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「HAHAHA、さっきのはいい叫び声だったぜ梨音! あの叫びを聞いたら普通ならゴキブリのほうからビビって逃げ出すに違いねえ!」
「うっさい黙れクソアフロ!」
「おう、遠野君は大丈夫か? コーラ飲んで落ち着くか?」
「大丈夫……ちょっとびっくりしただけ。コーラは飲む」
「この扱いの差!」
相変わらず、愉快な会話は現在進行形で継続中だった。そのやり取りをラジオ代わりに、奏介は雑巾でもう一度ギターの本体とケースを中を掃除していた。
その隣で、彼方がコーラ片手にじっと掃除中の奏介を観察している。その目が「ゴキブリの指紋1つ残してはならぬ」と訴えている。ゴキブリに指紋があるのかどうかは別として。
そして、無言の目力によるプレッシャーに耐えかねた奏介が、思いつきで話を振る。
「しかしあれだな、彼方も叫ぶときは叫ぶんだな」
「……むっ!」
いきなり地雷を踏んだ。
至近距離からピックを顔面に投げられた。よぎるデジャヴ。しかし、距離が近い分今のほうが痛かった。
「ご、ごめん……」
「むぅー……」
一部始終を目撃された梨音には「ぷっ」と笑われた。奏介は梨音に中指を立ててやった。お返しに親指を下に向けられた。
「とりあえず、ちゃんと掃除はしておいて……あと、弦の張り替えもやらないと」
「アコギの弦の予備ならここに1つだけあるぞ、ほれ」
ジェロムが小道具入れのケースから取り出した新品の弦が入った袋を放り投げ、奏介がそれをキャッチする。
「ナイスキャッチ」
「どうも、あとニッパーもください」
「はいよー」
と、別の方向からニッパーがすごい勢いで飛んできた。
「って梨音かよ! 強く投げすぎて危ねえ!」
「朝から二人でいちゃついてるから喝よ、喝!」
「梨音も、コーラ一口飲む?」
「わーい彼方ありがとー、って違うわ!」
梨音の「いちゃついてる」とかいうワードは無理矢理聞かなかったことにして、奏介は手際よく(ただし動揺して時々ぎこちなく)弦を張り替えていく。古い弦を緩めてからパチパチと切断。ペグポストから巻かれた弦をぐるぐると解放。ボディ側のピンも引っこ抜いてあっという間に古い弦を除去。それからもう一回さらっと拭き掃除。
「そういえばさ」
結局彼方に勧められるがまま紙コップでコーラを飲んでいた梨音が、不意に口を開いた。
「彼方はライブでギターボーカルをやってみるってことでいいの? なし崩し的に話進んでるけど、そこは彼方の意志で一応はっきりさせとかなきゃじゃない?」
奏介も、新品の弦を張りながら思う。そういえば、確かに彼方から直接答えを聞いていなかった。イエスかノーか。それを決めるのは周囲の人間じゃない。他でもない、彼方自身。
「ハイ! アタシギターボーカルヤリタイ!」
「おうおうそこの色黒マッチョでムサい彼方はもうちょいマネする努力をしようか、な?」
梨音がタワレコの黄色い団扇でもふもふと「色黒マッチョでムサい彼方」のアフロを叩く。
「痛い痛い頭皮にまで刺さってる痛い痛い」
容赦なく団扇を縦にしているので、見た目はどちらかというとサクサクと切っているという表現のほうが近いかもしれない。実際痛そうである。
「だが言わせてくれ梨音、本気で俺は彼方にギターボーカルをやってほしいと思ってる」
その真面目な熱を帯びた返答に、思わず梨音のアフロを叩く手が止まる。奏介の弦を張り替えていた手も止まる。
「もちろん、ここは遠野君の意志を尊重するべきだ。そこに異論を挟む余地はない。しかしだ、ギターボーカルとして俺達ジェロムズの中心に遠野彼方が立つ。その無限大な可能性に気づいてしまった以上、俺は黙ってるわけにはいかん。はっきり言おう、遠野君にはギターボーカルとしてのビッグな才能がある」
「あの、さっきから話が堂々巡りなんですけど。だから彼方はギターは未経験だって」
「わからんか梨音。スキルじゃねえんだ、こういうのは。努力だけじゃどうにもならん、持って生まれたオーラとかそういう部分の話だ。お前も見ただろ、ギターを持った時の彼方の姿を。エキサイトしただろ? ハッピーな気分になっただろ? そこなんだよ、ギターボーカルとして大事なのは」
ジェロムはさらに熱く、高密度に言葉を畳みかける。
「ギターを持ってステージに立つ。ただそれだけで、どれだけの人間を惹きつけられるかなんだよ。さっき、俺は彼方の姿に間違いなく言葉では言い表せない魅力を感じた。これで歌がずば抜けて上手いときた。パーフェクトだ」
言葉はまだ止まらない。ジェロムが他人に対してここまで評価するのは、奏介が知る限りでは初めてのことだった。
でも、無理はない。
それだけのものを、確かに彼方は持っている。
「今まで俺の身近な人間でそのハイスコアを叩き出していたのは奏介だった。フロントマンとして奏介のステージングには、今でも心が震わせられる。だが、それを軽々と飛び越えていけるビジョンが見えるのが、遠野彼方だ」
ジェロムは本気だった。「本気」と書いて「マジ」だった。低く重みのある言葉が、バスドラムのようにずっしりと身体の芯に響く。そして染み込む。共感させられる。
「改めて訊きたい、いや、頼みたい。ジェロムズのギターボーカルをやってくれないか、遠野彼方」
奏介は密かに思う。
岸田ジェロムは、ズルい人間だ。
そのカリスマ性と熱意をもってそんな頼まれ方をされたら、断れるわけないじゃないか。何も言えなくなるじゃないか。少なくとも、自分には無理だ。
しかもジェロムがすごいのは、相手に嫌々ではなく熱意を伝染させて、その気にさせてしまうところだ。奏介や梨音、そして当の本人である彼方も、その例外ではなかった。
「わかった」
彼方は決意を固めた。予想通りの答えだ。
「ギターボーカル、やってみる」