RUN
「お母さん、陸上のスパイク買ってくれへん?」
哲夫は小学校から帰ってくるなり、キッチンで夕飯の用意をしていた母親にねだった。
「どうしたん?いきなり」
「今度、学校で100メートル走の大会があんのやんか」
「ああ、毎年ロータリークラブがやってるやつね」
「うん。それでな。俺の靴、普通のスニーカーやからダッシュするとき滑るんやんか。だから、滑らないスパイクが欲しいねん」
「スパイクって何よ?」
「もう、靴の裏に爪のついた靴のこと!」
「ああ、野球選手なんか履いてるやつ?」
「うん」
「あんなの、いいの?危ないんじゃない?」
「鉄の爪のついた奴はあかんけど、プラスチックの爪ならいいんやて」
「ふうん。いくらなの?」
「わからへん」
「う~ん、お母さんよくわからないから、お父さん帰ってきたら聞いてみなさい」
「わかった。じゃあ、遊びに行ってくる」
哲夫はテーブルの上に置いてあったオレオの包みを一つ取ると、行ってきまあすと言って、玄関ドアを乱暴に開けると走って出て行った。哲夫が開けっ放しにしていった玄関をクローザーがゆっくりと閉めた。
「ただいま」
その夜の8時ごろ、哲夫の父親が会社から帰ってくると、玄関で哲夫が手ぐすね引いて待っていた。
「お帰りなさい」
「おう、哲夫、どうした?」
「別に。鞄持ったげる」
「ああ、ありがとう」
父親はキッチンに入り、いつもどおり冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、テーブルの前に座り妻の作った焼きそばを食べながら、ビールを飲み始めた。哲夫は父親の正面に座って、ニコニコしてその姿をじっと見ている。
「何だ、哲夫、何か買ってほしいのか?」
「へへ、あのね、陸上のスパイク買ってほしいねん」
「そんなものどうするんだ?」
「来月な、学校で6年生の100メートル走大会があんねんやんか。それで、俺の靴、普通のスニーカーやから滑るねんな」
「ああ、毎年やってるやつか。でも、みんな普通の靴で走るんじゃないのか?」
「何言うてんの、優勝狙ってる足の速い奴は皆スパイクで走るねんで」
「足の速い奴って誰だ?」
「日浅とか」
「日浅病院の子か」
「うん」
「お前より速いのか?」
「同じくらいかな?たぶん」
「スパイクも運動靴もたいして変わらんだろう?」
「お父さん、ウサイン・ボルトは運動靴なんか履いてる?」
「生意気な。スパイクって、靴の裏に鉄のピンが付いてる奴だろう?あんなもの、学校で許可されるのか?」
「うん、鉄のピンじゃなくて、プラスチックの爪のついた奴ならいいんやて」
「ふうん、わかった。じゃあ、ご飯終わったら、Amazonで一緒に調べてやるから」
「うん!ありがとう」
しばらくして、書斎のパソコンを使って、哲夫は父親とAmazonで陸上スパイクを検索し、自分が気に入ったミズノの赤いスパイクをその場で注文してもらった。3,980円だった。
潤一は塾から帰ると、ダイニングテーブルに用意してあった夕食を一人で食べていた。父親は深夜まで病院で働いているし、母親は外部のいろいろな会合に出席し、たいてい夕食も済ませてくるので、潤一は母親の用意してくれた夕食を一人で食べる日が多かった。潤一の父親は近隣では一番大きい病院、日浅総合病院の院長であり、生野東小学校のPTA会長であり、地元ロータリークラブの会長でもある。潤一は夕食を食べながら、今日学校で発表された来月の100メートル走大会で絶対優勝するぞと自分に誓っていた。潤一も父親に劣らず競争心の強い子供だった。
小学6年生の潤一はすでに身長が170cmを超えており、学業優秀、運動能力抜群、明朗活発な性格で、ひと昔前であれば健康優良児として表彰されているような子供であった。
