29
憂鬱に覆われたような、蒼い世界を歩いている。肩にかけた彼方と2人分のギターケースの重さが奏介にのしかかる。
今になって、奏介は後悔している。
ここまで来たら、最後の最後まで自分の気持ちは押し殺しておくべきだった。自分のわがままな感情をぶつけたら、彼方は混乱してしまう。それくらい、少し考えれば読めたはずなのに。
自分は、どこまでも身勝手な人間だ。そのせいで、彼方の心にとどめを刺してしまった。何が彼方を守る、だ。結局守ったのは、自分のゴミみたいな自尊心だけじゃないか。しかもその生贄に選んだのは、他でもない彼方の心である。ここまできたら、もはや笑い者以外の何者でもない。
「何でこんな俺のこと……好きになっちゃったんだよ」
そもそも、彼方の気持ちを知った昨日の件以来、まともに彼方の気持ちと向き合っていなかった。宿探しに足利との決別。行方不明になった海渡。夜中の逃避行。色々な出来事が重なり余裕がなかったといえば、その通りかもしれない。だがそんなのは言い訳だ。考える余裕のない環境に、甘えてはいなかったか。内心、安堵してはいなかったか。
「そんなやつを好きになるなんて……やっぱり間違ってる」
「間違い? 違う」
相変わらず片言な言葉。だけど、そこには奏介が発した言葉への、明確な否定があった。
「奏介。好き。変わらない。ずっと。好き」
「そんな……何でだよ」
普通なら、喜ぶべき言葉かもしれない。しかし今の奏介には、鋭く刺さる。それが、身体の芯まで滲みて、痛くて痛くて仕方がない。
「そこまで言うなら、理由を教えてくれよ……」
「奏介と一緒。楽しい」
その瞬間。ふと、彼方の表情にわずかな感情が宿った気がした。
「歌声。褒めた。嬉しい」
いつの話だろう、と奏介は思った。
「部活。勧誘。嬉しい」
でもすぐに、出会ったばかりの頃の話だとわかった。
「部活。演奏。楽しい。ドラム、ジェロム。ベース、梨音。奏介、ギター。上手い。楽しい」
拙くとも丁寧に、過去の記憶を紐解いていく。
「出会えた。親友。梨音。大事。友達」
最初は明らかに険悪だったのに、いつの間にか親しくなっていた、彼方と梨音。
「オーディション。初ライブ。奏介。似合ってる」
それは思い出してほしくないなあ。内心思いつつも、今思い返してみれば大切な思い出の1つかもしれない。
「合宿。初めて。ギター。初めて。初めてばかり。わくわく」
軽音部としても、初めての試みだった合宿。そこで初めて、彼方はギターに触れた。スポンジのように吸収していく上達ぶりには、舌を巻いた。
「星。きれい。屋上。演奏。気持ちいい」
合宿の夜。部室棟の屋上。思いつきで始めた、ランタンを囲んで4人だけの演奏会。夜の向こう側まで届きそうな彼方の歌声は、今も鮮明に思い出せる。
「フェス。ライブ。感動。歌うこと。楽しい」
そして、4人で立った初めての音楽フェスのステージ。彼方を含めたみんなが全力で歌い、奏で、楽しんだ。ジェロムズ史上最高のハイライト。観客を1人残らず魅了した、全身全霊のべストアクト。
「外に出た。初めて。北海道。初めて」
ライブを終え、突如姿を消した彼方。その後初めて知った、彼方の抱えていた秘密。囚われた彼方を解放して、北の大地を目指した真夏の逃避行。
「海渡。いい子。ブルーポート。好き」
北海道では、喜多見海渡に会った。まるで兄弟のように慕ってくれた彼。だけど、彼はもういない。これ以上、記憶を辿ってはいけない。
「乙江。好き。カモメ島。好き」
「彼方、もういいよ。わかったから」
「乙江駅。赤い。炎……?」
「彼方、それ以上はいいから!」
奏介が強く制すと、電池が切れたように記憶の再生が止まった。だけど、最後に一言。
「全部……奏介がくれたから……」
「そんな……俺は……」
それ以上、奏介の言葉は続かなかった。涙を堪えて震え、それでも耐え切れず彼方の前で、泣く。泣く。泣く。
何かを与えていたつもりはなかった。むしろ、自分のほうが彼方からいろいろもらったんだ。彼方と過ごした日々は、楽しかった。礼を言うべきは、自分のほうだ。
そして、絞り出すように奏介は言った。
「ありがとう、彼方……」
少しだけ、身体が軽くなったような気がした。
夜明けは近い。