第二話:零層都市『リディア』
『行かないで、ダメだよ、そんなの違う、行かないで』
何度もそう叫び、泣き叫ぶ少女。顔は朧げで、名も分からない。
しかし、薙ぎに揺れる大海のような、一際大きな碧眼だけが、やけに瞼に焼き付いていた。
そして、知っている。
イオはその手を振り払い、少女を庇うようにして立ちはだかった。
あの絶望的な、絶対的な力の前に。
そして──
『…ご搭乗ありがとうございました。まもなく終点リディアです。本機は当発着場終着です。お乗り換えのご案内を致します。この後、六番搭乗口から…』
──目が覚める。
「くぁぁ……ったく、せっかくの旅だってのに、嫌な夢見るもんだな」
一つ大きな欠伸をして、伸びをしたイオ。
痺れかけている尻を労うために硬い席を座り直し、右手にある丸型の小窓から外を見やる。彼の夜空を写した様な紺碧の眼下には、煉瓦造りの街が広がっていた。
一言でいえば、その街は巨大だ。
空からでも全貌を把握できない程の巨大な都市が、堅牢な城壁に取り囲まれている。
そこが目的地である事を知らせる放送を聞き流しながら、長旅で蓄積された疲労を開放する様に、イオはもう一度大きく伸びをした。
『…本日もご搭乗、誠にありがとうございました。まもなく発着場に到着致します。乗客の皆様はご着席し、ベルトを今一度お確かめ下さい』
飛空挺からの眺めは、いつ見ても爽快である。
だが、先程の夢に対する杞憂は晴れない。自分でも思考の無駄遣いだと理解していてなお、気にせずには居られない。
イオはシートに備え付けられているベルトを締めなおして、再び外を見やる。地面がみるみるうちに近づいて来て、彼を乗せた飛空挺は減速し、巨大な建物の中へと入った。
陽光はあっという間に遮られ、窓から移る景色は、石、木材、鉄へと変わっていく。さながら飛空艇製造工場、または整備工場といったところだろうか。
しかし、そこは似て非なる役割を持つ、飛空艇の発着場だ。
一般的な建造物の階層にして約三十階分はあろうかという建物だが、各階を仕切る床は二つしかない、計三階層からなる巨大建造物。階層内に幾つもの区切りが存在し、その壁際に設置された、搭乗スペースから伸びる階段通路が飛空艇を向かい入れていた。イオが乗る飛空艇も、例外なくその中の一つに収められ、窓から見える視界が一気に狭まる。
飛空艇の客室並びに運転席がある機体下部の上に作られた、動力部やその他重要機関が含まれる機体上部。それを建物上部から降りてきた幾つもの巨大なアームがガッチリと抑え、飛空艇の制御を奪った。
飛空艇は一度大きく揺れると、徐々に減速して停止した。
飛空艇は着陸の為の機構を持たない為、こうして天井から吊るすような形での到着となる。
『ご搭乗ありがとうございました。皆様足元にお気をつけてください。出口は当機前方にございます。どうぞこの後もお気をつけて、行ってらっしゃいませ。機長は……』
再度機内放送が流れ始めたのを確認して、イオは席を立つ。
そして少し高い場所で既に開かれた扉に到着する。
涼しく快適だった機内から出ると、日陰ながらに、むっとした暑さが肌をそして彼の為に仕立てられた衣服の内側を支配した。
彼が降り立った、ここ、アリシア王国には四季が存在する。
春夏秋冬朝昼晩、自身を包む環境が目まぐるしく変化する王国の南方に位置する零層都市リディアは、人々にとって快適な気候だった春が去り、夏将軍の訪れを予期させしていた。
イオは早速肌に張り付いた服の感触に盛大に顔を歪めると、他の乗客の列に連れられて、荷物の受け取り場に向かった。
飛空艇の発着場には大小が存在する。
この都市は人と物の流れが活発であることが要因で、世界的に見てもかなり巨大な発着場だ。