そんな自分が今度の大会で優勝するのは当たり前だし、両親も学校の先生もそう思っているだろう。潤一はそう思ったが、特段、それをプレッシャーには感じていなかった。小学校最後の100メートル走大会では何が何でも負けたくない。勉強でも運動でも負けることが大嫌いな潤一が思うことはただそれだけだった。潤一が思うに、潤一の優勝を危うくする相手は一人だけだった。それは1組の近藤恭介である(潤一は2組)。近藤恭介は背が高く、強靭な体幹を有する一匹狼的な子供である。家は貧しく、いつも同じユニクロのポロシャツを着ていて、冬でも半ズボンであり、華やかなブランド物の新しい服で身を包んでいる潤一とは対照的な存在である。5年生の運動会では二人ともリレーのアンカーで出場したが、その時は潤一は恭介にゴール手前で抜かれて、潤一のチームは2着になった。潤一は何としてでも、あの時のリベンジを果たしたいと思っていた。
学校で足の速い奴はもう一人いた。3組の新宮哲夫である。新宮哲夫は抜群の瞬発力と華麗なフォームで運動会の競走ではいつも断トツの1着になる生徒だが、背はそれほど高くなく、まだまだ小学生の体格なので、自分の優勝に関しては問題にならないであろうと潤一は思っていた。
恭介は炊飯器を使って自分で炊いたコメと冷蔵庫に入っていた納豆と卵で夕食を一人で済ませると、新宮哲夫や日浅潤一と同様、今日学校で聞いた地元ロータリークラブ主催の100メートル走大会のことを考えていた。恭介は自分の足には自信があった。問題は靴だった。恭介の靴は5年生の時から履いているスニーカー1足であり、すでにサイズが小さすぎて、それを履いて走るとつま先が痛くなるうえ、靴底が破れかかっており、とても100メートル走大会で使えるような代物ではなかった。親に頼んで新しい靴を買ってもらいたかったが、自分の家が借家で、父親が病気で長い間入院しており、母親が昼も夜もパートに出て医療費と生活費をぎりぎり賄っていることは恭介も知っていたので、とても、新しい靴のことなど言い出せなかった。しかし、大会では何としても優勝したかった。ほかのどの子よりも厳しい生活環境の中で、恭介がそのプライドを何とか維持できているのは、自分の運動能力のおかげだった。100メートル走は総合的な運動能力の高さがものを言う世界だった。靴を何とかしなければ。一応、母さんに聞いてみようか?そんなことを考えていると、ちょうど恭介の母親が仕事から帰ってきた。
「ふう、ただいま」
「お帰りなさい」
「恭介、晩御飯は何か食べたの?」
「うん、納豆と卵。ご馳走さま」
「何も作っていかなくてごめんね」
「ううん、大丈夫。・・・母さん、あのね」
「何?」
「ううん、何でもない」
「どうしたん?学校で何かあったの?」
「ないない。大丈夫。じゃあ、宿題するわ」
「何か困ってるんなら、言いなさいよ」
恭介は靴のことが喉元まで出かかったが、母親の疲れた顔を見ると、とても言い出せなかった。恭介は自分の置かれている境遇に無性に腹が立ったが、それは誰のせいでもないので、いつものように「しょうがない」と我慢することにした。
哲夫がAmazonで父親に注文してもらったミズノのスパイクはその翌日届き、哲夫がそれを履いて近所の公園で走る練習をしたりしているうちに、大会の日がやってきた。潤一もこの日のために、母親に頼んで高価だが軽いナイキの新製品スパイクを買ってもらい、恭介は依然として底が破れかけたコンバースのスニーカーを履いていた。
生野東小学校の6年生100メートル走大会は、よく晴れた11月上旬の日曜日午前9時から、生野東小学校のグラウンドで行われた。日曜日に実施されたのは生徒の両親も参観できるようにである。この大会は地元のロータリークラブが小学生の健康増進・体力向上施策の一環として、それぞれの小学校のグラウンドを借りて、毎年秋実施しているもので、今年は4回目の大会に当たる。この大会で3位以内に入賞した生徒は、ロータリークラブから表彰され、毎年、副賞としてゼビオギフト券が贈呈されていた。
今年の生野東小学校の6年生の生徒総数は150人弱であり、そのうち男子生徒は72人である。大会は4~5人1組のレースでトーナメント方式により行われ、各レースで2着以内に入った生徒のみが次のレースに進むことになっている。優勝するには4回のレースに続けて勝つことが必要である。
今年の小学6年生100メートル走大会は、いつものように、最初に女子の1回目のレースが行われた後、男子の1回目が行われ、その後は男女のレースを交互に実施して、優勝決定戦も女子の後、男子が行われることになっている。
