10
宿の確保に成功した。
所々に老朽化や補修の跡が垣間見えるが、雨風をしっかり凌げる宿を見つけられたのは快挙だ。これは喜ぶべきことだ。
しかし、足利と奏介は何かが奥歯に挟まったような割り切れない表情を浮かべている。
結局、3人は彼方の見つけたラブホテルで泊まる決断を下していた。冷静になってみれば「もっと他の宿を探す余地もあったのでは?」とも考えたが、今となっては後の祭り。
「これ、僕らのこと絶対『撮影』だと思われてるだろうな……」
「『撮影』って、何の?」
「それは……姐さんが知らなくていいことだから」
彼方の際どい質問を躱す奏介。そもそも、彼方はこのホテルの存在理由すらよくわかっていないようだった。無知というのは時に怖ろしい。
「とりあえず、僕は夕飯の買い出しに行くから留守番を頼む。何か食べたいものはあるか?」
「特に……何でもいいです」
「んー、何でもいいってのが一番難しいから、何か決めてくれると助かる」
「じゃあ、カレーかかつ丼で」
「私も、海渡と同じでいい」
「了解……もし必要なら2、3時間は戻らないようにするがどうする?」
「それ、どういう意味ですか?」
「そこは想像に任せるさ」
「……結構です」
はっはっは、という笑いを残して足利が部屋を出る。彼方はもちろんわかっていない。しばらくして、下からジムニーのエンジン音が聞こえた。
足利を見送るためか、彼方が部屋の窓を開ける。バルコニーにつながる、通りに面した大きな窓。ジムニーの姿はそこからよく見えた。遠ざかるエンジン音とともにジムニーは小さくなっていく。
車が見えなくなっても、彼方は窓を開け放ったままだった。すっかり薄暗くなった空。涼しくなった風が肌を撫でる。
「そろそろ、窓閉めない?」
奏介が彼方に促すが、まだ彼方は窓を閉めるそぶりを見せない。そのうち、彼方は足利の車ではなくどこか遠くを見ていることに気づく。
「この景色、似てると思う」
「似てる?」
「ブルーポートに似てる」
奏介は、一気に口の中が干上がった気がした。
「……ここに、海はないよ」
「でも、似ている」
すると、彼方は大きく息を吸った。
彼方が歌う。アカペラでも完璧な音程。遮るもののないトワイライトの空へ向けて、空気を震わせる。
それは、海渡が最後に書き遺した歌。海渡が3人で鳴らしたかった、だけど、鳴らせなかった歌。歌詞は結局未完成のままスキャットで歌うしかないけれど、歌の中で海渡の魂の欠片が輝いているように感じた。
久しぶりに、彼方の歌を聴いた気がする。最後に聴いたのはまだ昨日のことなのに、もう何年も聴いてなかったような感覚がある。
彼方の歌声で海渡の音楽を聴いていると、自然と乙江での日々を思い出す。
ベランダで、カモメ島で練習した毎日。大変でも少しずつ慣れてきたアルバイト。美味しかった賄い料理。その思い出の全てに海渡がいた。
美しい思い出だ。胸を血が噴き出るまで掻きむしりたくなるほどに輝いた思い出だ。どうして壊されなきゃならなかった。破壊されるべき現実はもっと他にあるはずだ。神様なんて信じない。それでも、もし仮に、もし仮に存在するならば、この全てが神の所業だとするのなら。全てを背負って死んでくれ。この世のあらゆる業という業を背負い尽くして押しつぶされて消えてくれ。そんな身の程知らずな呪詛が渦巻くほどに、俺は苦しんでいる悔やんでいる殺したくなる——
気づいたら奏介は泣いていた。涙がとめどなく溢れている。だがそれは奏介だけではなかった。
彼方も泣いていた。いつしか歌は途切れ途切れで、それでも歌いたくて歌えなくて、もがき苦しんでいた。
奏介はぼろぼろなまま、同じくぼろぼろになってとうとう歌えなくなった彼方を抱きしめた。
「奏介はどこ……奏介はどこ……?」
「ここだよ、ここにいるよ」
「奏介はどこ……奏介はどこ……?」
奏介の言葉に聞く耳を持たず、彼方はうわごとのようにつぶやいて止まらない。大粒の涙も消えない。奏介はこの期に及んでもまだ、彼方にとっての『奏介』にはなれない。
窓は開いたまま。
ほとんど衝動のようなものだった。
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ————‼︎‼︎」
どうしようもない怒りと悔しさともどかしさの全てを渇ききっていた声に変えて、振り絞るように奏介は叫んだ。
もし近くに河合の手の者がいたら見つかって捕まってしまうかもしれない。逃避行がここで終わってしまうかもしれない。だがそれもいいだろう。世界の果てを目指して最後にたどり着いた先がラブホテルだなんて、最高のジョークじゃないか。いつかライブのMCで自慢気に語ってやる。いっそそんな歌を作ってやるのも面白い。
くそったれ。