その大きさは小さな山一つを軽く超える。
全長二百メートルまでの大型飛空艇を、地下を含めた合計三層、並びに各層二十門で格納できる超大型の発着場。そんなものは世界に数える程しか存在しない。それに伴い、この都市の発着場は、ただ発着の為だけに留まらない程成長を遂げている。世界各地へ飛び立つ飛空艇の旅を豊かにする物品、食料調達用の特別窓口、他を上げれば枚挙にいとまがない。
そんな超大型の施設を何とか歩き抜いて、イオは出発前に自らが預けた荷物を受け鳥に向かう。
受け取り場に到着した彼は、ポケットから出発前に荷物と交換していたチケットを取り出して係員に差し出した。
「お願いしまーす」
しかし、係員が動く様子はない。不思議に思ったイオは、係員に再度声を掛ける。
「えっと、引換券ってこれであってます?」
すると係員は我に返ったように引換券を受け取って声を上ずらせる。
「は、はい! ご確認させていただきますね………はい確かに! お荷物はこちらになります。ありがとうございました!」
「暑い中ご苦労様です」
「い、いえ。ありがとうございます」
荷物を受け取ってから、暑さで朦朧としてしまったであろう係員を労って、その場を後にしたイオは発着場から第二到着口を通って発着場を出た。
真っ先に目に飛び込んで来るのは、活気に満ちた最新鋭の街並み。
木材を基調にして、屋根の煉瓦の鈍い赤色。
道の左右には整備された水路があり、水の流れる音が何とも風情に満ちている。
傾斜の緩やかな円錐の様な地形をしているこの都市は、端からでもその中心に聳える巨大な建物を見通すことが出来た。
肌を焼く様に照りつける真夏の太陽の日差しを手で遮り、多くの人々が行き交う公衆街道のど真ん中。
見上げた空には、先ほど乗ってきた型と同じ飛空挺が浮かんでいた。
飛空挺。
大空を縦横無尽に飛び回るそれらは、主に長距離移動に用いられる。数十年前にある研究機関が、膨大な魔素の集積体の一つで、空を駆ける広大な糸の結びつきである”天流”に乗ることで、自由自在に空を駆ける事を可能とした結果生まれた産物だ。飛空艇の誕生は地上に比べて安全性の高い空を、人類が自由に闊歩する時代の幕開けを促した。最初こそ安全性の観点から使用が躊躇されたものの、戦団を中心に次第に物流人流は更に活性化し、物資も同盟関係にある国どうしてあれば、多くのものが共有されるようになった。近年では、幻魔との戦闘の為に飛空艇に搭載される兵器の開発にも力が注がれているようで、飛空艇は日々進化の一途をたどっている。
そんな人類の正に英智の結晶とも呼べるものを眺めるイオの目に、僅かな痛みが走る。先刻拭ったばかりだと言うのに、彼の額には汗が滲み出てきた。最近まで比較的涼しい地域で暮らしていた彼の体には、この初夏の暑さとの寒暖差によって大きな負荷がかかっており、それが彼の疲労感を倍増させる原因であった。
そんなことは露知らず、木造の家屋の日陰では、犬が大きな欠伸をして眠たげな視線を地面に落としている。
「あっちぃぃ!」
アリシア王国第三の都市、零層都市リディア。その歴史趣深い街の賑わいを肌で感じながら、叫び声を上げたイオは、周囲の注目を集めたのだった。
♢
到着から十数分。一度木陰で休憩してから、師匠イラスに言われた挨拶の為に、イオは小高い丘を登っていた。その道中では様々な人物を見かける。商人、軍人、探索者、一般市民、そして学院生。
更に丘を登り、都市に到着してすぐの大通りから見えた建物に近づいていく。木々の安らぎに囲まれた開けた丘の上に出ると、その建物が姿を現した。