哲夫は男子の最初のレースの参加者だった。哲夫は父親から買ってもらったスパイクを履いて意気揚々と参加したが、スパイクを履いているのは自分だけだったので、少し気恥ずかしかった。哲夫以外は特に足の速い生徒もおらず、そのレースで哲夫は余裕で1着になった。
潤一は哲夫の次のレースに参加した。潤一も断トツの1着でゴールした。
恭介は1回目のレースの最後の組だった。恭介は普段履いているスニーカーで走ると足が痛くなるので裸足で走ったが、やはり、他の生徒を大きく引き離しての1着だった。
男子の1回目のレースが終わり、続いて、女子の2回目のレースが始まり、その最終組がスタートすると、哲夫は自分の次のレースに出るために、集合場所に向かった。その途中、哲夫は体育館の近くで休憩している恭介を見つけた。
「近藤、お前、なんで裸足で走ってんねん?」
「こんな靴履いて走れると思うか?」
恭介は自分が履いている運動靴を哲夫に見せた。
「ほんまやなあ、それじゃあ裸足のほうがましやなあ。親に買うてもろたらよかったやん」
「ええねん。お前たちには裸足でも勝てるから」
「ほんまやな?近藤、お前言うたで」
「おう」
「じゃあ、次のレースに出てくるわ。後で勝負したるからな」
そう言うと、哲夫は自分のレースに出るため、恭介と別れてスタートラインに向かった。途中、哲夫は恭介の父親が去年から入院していて、母親が夜も働いていることを思い出した。哲夫は恭介の家に何度か遊びに行ったことがあり、恭介の母親の顔もよく知っていた。
哲夫は次のレースも1着になり、潤一、恭介も2回目のレースを余裕で通過した。
準決勝に当たる3回目のレースでは、14人が3組に分かれて決勝進出を競った。このレースでも哲夫は1着になり、まず、哲夫の決勝進出が決まった。潤一と恭介は同じ最後の組で走った。結果は、潤一が1位、恭介は潤一に少し遅れたが2位に入り、ともに決勝に進出した。
そのあとしばらくして、女子の決勝レースが始まり、特段の波乱もなく、優勝候補と目されていた6年3組のベトナム出身の女子が優勝すると、すぐに、男子の決勝レースが準備された。決勝レースの参加者の氏名がマイクで読み上げられた。最後のレース参加者は6人だった。いずれの参加者も普段から足の速い生徒として知られている者ばかりである。6人中4人はいろいろなメーカーの真新しいスパイクを履いており、恭介と哲夫だけが裸足である。
「おい、哲夫はなぜ裸足になってるんだ?」
息子の晴れ舞台を見に来た父親が、隣に立っている哲夫の母親に向かって言った。
「あら、本当。さっきまで、お父さんから買ってもらったスパイク履いてたのにね。裸足のほうが早いのかしら?」
「そんなことはないだろう」
哲夫は恭介が裸足なのに自分がスパイクを履いて走る気にはどうしてもなれなかったのだった。レースには絶対に勝ちたがったが、不公平な条件で勝負するのは嫌だった。この日のためにスパイクを買ってくれた父親には申し訳ないと思ったが、スパイクを履いて裸足の恭介に勝ったとしても、少しもうれしくないだろうなと哲夫は思った。そして、さんざん迷った末に、最終レース直前になって、裸足で走ることを決めたのだった。
やがて、審判が走者たちにスタートラインにつくよう指示し、走者6人が所定の位置につき、まもなくスタートという時、潤一が審判にタイムの合図をすると、突然、スパイクを脱ぎ始めた。
潤一がスパイクを脱いだ理由は哲夫のそれとはまた違っていた。潤一は、恭介と哲夫がなぜ裸足で走ろうとしているのか分からなかったが、恭介の父親が長いこと自分の父親の病院に入院しており、恭介の家の家計が苦しいことと恭介と哲夫が親しいのは知っていたので、二人が裸足で走ろうとしている理由は何となく察しがついた。そして、もし、自分がこのまま走って優勝したとしても、それはスパイクを履いていたからだと皆に絶対に言われるだろうと思ったのだった。それなら、自分も裸足で走ろう。そして勝てばよいのだ。潤一には勝つ自信があった。
