32
突然の歌声で、確保に向かっていた男達が動きを止める。一瞬の困惑の後、そのまま動けなくなる。彼方の歌声に、心を奪われている。
それは、河合も例外ではなかった。
「これは……この歌声こそが……」
彼方の歌声を前にして、河合は言葉を失っていた。
ずっとこの歌声を求めていた。だがスランプに陥った彼方から出てくるのは、理想とは程遠い歌声ばかり。それが、今ここで。渇望していた歌声が、今ここで。
これこそが、河合が探していた歌声だ。世界を平和に導く、女神の歌声。
最初、河合は興奮に打ち震えた。今すぐに、その歌声の主、遠野彼方を手に入れたい。
しかし、その欲望はすぐに波のように引いていった。何故、自分は遠野彼方を欲するのか。手に入れて、何になるというのか。自らの野望を果たすためか。野望を果たして何になるのか。自己顕示か。自己満足か。本当に自分は、世界の平和なんて求めていたのだろうか。
富。名声。競争。野心。全てがくだらないことに思えた。この世の争い全ては、無価値に等しい。
まるで、普段の河合からは考えられない思考。この価値観から湧き上がるのは、眼前の凪いだ水平線のように安らかな感情だった。
そして、奏介も同じく彼方の歌声に魅了されていた。その歌声から思い出すのは、ライブハウスで思いっきり歌う彼方の姿。
彼方から放たれているのは、あの時と同じ空気。同じ熱気。しかし、海の向こうまで響く桁違いのスケール感。不純物を削ぎ落とし削ぎ落とし、最後に残った、限りなく透明で純粋な音の結晶。
これが本物だ。全てから解放された、彼方の本当の歌だ。
彼女こそが、歌姫だ。
世界の果ての歌姫だ。
「……ありがとう」
自然と、奏介から言葉が零れた。頰を伝った、ひと粒の涙と共に。
涙が散る。散って、桜の花びらになる。
春の空気に包まれた気がした。立ち枯れの木々に桜が咲いたような。
思い出した。彼方と出会った、一番最初。
忘れかけていた。
そういえば、桜の下で歌っていたのは、『ワタリドリ』だった。
その後、初めて彼方とバンドとして鳴らした音楽も、この曲だった。
彼方は今、咲き誇っている。大堀川で咲いていた、満開の桜のように。
奏介はずっと、こうしていたかった。誰も触れない2人だけの国で、いつまでも彼方の歌に、いや、彼方自身に寄り添っていたかった。
最後の大サビに向かって。自然に手が動く。身体がコードを覚えている。奏介のギターが、寸分の狂いなく彼方の歌声に交わる。
今までで一番大きなステージ。それを物ともせず、桜の色に、自分達の色に塗り替えていく。
追手が来ている。河合が近くまで来ている。それはもはや、関係のない話だ。彼方がいて、奏介がいて、それを取り巻く美しい歌と音楽がある。それが、全てだ。
ああ、音楽が終わってしまう。
これほどの音楽が、終わりを迎えてしまう。
永久凍土に氷漬けで閉じ込めておきたい。しかし、それは叶わぬ願い。
ならばせめて、全身全霊をもって終わらせよう。これの後でギターが二度と弾けなくなっても、後悔しないくらいに。
そして、全ての音楽が終わる。その瞬間。
世界が、無音になるのを見た。
その刹那の中で、奏介は。
彼方の一番奥底に眠っていた。彼方の純粋で、無邪気な、弾けるような笑顔を見た。
彼方の歌は終わった。
歓声も拍手もない。奏介は知った。本当に感動する音楽に触れた時、人間は何もできなくなるんだと。
そして、目の前に立つのは満たされた表情の彼方だった。さっきまでの心を壊した彼方とは違う。まるで、憑き物が落ちたような。
「彼方……」
「最後に歌えてよかった」
彼方は言った。
「最後の歌を、奏介が聴いてくれてよかった」
「最後って、そんな……」
それじゃあまるで、今生の別れみたいじゃないか。
まさか。
「奏介と離れるくらいなら、歌なんていらない。こんな世界、いらない」
その時、奏介は見た。
彼方の手元、何かが鈍く光るのを。
「ありがとう」
そしてそれが、彼方自らの手で小さな身体に突き立てられるのを。
「は——何を——?」
突き立てられたそれは、カッターナイフだった。奏介が気休めの護身用として、彼方に預けたカッターナイフ。それは彼方の血を吸って、細く白い身体を真っ赤に染め上げた。
「彼方————っ‼︎」
彼方がその場に倒れこむ。それを抱き止めようと奏介が動く。しかし、奏介の腕が彼方に届くことはなかった。背後、自分の首筋に針のような鋭い刺激を感じ、動けなくなった。
撃たれたと思った。途端に意識が遠のく。朦朧とする自分を置いて、銃を持った男達が彼方に駆け寄る。それ以上近づくな、と叫びたい。しかし、最初の1文字すら声に出ない。全身から力が抜けていく。
とうとう意識が途切れそうになる最後の瞬間。奏介は不思議な光景を見た。
河合達に囲まれた彼方の身体。そこからふわり、と青い影が浮かび上がった。それはじきに姿を変え、青い鳥となって真上に飛翔した。すっかり明るくなった空。その中心に放たれた、彼方の青い鳥。渡り鳥のように。
ああ、よかった。
ようやく、彼方は自由になれたんだな。
大きな安堵とともに、奏介の意識も朝の光の中に包まれていった。