アリシア王国の中核を成し、誕生時からこの国の為に優秀な人材を供給し続ける名門教育機関、アリシア王立高度教育学院。過去の栄光と未来の安泰を見守り続ける学び舎は歴史深く、多くの生徒が学び成長した歴を感じる。
現在は夏期休業中で里帰りをしている生徒が多数見受けられるということもあり在生徒数は減少しているが、金銭的余裕がある者は、夏期休業中であっても、各々自らの目的の為に王立高度教育学院、一般的に学院と称される学び舎へと通っている。
イオは、紺色と黒とを基調とした軍服の様な制服を身に纏った生徒たちの間を進んで行く。当然検閲で身分確認をされたが、紹介状を見せれば皆難なく通してくれる。
「お困りごとですか?」
指定された部屋へ行く為に校舎案内を見ていた所、いきなり声をかけられてイオは少しばかり肩に力が入る。先ほど学院の教師が案内してくれるという話を受付から聞いた。イオはその場で待機している所だったため、完全に気が抜けていたのだ。
振り返ると、そこには女子生徒が二人、イオを見上げて首を傾げていた。その服装はどちらも同一の制服だが、スカートの短さやその他が微妙に異なっているので、完全に統一しなければならないという訳でもないようであった。恐らく彼女たちはイオが道に迷っていると思い、声をかけてくれたのだろう。
「あーえっと、人を待ってるだけなんで特には」
現段階で学院に在籍している時点で明らかに年上であると理解できた為、イオは敬語を使う。彼の答えを聞いた二人は、顔を見合わせて笑みを浮かべると、照れくさそうに再び口を開いた。
「そうでしたか。それならよかったです」
「わざわざありがとうございます」
「全然大丈夫ですよー」
「どうも」
流石に、世界でもトップクラスの学び舎に通っているだけあって、その立ち振る舞い、声に自信が溢れているとイオは感じた。
颯爽と去っていく二人を見送ると、再び背後から声が掛かる。
「お待たせしました」
声の下方へと体を向けると、建物の中から一人の女性教師が姿を現したところだった。
修道服の様な白磁の教師服に身を包み、被り物の類が一切無いことで露わになった栗色の髪は一部が結えられている。柔らかな笑顔が印象的な女性だ。
彼女はイオをその瞳に捉えて、にっこりとした笑みを浮かべながら手を建物の中へと向けた。
「初めまして。アリシア王立高度教育学院教師のマグナです。イオ君でよろしいですね? 学院長から話は聞いていますよ」
「はい。よろしくおねがいします」
こちらこそ、と頷いたマグナは、彼女が出てきた建物の扉を再び開く。
校舎内は風通しも良く、心地よい気温に調整されていた。
建物に入ってまず目に入ってくるのは大聖堂の様な巨大なエントランスだ。
天井は高く、そこから下げられたシャンデリア達は天窓から取り入れられた光を淡く反射して青色の輝きを放っている。左右には巨大な階段があり、それは巨大な柱の上に敷かれた二、三、四階へと続いていた。
階段を上りながら、マグナはイオに再び言葉をかける。
「イオ君はいつこちらに?」
「ついさっきです」
「そうでしたか。どうですか、零層都市は?」
「あっついですね。最近まで第四戦線の方にいたんで、かなりやられ気味です」
即答するイオに笑みを浮かべながら、マグナは思い出すように視線を左右に揺らした。
「第四戦線というと、かなり激しい攻防戦が行われていると聞きます。苦労もされたでしょう」
どうやらマグナはイオが戦団員であったことを知らない様子だった。基本的に戦団員は仕事として前線にいるので、苦労しているという認識は薄い。寧ろ、戦団員を必要とする地域の住人こそが苦労の対象であり、マグナの認識ではイオは後者のように映ったようだ。