潤一がスパイクと靴下を脱ぎ、それらをコースの外の邪魔にならない場所に置き、再び自分のコースに戻ると、スタート担当の教師が6人のランナーにスタートの体勢をとるように指示し、スターターピストルを高く掲げ、合図の掛け声とともに引き金を引いた。
6人のランナーはそれぞれに緊張していたが、ピストルが鳴った瞬間、何も考えずにただ全力で走るだけの生き物になった。もっともよいスタートを切ったのは潤一だった。哲夫がそれに続き、恭介はやや出遅れた。大声援の中、中盤までは潤一がトップで哲夫がそれに続き、その後ろは4人が固まって走っていたが、50メートルを過ぎたくらいから、最初5番手に位置していた恭介が速度を増し、一気に2人を抜き去り、ゴール20メートルほど手前で哲夫を抜き、さらにゴール手前で潤一と並び、二人はほぼ同時にゴールテープを切った。
二人のゴールと同時にピストルの音が鳴り、ゴールインしたランナーたちは息を切らせながら所定の位置で結果発表を待った。
結果はすぐに発表された。「ただいまのレース結果についてお知らせいたします。1着は6年1組の近藤恭介君、2着は2組の日浅潤一君、3着は3組の新宮哲夫君・・・」と女性の声によるマイク放送がなされた。場内から歓声が起こった。すると、本部席の最前列中央に座っていた潤一の父でもある本大会の会長が立ち上がり、審判に近づいて行った。そして、その直後、「申し訳ございません。ただいま、レースの結果をお知らせいたしましたが、先ほどのレースの結果について、再度、関係者が協議しておりますので、このまましばらくお待ちください。」というアナウンスが流れた。会場がざわついた。
レースの参加者たちはそのまま待機していた。レース結果はなかなか放送されなかった。小学校教師による審判団と大会会長との協議が長引いているようだった。そして、そのまま5分ほど経過したとき、「お待たせして、申し訳ございません。レースの結果について関係者の見解が一致せず、ただいまのレースは無効とし、再度レースを実施させて頂きます」と、審判長である生野東小学校の教頭の声でアナウンスが流れた。
「おいおい、大相撲じゃあるまいし、やり直しなんて、そんなのあるか?同率1位にすればいいんじゃないのか。哲夫がせっかく入賞したのに」
哲夫の父親がつぶやいた。
「きっと、何か事情があるのよ」
哲夫の母親がその声に答えた。
すると、それまでゴール近くで他の参加者と一緒に座って待機していた潤一が何を思ったのか、審判のところに走って行き、真剣な表情で何かを説明し始めた。審判たちは潤一の話を聞いて驚いた顔をしていた。というのも、潤一が、近藤恭介のほうが自分よりも早くゴールしたと審判に自己申告したからだった。
負けず嫌いの潤一が自ら負けを認めることは滅多にあることではなかった。しかし、恭介のほうが早くゴールしたと潤一が審判に言ったのは、決して、スポーツマンシップを重んじたからではなかった。駆け引きでは人後に落ちることのない潤一は、レースをやり直しても、近藤恭介が優勝する確率が高いことを鋭く見抜いていたのである。さっきのレースでは、恭介はスタートで出遅れたにもかかわらず、好スタートを切った潤一とほぼ同時にゴールしたので、再度レースを行うと、自分の負けがより明確になって、恥の上塗りになってしまうのではないかと潤一は思ったのだった。それに、さっきのレースで潤一は小石か何かを踏んでしまい、足の裏が切れてしまっていたので、実際のところ、もう走りたくなかったのだった。
潤一が元の場所に戻ると、審判団は大会会長と再度、協議を始めたが、それはすぐに終わり、あらためて、レースの結果は当初発表通りとする旨のアナウンスが審判長からなされた。当事者本人が自分の負けを認めているので、レースをやり直す理由もなくなったのだった。
すべてのレースが終了したので、速やかに表彰式の準備が行われ、女子の表彰式に続き男子の表彰式が終わると、すぐに閉会式が始まり、大会会長である日浅病院の院長が閉会の挨拶をして、今年度の生野東小学校6年生100メートル走大会は無事に終了した。
アナウンスに従い、出場した生徒たちはその場で解散となり、哲夫が受け取った賞状と記念品を持って校門のほうに歩き始めると、哲夫の両親が哲夫に近づいて来て声を掛けた。
