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それから数日後の金曜日、早速オーディションに向けての練習が始まった。もちろん、ボーカルには彼方を加えて。
「部長、そういえばドラムのスティックまた変えたんですか?」
「お、違いのわかる男だな奏介は。そうよ、またスティックへし折っちまったもんだから買い換えたんだよ。見ての通り全身ブラックだぜ、なかなかクールだろ?」
バンド練モードに切り替わる部室。ジェロムはシンバルの位置をチェックしながら。奏介はアンプの音量を調整しながら。いつも通り交わされる和やかな会話。
その中心、一足早く奏介の手を借りつつも準備を終えた彼方が、歌詞を立てかけた譜面台とマイクを前にして立っていた。
両手で握る、スタンドに繋ぎ止められたマイク。目を閉じている。歌詞だろうか、何かを小さくつぶやいている。
そんな彼方の仕草は、まるで神に祈りを捧げる聖女のようで。
「梨音?」
奏介の声で、はっと我に返る。気づいたら、アンプにシールドを繋ごうとしていた手が止まっていた。
「その……大丈夫?」
奏介が梨音を気遣う。時折視線を彼方に向けながら。梨音と彼方の関係について、やはり奏介も彼なりに心配してくれているようだった。
「別に大丈夫、何でもない。すぐ準備するからちょっと待ってて」
梨音はスイッチが入ったようにテキパキとセッティングをこなす。それから5分しないうちに、梨音の準備は整った。
「彼方君、演奏の順番は事前に打ち合わせした通りだ。やれるか?」
「大丈夫」
オーディションの話を聞いた次の日には、CD-Rに入れた音源を奏介から彼方に渡していた。そこにはオーディションで演奏することにした、ジェロムズのオリジナル曲3曲が収録されている。一応できる限り覚えてくるようにと彼方には話してあるが、初日でどこまでその3曲をモノにしているかは、いまだ未知数。
梨音は、そんな彼方に胸騒ぎを感じている。
別に、彼女に対して技術的な面を心配しているわけではない。むしろそこは、認めている。きっと、仮に今日がダメでも練習を重ねていけばすぐに歌いこなせるようになるはず。そう梨音は考えていた。
つまり梨音の胸騒ぎは、もっと別のところにあった。でもその正体が何なのかは、わからない。まるで霧がかかったように。
最初に、彼方の歌に出会ってしまった時の衝撃。
あれからまだ、立ち直れていないのだろうか。
それすらも、梨音はよくわかっていなかった。
「アーユーレディー?」
気取ったジェロムの号令。
「オーケー!」
やたら気合いの入った、空元気気味な梨音の返事。空元気でもいい。梨音はとにかく、今のざわついた気持ちを何かしらの形で振り払いたかった。
最初のCのコードから軽快に飛ばす、奏介のギターリフ。流線型のイメージで、部室の埃っぽい空気を切り裂いていく。
いつの間にか、彼方が目を見開いている。横顔からも、瞳の奥に宿る熱を感じる。彼女の魂は、奏介の音楽に入り込んでいた。
そして、奏介の作った音楽に彼方の声が乗る。奏介の一部が、彼方の一部と混ざり合う。
その瞬間。
梨音は、唐突に思い出した。
奏介と梨音が、初めて一緒に音を鳴らした日のことを。