有利になる独自の得点の追加なども待遇の一つに含まれると、イオも書類で一度見た気がする。
「その通りです」
ナユタはイオの言葉を肯定した。
今の会話から得られた情報を総括すると、彼女は優秀な成績で卒業するために入学時から高い得点を得る必要があると理解し、そのために行動しているという事だ。三年後の卒業の為に今から努力を重ねるとは、何と計画性のある少女だろうかと感心するイオに、ナユタは興味の色をその目に浮かべる。
「逆にお聞きしますけど、イオくんは目指さないんですか? もしかして他の優待とか?」
実は学院における優待入学としては、推薦入学や政策入学など様々な制度がある。しかしイオは戦団から派遣されただけで、実際は政策入学には当てはまらない。推薦入学でもないとなれば必然的に一般枠で受けるほかなく、好待遇を欲するのであれば特待生を目指すしかないのである。
しかし特待生枠は上位数名だけであり、全ての一般受験生が特待生を狙うため、その戦いは当然として厳しいものになる。そしてイオには、彼自身が明確に理解できるほどの明らかな弱点があった。
イオは眉をしかめながら、腕を組む。
「俺は優待生じゃねえよ。だから今後の生活費とかも考えると、できれば特待生で入りたい。けど、筆記試験が問題だな」
「自信ないんですか?」
「まぁな。ナユタは筆記対策はどんな感じだ? 特待生宣言するからには、完璧に近い感じか?」
「まぁ自分で満足できる日は来ないと思いますけど、それなりには自信ありますよ。良かったらその問題集今といてみてください。分からなかった所の答えは、私が教えて差し上げます。この前助けてくれたお礼です」
ナユタはそう微笑むが、何だか恩着せがましいような気がしたイオは苦笑しつつ、結局はペンを握った。
「ならお言葉に甘えて」
イオはナユタに断りを入れてから新聞を片して、その下に広げていた問題にとりかかった。