だが、別にイオはその事を不快には感じなかった。何故なら、マグナの認識は極めて正しいものであって、イオがそれに不快感を示す理由もないからだ。戦団に所属できるのは、基本的には十八を超えてからだからだ。イオはとある事情により在籍を特例的に許可されていたが、普通ではあり得ない。戦団員である事を見抜けという方が無理がある。
そういう理由もあってか、イオは戦団員としてここに派遣された事実を隠してほしいとイラス、またその依頼主であるアリシア王国側から頼まれていた。提示された三つの義務とは異なり、規約を結んでいる訳でもないのだから、明かす明かさないはイオ本人に委ねられている。しかし、彼としてもできるだけ面倒なことは避けたいため、この場ではどちらともとれる答えを並べることとした。
「まぁそれなりには。でも結構デカい拠点にいたので、そこまでって感じですかね」
イオの言葉に、マグナは少しだけ意外そうな顔をしたような気がした。
しかし、すぐに柔らかな笑みを浮かべて頷く。
「なるほど。そのお話、是非彼らにもしてあげてください。興味があるでしょうから」
マグナの視線の先にいたのは、学院の生徒達だ。しかし先ほど声を掛けてくれた生徒とは異なり、その胸には自身の家の階級を示すバッジが携えられている。彼らは国から貴族という地位を与えられた者達だ。
イオがそのバッジを見ていると、再びマグナが問うてくる。
「アリシアに貴族がいるのは、意外でしたか?」
「まぁそこそこ。アリシアって結構先進国ですよね。だからてっきり廃止されてるもんだと」
イオは首肯する。
貴族体制というものに、彼は良いイメージを持っていない。
彼の言葉に、マグナは何度も頷きながら答えた。
「そうですね。それでは、入学前の特別講義といきましょうか」
マグナはポケットから一つの指輪を取り出すと、それを右手の人差し指に嵌める。そして同じく右手で指を鳴らした。
するとイオとマグナの前に、ホログラムが浮かび上がる。
それは講義で使用されるである事が容易に想像がつく、勉学に特化した資料だった。
マグナはその資料を、自在に操作しながら続ける。
「イオ君が仰られた様に、近年は社会的平等という観念から、様々な国で貴族地位が廃止される傾向があります。十年ほど前の「世界革命」当初、アリシア王国の社会情勢も一変するかと思われましたが、国の維持に掛かる多額な費用の貴重な収入源であることと、他国に比べて横暴な貴族が比較的少ないことから、アリシア王国では貴族制度を継続する道を選んだのです。結果的に、他国よりも安定的な収入と、愛国心の強い貴族が多数生まれた事によって、我が国は安定した状態を維持できているのです」
マグナの優秀さが垣間見える分かりやすい説明に頷きを返しながら、イオは以前から疑問に思っていた事を何となく彼女にぶつけてみる。
「なるほど。前から気になってたんですけど、貴族体制の崩壊って結局反乱が原因ですよね。それって頭の挿げ替えにしかならないと思うんすけど、実際どうなんですか?」
戦団組合は慈善組織では無い。革命などにも、それ相応の資金を用意されれば戦力を提供する事も、実際のところはある。幻魔だけが彼らの敵ではないのだ。
イオはイラスからそう言った事も学んでいた為、意外というべきか、政治的な問題には造詣が深い。
イオが以前から気になっていた点に関して問うと、マグナは嬉しそうな表情を浮かべて、両手を胸の前で合わせた。
「イオ君はなかなか良い点に気が付きますね。確かに貴族体制が廃止された国の殆どは、結局独裁に逆戻りしていたりするケースが多いんです。本当に成功した事例は実のところすごく少ないんですよ」
「なるほど…」
どうりで軍隊派遣の依頼が収まらない訳だ、とイオは納得しながら続ける。
「講義ではそういう事も習うんですか?」