「哲夫、おめでとう」
哲夫の母親が哲夫の髪の毛をくしゃくしゃにしながらニコニコして言った。
「もう、お母さん、恥ずかしいやんか」
哲夫が周りの視線を気にしながら言った。
「哲夫、お前、決勝でスパイク履いてなかったな」
父親が責めるふうでもなく、普通に哲夫に質問してきた。
「うん、あれ、ちょっとね。せっかく買ってくれたのにごめんなさい」
「いや、いいんだけだな。何かあったのか?」
「うん、近藤がね、破れた靴しか持ってなかってん。それで、俺も付き合って、裸足で走ったんや」
「おっ、スポーツマン精神ってやつだな」
「ま、そういうこと」
「そうか、偉い。それじゃあ、今日は哲夫の3位入賞とスポーツマン精神に敬意を表して、晩飯は焼き肉でも行くか?」
「本当?やったー」
新宮一家は哲夫を真ん中にして、仲良く家路を歩いて行った。この頃には、哲夫は決勝で恭介や潤一に勝てなかった悔しさはすでに忘れてしまっていた。
潤一の両親は大会後の挨拶などで忙しく、潤一は昨年に続いて今回も近藤恭介に負けてしまった屈辱を何度も反芻しながら、一人で家に向かって歩いていた。潤一はスパイクを脱いで走ったことを後悔しているわけではなかった。ただ、自分の運動能力が恭介に劣っているとはどうしても思えなかった。なぜ、近藤に勝てなかったのだろう?しかも、3位の新宮とも僅差だった。体格や筋力では近藤とは互角か自分のほうがやや上だし、新宮には圧倒的に勝っているはずだ。たぶん、自分の走り方に問題があるのだろう。明日、市の中央図書館に行ってみよう。何かいい本があるかもしれない。負けることに慣れていない潤一は、今日は眠れないかもしれないとなと思いながら、唇を真一文字に結び正面を見据えながら、一人で黙々と歩き続けた。
恭介は今日の大会で優勝できたのが不思議だった。裸足で走ると足が滑るので、体の小さい新宮はともかく、自分とほぼ同体格の日浅にはまず勝てないだろうと思っていたところ、新宮も日浅も裸足で走ってくれたおかげで優勝できたのだった。だが、二人への感謝の念は起きなかった。レース参加者が全員同じ条件で走るのはむしろ当然だと思った。しかし、心の片隅では、新宮哲夫の友情にはいつか報いたいとも思っていた。恭介がそんなことを考えながら家に帰ろうと校門のほうに歩いていると、後ろから声がした。
「恭介!」
「母さん、来てたん?」
「うん、仕事の合間に寄ってん。さっき、着いたとこ」
「俺、優勝したで!」
「うん、見てたよ。すごいやん。おめでとう」
「それより、母さん、仕事大丈夫なん?」
「うん、もう戻るけどね。恭介。何で靴のこと話してくれへんかったの?」
「あ、うん。裸足でも大丈夫かなと思うてな」
「馬鹿ね。あんた、家が苦しいから思うて遠慮したんやろう。うちは貧乏やけど、靴買うお金ぐらいはあるんよ。今度から、要るもんがあったら、ちゃんとお母さんに言いなさいよ」
「うん。そうする。ありがとう」
「ところで、恭介。お父さんね、もうすぐ退院できるかもしれんよ」
「ええっ?ほんまに」
「うん。今度新しい薬ができてね。お父さん、先週からそれ飲んでるんやけど、それがよく効いて、お父さん、だいぶ元気になってきたんよ。お医者さんが、順調にいけば来月にも退院できるかも知れないって」
「ほんまあ?よかったあ」
「お父さん帰ってきたら、また、前みたいに3人で旅行行こうな」
「うん!」
「まずは、あんたの靴を買わなあかんね」
「大丈夫。ほら、これ貰ったから、自分で買いに行く」
恭介はそう言うと、副賞としてもらったゼビオギフト券を母親に見せた。それは1万円分あった。これを持って明日、ゼビオに行こう。これなら、コンバースのスニーカーのほかにアディダスのランニングシューズも買えるかもしれないなと、恭介は仕事に戻る母親を見送りながら考えていた。
新宮哲夫、日浅潤一、近藤恭介の3人は中学校の校区も同じで、入学予定の生野中学校では3人とも陸上部に入るつもりでいた。今日の印象的なレースは、来春以降始まる、生野中学校俊足3人組の100メートル走をめぐる長いデッドヒートの序章に過ぎなかった。
終わり