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大堀川の桜はとんでもなく綺麗だぞ。
クラスメイトからそんな話を聞いた。
だから通学途中、遠回りして行ってみようと思った。
そして、多田奏介は1人の女の子と出会った。
2020年4月。
朝、咲き誇る桜並木が大堀川の河川敷を淡く染めている。
彼女は1人、緩やかに流れる川を立ったまま見つめていた。
奏介はどちらかと言えば人見知りなほうで、基本的に見ず知らずの赤の他人に進んで関わろうとすることはない。だけど、その時ばかりは自然と彼女に引き込まれた。
2年生に進級したばかりで何となく浮き足立っていたこと。
彼女が奏介と同じ柏陽高校の制服を着ていたこと。
そもそも彼女と奏介以外、周りに誰も人がいなかったこと。
と、思い当たる節はいろいろあった。だけど何より惹きつけられた最大の原因は、その雰囲気、佇まいにあった。
小柄で華奢な体躯に、きっちりと着こなした紺のブレザーとネクタイ。桜の情景に映える白い肌。それとくっきりと対比されるように艶やかで腰まで届きそうな黒い髪。
桜色の背景に寸分の狂いもなくはまった容姿を見ていると、まるで一枚絵の中に紛れ込んだかのよう。
でも、きっとそれだけの存在だったなら、奏介と彼女はここで遭遇しただけで終わっただろう。
次の瞬間、奏介の心は決定的に奪われた。
歌だ。
彼女が、歌っている。
それは、ガラスの歌声だった。どこまでも透き通り、何者にも汚されず、透明なまま世界の果てまで届きそうな。だけど、触れたらすぐに壊れてしまいそうな歌声。彼が今までライブハウスで聴いてきたどんなロックやポップス、パンク、メロコアよりも、心を激しく揺さぶった。
世界が変わるってのは、このことか。
奏介はそれを頭だけではなく脳天から爪先までの全身で理解した。
聴きたい、もっと聴きたい。
彼女の、無限の歌声を。
「すげえ……すげえよ!」
思わず、声が出た。
結果、彼女は奏介の存在に気づいてしまった。歌が鳴りやむ。我に返る。
彼女が奏介のほうを見た。ぴたりと視線が重なる。一見、無感情な表情の中に驚きが垣間見えた。
「あ……」
言葉が出ない。
何を言おう。
歌を聴いた感想でも言えばいいんだろうか。でも、彼女の歌を的確に表現できる言葉が思いつかない。
そうこうしているうちに、彼女の顔が一変していることに気づいた。
さっきまでの白い肌が、紅潮して桜よりも赤くなっているような――
何か投げた。
「痛てっ!?」
その何かはストレートに眉間を直撃。足下のアスファルトに落っこちたそれは、三角形に近い見覚えのある形状。真ん中にフェンダーのロゴ。間違いなくギターのピックだった。
「ちょっと――」
そこでやっと奏介の口から声が出た。だけど、時すでに遅し。
彼女は、奏介に背を向けて走り去ってしまった。
「何だったんだ、あれ……」
桜並木の真ん中。小さくなっていく彼女の背中。
奏介は、それをただ呆然と見送ることしかできなかった。
それが、2人の未来を大きく変える最初の邂逅だった。