「はい。興味を持たれますか?」
「いや~。聞いといてあれですけど、俺そういうのは苦手で」
恥ずかし気に笑みを浮かべるイオに、マグナは不快感を一切示さずに言葉を続けた。
「そうですか。まぁ得意分野は人それぞれですからね。イオ君はご自身の得意な所を伸ばしていけば良いと思いますよ」
「まずは入学するところからですけどね」
「ふふっ。それについては頑張ってくださいとしか言えませんね。さて、到着しましたよ」
エントランスから見て左側の階段を登り、通路を奥へと進んでいった先にその部屋はあった。
マグナは扉をノックする。
「ヴァイゼン学院長。お連れしました」
「ああ、来てくれたんだね。入って入って」
扉の中から陽気な声音が返ってくる。
マグナに扉を開けて貰い、中へと入る。
「お久ぶりです。ヴァイゼン学院長」
入って正面に対象が居り、イオが小さく頭を下げる。
彼の会釈の対象、肩まで伸びた白銀の髪を後頭部で纏めた男ヴァイゼンは、小さな眼鏡を中指で押し上げると、両手を机について立ち上がった。一々動きが絵になる人物である。
「やぁイオ君、よく来てくれた。まさか君が来てくれるとは思ってもみなかったけどね。それにしても、忙しい時期にすまなかったね」
「ほんとですよ。これから忙しくなる時期なんですから、ほんとなら俺が前線を離れるのはヤバいんですからね。まぁ、師匠の方が俺の五倍くらい大変そうでしたから、マジで大変なのは師匠ですけどね」
「師匠? ああ、イラスのことか。彼にも改めて礼を言いたい所だよ。今回の派遣依頼は彼の尽力なくして達成されなかっただろうからね…もちろんイオ君、君にも感謝しているよ。最大の功労者である君にね」
「俺自身の訓練期間ですから。別に功労者でもなんでもないですよ」
「ははっ。訓練とは言い得て妙だね。それで、最初の休暇、空の旅は楽しんでくれたかな? ああそうそう。もういつも通り話してくれて構わないよ。しっかりとした敬語は疲れるだろう?」
ヴァイゼンの言葉に、イオは肩の力を抜いて軽く息を吐く。
「なら遠慮なく。旅客用も相変わらず景色は良いっすけど、やっぱ俺は戦団型の方が好みですね」
飛空艇は、旅客用と戦団用で構造が大幅に異なる。イオがその点について言及すると、ヴァイゼンはふむと一呼吸おいてから頷きを返す。
「まぁ出力自体はそっちの方が上だからね。眺めはもちろん旅客用の方が良いに決まっているんだけど、やっぱりそっちが君の性にあっているのかな?」
「戦団用も眺めは同じでしたよ?」
イオの素っ頓狂な表情に、ヴァイゼンはあっと口を開いた。
「もしかして、デッキには行かなかったのかい」
「デッキ? なんですかそれ」
そんなもの、聞いたことも無い。
イオの返答に、ヴァイゼンは自身の不手際を憂うように、自らの頭を叩いた。。
「しまった。君が旅客用に乗るのが初めてだってことを失念していたよ。まぁ、その内また乗る機会もあるだろうし、その時にまた説明してあげるよ」
「わかりました」
「うん。素直でよろしい。さて、それで、どうだいこの零層都市は?」
するりと話題を変えた彼は、窓の外で行き交う人々を眺めて、両手を広げた。先ほどもマグナから問われた内容だが、流石に同じ答えでは自分のためにならないだろうと、イオは思考を巡らせて答えを口にした。
「活気があっていい場所ですかね。売り物も見たことの無いような物ばっかりでしたし」
「この都市は運送業も盛んでね。もともと高い商業性も相まって、製品は多岐に渡るのさ。これも全て零層のおかげだけどね」
「今の話のどこに零層との関係があるんですか?」
「零層での消費行動が、更なる生産需要を生み出すのさ」
