22
足利の視界から逃れるように、奏介は校舎の中から保健室へ向かう。足早に歩いていた奏介の足取りは、足利の姿が確認できなくなった時点で駆け足に変わった。
足利のことが怖かった。足利の豹変ぶりが怖かった。
いや、実際のところはあの破滅的な思想も、足利の元々持ち合わせていたものなんだろう。ただ、今まで隠して見せていなかっただけ。しかし、そうだとしたら尚更怖ろしい。
だから、逃げなければならない。1秒でも早く、彼から離れなければ。
奏介は、勢いよく保健室の扉を開けた。
「彼方!」
中の様子を見ると声に反応したのか、ちょうど彼方が起き上がったところだった。奏介は思わず下の名前で呼んでしまったことに焦ったが、幸い彼方は違和感に気づいていないようだった。
「どうしたの……?」
「……今すぐここを出よう」
「どうして? 足利は?」
「詳しい説明は後で!」
手近な荷物だけ持って行く。彼方と自分のギター。中身がすかすかの財布。それから、まだ寝ぼけまなこな彼方の手を取る。
が、取りかけてあることを思いついた。奏介はズボンのポケットを探る。
「これ、持ってて」
彼方は、奏介の取り出したものを受け取る。
「カッターナイフ。気休めだけど、護身用に」
「……ん」
彼方は自分の手に収まったカッターを、じっと見つめている。
「行くよ」
「……ん」
そして、奏介はどこか上の空な彼方の手を引いた。
校舎の引き戸も開けっ放しで、外に出た。いつの間にか汗だくになっていた身体を、夜風が乾かす。
しばらく、無我夢中で走った。時折彼方を気にかけたが、何とかついてきてくれた。だけど、2人のスタミナはとうとう農道の真ん中で底をつく。
一度は乾いたはずの汗が、再び吹き出した。前のめりにふらつきながら、荒い息遣いを繰り返す。滴り落ちた汗の雫が、年老いた街灯に照らされたアスファルトに染みを作った。
「姐さん……大丈夫……?」
彼方もまた、奏介同様に汗で濡れていた。光る汗。上気して赤く火照った肌。やや乱れながらも、しなやかさを保った髪。生々しい色気に跳ねた、奏介の心臓。未だに繋いだままだった手も、思い出したようにしっとりと熱を帯びた。
「こんなに……いっぱい走ったの……初めて……」
苦しそうな呼吸を整えながら、彼方は言った。だけど、その表情は苦痛で歪んでいるわけでも、途方に暮れているわけでもなかった。
電灯に照らされたのは、充実した笑顔だった。
何で、そんなに純粋に笑っていられるんだろう。
色々なものを失って、また失おうとしているのに。先の見えない、綱渡りの旅が続くのに。
まるで悲壮感に苛まれたり、個人的な感情に左右されていた自分が、バカみたいじゃないか。
「……はははっ」
すると、奏介からも笑い声がこぼれた。すると、彼方からも笑い声が弾ける。相乗効果で、互いの笑い声がどんどん大きくなる。
一種の、ランナーズハイと同じような状況だったのかもしれない。しかし、彼方と共有するこの時間、この瞬間が楽しいことに変わりはなかった。開陽台を出てからの、気まずい空気が嘘のよう。
2人は笑い飛ばした。これまで辿ってきた運命の全てを。
すると、疲労の蓄積で鉛のように動かなかった足が、いつの間にかふわりと軽くなった。
「足が軽い! めっちゃ動く!」
驚きながらも、笑いは絶え間なく。
「私も動く!」
灯りの下、2人は走り回る。時に飛んで跳ねてみる。寂しげに独りぼっちで佇んでいた街灯が、今は2人のステージを照らすスポットライトだった。
やがて、そこに交わったのは歌声。2人の軽快なステップに合わせて、歌う。光の円の中を、自由に廻りながら。
そして、それを聴いたままただの聴き手でいられる奏介ではなかった。
動き回ったまま、ギターケースを剥ぎ取る。そして、チューニングもまともにしないまま彼方の歌声にギターの荒削りなリフを乗せた。
真夜中の、2人きりオンステージ。周囲には誰もいない、建物はもちろん、真上の灯り以外には遠く離れた電灯しかない農道の真ん中。
2人は再び駆け出した。彼方も自分のギターを弾き始めた。電灯の光の傘を抜ける。すると、今度はプラネタリウムでしか見たことのないような夜空が2人を照らした。合宿で見た星空の比ではない、まさに星が降ってきそうな夜。知らなかった。こんなに夜空が明るかったなんて。
奏介と彼方は夜を駆けた。その間も、音楽が鳴り止むことはなかった。彼方は珍しく音程を外した。奏介も、時折でたらめなコードを弾いてしまった。それでも、関係なかった。
今の自分達はきっと、夜空を疾る2つの彗星だ。
今の自分達は何もない分、最高に自由なんだ。