第五十二話:撤退
幻魔の群れは一時十数メートル後方まで迫ったが、ナユタとイオが後方の幻魔を片っ端から叩いた事もあって、部隊は拠点への撤退に成功した。
見えて来た仮拠点に、今まで張り詰めた空気が漂っていた兵士達から安堵と疲労が混じった様な声が漏れる。
「…拠点だ」
「後方支援の部隊はいるのか」
「とにかく、手当てをしないと」
兵士達は精神的な疲労を受けていた。
当然だ。なぜなら幻魔に背後から追撃される時の恐怖と焦りは、立ち向かう意思が明確な通常戦闘よりもずっと多い。群れに呑まれれば、待っているのは死だ。死の波が背後からじわりじわりと攻め寄せる状況で、冷静でいられる人間は、いくら兵士と言えどそうはいないだろう。
つい一時間ほど前に作戦会議を行ったテントが見えてきて、副官リンカーンの中にも焦燥感が広がるが、彼はそれを抑えて自己を律する。
「作戦会議も、今一度し直す必要がありますかね」
「ああ。我々で先に始めておいて、イオ君が戻り次第、彼にも意見を仰ごう」
「ええ。しかし、少しだけ疲れましたね」
「ああ、全くだ。私は本部で今一度作戦概要を練る。リンカーン、貴様は指揮官達に準備を急ぐよう伝えろ。二次作戦第一段階の指揮は、全面的に任せる」
「了解です」
リンカーンはテントへ足を運んだフッキを見送って、小一時間程前を振り返る。
作戦会議中に起きたイオとレール少佐の小競り合い。当時は驚きこそしたが、今思えば平和な時間だったと思う。作戦が失敗した、今となっては。
リンカーンはじっと、硝煙が上がり続けているリスティア湖を見やる。中央軍はあらかた撤退した為、あれは左右に展開していた軍のどちらか、或いは双方の兵士が巻き起こしているものだろう。
「しかし、イオ君もナユタさんも、追いついてくると思っていましたが、予想以上に苦戦しているのでしょうか」
リンカーンは騒がしい森を見て、顔を顰める。未だ戻らないイオとナユタ、二人の若者の安否については常に気を揉んでいた。
そんなリンカーンの後方から、慌てた様な足音が近づいてくる。
「り、リンカーン副官っ、ご無事ですか! 一体何が!」
後方待機して二次作戦の準備をしていた兵士が、撤退してきた中央軍に気が付いたようで、息を切らしながら部隊の先頭に立つリンカーンのもとまで走ってくる。
リンカーンは、そちらを見やると厳しい目で告げた。
「一次作戦は失敗した。強大な幻魔の出現によって、我々中央軍も部隊の多くを失い、左右の軍にも同様の被害が出ている」
リンカーンが冷静な声音だからこそ、その内容の衝撃は大きい。兵士は顔を真っ青にして、まさかと呟いた。
彼の心境は、リンカーンにも理解できる。自分も撤退中に、左右両軍が中央軍同様激しい損耗を受けていることを聞かされた際には、随分と驚愕し、戦慄したものだ。
詳細は不明だが、どうやら中央軍を壊滅させた不死鳥の如き幻魔が、左右両軍にも同様の被害を与えたらしい。確かに、森に入ってから明確な追撃が無かったのも、姿が見えなくなったことにも違和感はあったが、やはり左右の軍の戦力も削られていた。左右の軍が合流できたとしても、二次作戦を行えるだけの戦力があるかどうか。正直実感は湧かないが、状況は溜息を吐く余裕すらない程、はっきり言って絶望的だ。
「君は、引き続き二次作戦の準備をしてくれ。各部隊長に、私の元まで来るように伝えてくれ」
「り、了解です」
指示を受けて去っていく兵士の背を見送ってから、リンカーンは考えを巡らせる。
軍的に考えれば、二次作戦は決行されるだろう。もともと二次作戦までを本防衛作戦の概要に入れていた為、それに沿ってこの後は動くことになるが、それもどこまで効果を発揮するか。
「…どうやったら、リディアを守れるものか」
考えたくも無い最悪の結末を頭に思い浮かべて、リンカーンは小さく息を吐く。
それから暫くすると、二次作戦の準備に務めていた指揮官達が集まってきた。リンカーンは彼らの労いの言葉もそこそこに、指示を出した。
「みな、わざわざ集まってもらって悪いな。現状は見ての通りだが、一次作戦は失敗した。我々は二次作戦に移行する。それに伴って、二次作戦の第一段階をこれより開始する。。リスティア湖に進入した幻魔を仕留める精鋭班の人材は、フッキ大将による選考が、今まさに行われているところだ。よって各部隊は予定通り、用意した大砲や爆薬、あらゆるものを総動員して、左右の山を崩す事に務めよ。また、現在中央軍の撤退の為にイオ君とナユタ君、二名の学院受験生が殿を務めてくれている。彼らは見つけ次第保護するように。……エリック少佐、ララ少佐」
「「はっ」」
リンカーンが、彼の前に立つ二人の男女の名を呼ぶと、二人は一糸乱れぬ動きで前に出る。そして敬礼の姿勢をとった。
「君達には左右の山の状態を確認してもらいたい。エリック少佐が、君達から見て右側の山、ララ少佐が左側だ。……部隊の人員、または少佐たち自身でも構わないが、とにかく山の状態を確認してもらいたい。どの程度の人員と物資があれば、山を崩す事ができるかを、念入りに確認してくれ」
「「了解です」」
艶やかな黒髪と大きめの黒目を持つ女性兵士と、細身ながら筋肉質な男性兵士が同時に頷いて、その場を後にする。
その背を見送って、リンカーンは再び声を発した。
「残りの者は、とにかく魔砲、大砲、その他物資の整備に務めよ。リスティア湖に入ってから幻魔の侵攻が緩やかになっているが、とにかくタイムリミットは三時間程度だ。限られた時間の中で、各自己にできる事を考え、準備してくれ。以上、解散!!」
「「「はっ」」」
去っていく兵士達の背を見送ったリンカーンは、今一度リスティア湖外縁部の森を振り返る。
どうかご無事で、そう祈ったリンカーンは、今度は振り返らずにフッキの元へと向かった。