零層とは、非常に簡潔に説明すれば、幻魔が無尽蔵に出現し続ける危険地帯で、人類側にもある事情から恩恵を与える場所だ。幻魔が出現する理由、並びに零層内のあらゆるメカニズムは未だに深く解明されておらず、謎に満ちた場所でもある。
その零層の上に暮らしていて危険性が無いのかと言われればそんな事は無い。しかし、零層の入口には一定数の衛兵が駐在している上、日々多くの人材が零層での狩りに勤しんでいる為、地上まで幻魔が到達する事例は極めて稀である。事実、零層自体は危険だがこの都市への危険は少ない。寧ろ零層は探索に出かける者達の消費行動と、それを支援する組合の設立を促し、人々に多大な恩恵を与えている。
だからこそ先程ヴァイゼンが言った様に、この都市は世界中から人が集まり、自然と製品も充実する。この零層をここまで有効的に活用できる方法を、最初に考え付いた者は正に、天に才を与えられたのだろう。
だが、その天才の偉業を受け継いでいる者も、また才ある者と呼べる。
今のイオの目の前にいる人物。王立高度教育学院の学院長にして、零層都市の統括領主たるヴァイゼンもその一人だ。
そんな彼は、他に誰もいないにもかかわらず、声を潜めてイオに問う。
「あ、それでね。いきなり結構シビアな質問なんだけど、暫くの間ここで暮していけそうかい?国としても先の戦で多大な出費があって入学金以外を補填することは難しいみたいでね。もし金銭的に厳しければ、仕事を紹介してあげるけど」
本当に彼は顔がコロコロと変わる。だがイオにはそれがどこか演技じみたものに見えて、少しだけ違和感を覚えた。
「出発前にも一体狩ってきたんで、しばらくは問題は無いですね。それに、零層で討伐した幻魔も換金はできますよね?」
イオの問に、ヴァイゼンは笑みを浮かべて首を縦に振った。
「勿論だとも。討伐した幻魔の特定部位を提出する事で、素材とは別に報酬金が出る。それは幻魔討伐を支援する組織であれば共通の事だよ。よって、零層に挑む探索者を支援する零層組合でも同じ換金システムが採用されているし、学生であってもそれは変わらないよ」
「なら生活費に関しては大丈夫ですね」
イオの自身に満ち溢れた返答を聞いて、ヴァイゼンは嬉しそうに手を叩いた。
「そっか!いやぁすごいなぁ君は。まぁ君なら当然か」
「あ、学院長先生、一ついいですか?」
「何かな?」
前の話をしたことで、彼は出発前に師匠のイラスと交わしていた会話も思い出していた。
イオの酒の弱さを小馬鹿にしてくる、イラスの憎たらしい笑みを思い浮かべてイオは問う。
「学院長先生おすすめの酒場ってありませんか? 師匠から酒に強くなるよう言われたんですよ」
「ああ、それだったら大衆酒場ギンがおススメかな」
迷い一つない回答だった。
「あそこはいいね、料理も酒も美味しい。そして何より店主が面白い」
一八〇センチを超える高身長に超絶美形な顔立ちを持つ、彼は小さく微笑んだ。
「大衆酒場ギンですか? どの辺にあるか聞いても?」
「飛空艇発着場のある北区とは逆方向の南区にあるよ。向かいには宿屋もあるから、泊まる場所が無いならいってみてくれ。もし迷ったらその辺の人にでも聞いてみるといい。結構有名だからみんな答えてくれるよ」
「おー。ありがとうございます。早速この後にでも行ってみます」
「ああ。そうするといい……さて、思った以上に盛り上がってしまったね。すまない。それではそろそろ本題に入ろうか」
彼は一度息を吐くと、席に座り直してイオに向き直った。
「まずは、改めて来てくれたことに感謝するよ。国としても君が来てくれたことは好意的に捉えられているみたいだよ。想定以上の人材が来てくれたとね」
「…まだ学院に入れてないので、正式ではないですけどね」
イオは胃の痛くなるような思いをしながら、ふと疑問に思った事を口にする。
「そういや、何でアリシアは戦団組合に派遣依頼を出したんですか? アリシア王国だったら、正直、俺一人いようがいまいが変わんないと思うんですけど」
イオが問うと、ヴァイゼンは言葉を選びながら答えてくれた。
「王政にしてみれば、今は一人でも強者が手元に欲しいだよ。最近はますます軍事力が必要になってきているみたいだし。君は今は零層都市にいるとは言え、現状ではアリシア王国に雇われる形になっている訳だから、実質君は王政直属の兵士みたいなものだからね」
先進国であるアリシア王国が、戦団員派遣を戦団組合に依頼した理由がイオにとっては気がかりだった。ヴァイゼンが考えるに、それにはアリシア王国を取り巻く近年の情勢変化が関係しているようだ。
彼は事の背景を語りだす。
「元々、アリシア王国は地理的要因により、幾度となく幻魔の襲撃を受けてきた。その被害は甚大で、陥落した都市も少なくない。そんな情勢を打開すべく、二十五年前に多額の資金を投入して作られたのが、この王立高度教育学院なのさ」
キラリと白い歯を覗かせて笑ったヴァイゼンの言葉に、イオは首を傾げる。
「なんでそんな面倒なことをしたんですか?」
「ほう? 面倒とは中々言うね」
瞳に興味の色を覗かせて問うてきたヴァイゼンに、イオは極めて当たり前のように告げる。
「だって、幻魔の襲撃に対処するくらいだったら、戦団組合から軍隊でも何でも借りればいいじゃないですか。今回の俺の派遣業務みたいに。学院ができたのが二十五年前なら、戦団組合の軍隊提供だってあったはずですよね?」
それこそ、革命の際などに用いられる戦団組合の力を使えばいいだろう。国であれば予算の確保も十分可能だ。
イオの意見に、ヴァイゼンは頷きつつ人差し指を立てる。
「うん、確かにそうだね。その事で一つ質問なんだけど、イオ君は、戦団組合から派遣された軍隊がどこの所属になるか知っているかい?」
なんだかイラスを思い出すような問い方だが、イオはとにかく質問に答える。
「そりゃあ、提供先の国ですよね? アリシア王国に提供されたなら、その国の指揮下に収まるが道理ってものでしょう」
当然そうだろうとイオは思う。しかし驚くべきことに、ヴァイゼンは首を横に振った。
「残念ながら違うんだよね。戦団組合から派遣された軍は、形としては国の下に収まるけど、最終的な命令権は戦団組合にあるんだ。一時的とはいえ、命令権が移譲される派遣業務とは根本的に違うんだよ」
「え? そうなんですか? てっきり完全移譲されるのかと」
「僕も契約の内容を確認するまで知らなかった事だけどね」
ヴァイゼンはそう言って肩を竦めると、話を先に進めた。
「まあそんな訳で、戦団組合から提供された軍隊では国を守護するには心もとなかったんだ。それが何故だか、もうわかるよね」
「完全に自分の国のものじゃない軍隊を信頼できないってことですか」
「その通り! いやぁ君は見た目と態度に反して賢いね」
なんだか凄まじく失礼な事を言われた気がしたが、イラスにも同じことを言われているのでイオは見事にスルーする。
「そりゃどうも。なるほど、だから国産の猛者を育成する為に王立高度教育学院を作った、ってことですか」
イオの淡白な反応に少しだけ残念そうな表情を覗かせたヴァイゼンだったが、彼はすぐに笑みを浮かべて頷く。
「そうなるね。結果として、学院の教育完成度は他国を含めても極めて高い水準に至ったんだ。愛国心と力に満ちた兵士の安定した供給によって、アリシア王国は苦汁を舐める時代から解き放たれ、一気に世界有数の強国へと変貌しました。はい、めでたしめでたし」
ヴァイゼンはぱちぱちと手を叩いたが、イオはそんな言葉には騙されない。うまい話には必ず裏があるからだ。
イオは追及する。
「だからって、何もかもが大団円で終わるわけないですよね。国内外から反発があったんじゃないですか?」
「まぁね。ここ数年は軍事力の巨大化もあって、別国や団体との諍いも生まてね。幻魔の討伐に当てられる兵士の数が減少しつつあるのは事実だよ。今はまだ大事にはいたっていないけど、それもあと数年もすれば、或いはということもあるかもしれない」
「呑気に構えてられないですね」
「そうだね。まぁ国もそういう事情を理解しているからか、近年では更に育成に力を入れ始めたんだ。具体的な政策を離しちゃうとね、多額の資金を積んで世界各地から優秀な人材を集めようと図ったんだ。結局財政的な問題から目標であった全ての資金援助は行えず、入学金の援助程度の経済支援にとどまっているけど、それだけでも十分だったんだろうね。国外からも学院に通う優秀な国外生徒は後を絶たないんだ。それが学院の強みで、同時に課題でもあるんだけどね」
「となると、俺もその政策の一環で招かれたと考えるべきなんですかね」
「どうだろうね。君の場合は少々特殊が過ぎる。そもそも、学院は戦団員を育成する立場だからね。その戦団員から優秀な生徒を集めても仕方ない様な気がするけれど、あまり国の事情に首を突っ込みたくはないから、推測は避けるよ」
「俺もそうします。まぁ俺もやるべき事をやるだけなんで、特に積極的に関わろうとは思いませんね」
イオはヴァイゼンの話をある程度理解した。しかし、だからと言ってこれからの生活が激変する訳でも無い為、その点に関しては適当に流してしまう。ヴァイゼンもその態度を特に何とも思っていないようで、小さく頷きを返すだけだった。
「ふむ。僕個人としてもその意見には同意するよ。ただ在籍さえしてくれれば、派遣内容とも合致するし、あとは何をしてくれても構わない。政策のほうに関しては実際そういう生徒もいるし、今の君はもう十分過ぎると言っていいほど強いからね。穏やかな学生生活を過ごしてくれても良いし、零層に潜って更なる強さを求めてくれたって良い」
「そうですね。まぁとりあえずは、リハビリも兼ねて頑張ろうかなと思います」
「そうか。ならそうするといい。学院は全力で君を応援するよ」
「ええ。んじゃ俺はこの辺で」
イオがそう言ってその場を立ち去ろうとした丁度その時、ヴァイゼンが再び口を開いた。
「そういえば、君はまだアレを追っているのかい?」
その言葉に振り返ったイオの確固たる覚悟を持った顔に、ヴァイゼンは目を閉じて息を吐いた。
「そうかい。そうだね。君はそういう男だったね」
「何か情報があれば」
「うん。協力は惜しまないよ。幻魔の大きな動きについても、詳しい情報を君に伝える事にしよう」
「良いですか?」
「勿論。この都市の防衛の為という事だからね。その程度の事は出来て当然さ」
「助かります」
「うん。さて、それじゃあ僕もそろそろ仕事に行こうかな」
ヴァイゼンは席を立つと、イオの隣を通り過ぎて扉を開ける。
「それじゃ。ああ、そういえば試験に関して。書類選考は免除してあるけど、筆記と実技は、やっぱり事前通達通り自分の力で頑張ってくれ。流石の僕でも、その二つを免除する事はできなかったからね」
「それでも十分すぎますけどね。あとは自分でやれるだけやってみます」
「頑張ってね。あ、それと、君に一つ聞いておきたい事があったんだ」
「なんですか?」
静かに首を傾げたイオに、ヴァイゼンは少しだけ顔を険しくして問うた。
また長々と書いてしまいました。次回はちょこっと減ると思われます…そう。ちょこっとだけでも…




