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「多田奏介」
本当の名前を呼ばれた。
「君は、本当は多田奏介君だろう?」
ドライブインの男子トイレ。奏介が出てきたところを足利は煙草をくわえ、洗面所で待ち構えていた。丸眼鏡の奥の瞳が、奏介の鳩尾辺りを射抜く。その表情から、感情は読めない。この視線と表情は相変わらず嫌いだと、奏介は思う。
「どうしてそれを……?」
「何故わかったか。そんなに難しい話じゃない。根拠は2つある」
煙草を手に持ち息を吐き、足利の口からもくもくと浮き上がるスモーク。
まるで結界が張られたかのように、誰もトイレに入ってくる気配がない。ひんやりと重く湿った空気と作り物めいた芳香剤の香りだけが、辺りを包んでいる。
「まず1つ。初対面の時、3人のやりとりで君が奏介と呼ばれていた。何気ないやりとりだったかもしれないが、僕はしっかり覚えている。2つ目はさっきの車内での会話。君の名前を確認しようとして、僕が名前を出す前にとっさに答えていた。まるで自分の名前を呼ばれたくないようで不自然だった。それが根拠だ」
やはり、そこはジャーナリストゆえの観察力だろうか。これ以上足利をごまかせる自信は、奏介にはなかった。
「……足利さんの言う通りです。俺が、多田奏介です」
「やはりそうか。いや、別に君を責めるつもりじゃないんだ。ただ……これからも彼女の前では喜多見海渡を演じるつもりかい?」
「それは……」
奏介は言葉に詰まった。そこまで見抜かれていたのかという驚きと、その問いにはっきりと答えられない迷いのせいで。
「彼女は、どういうわけか君を本当に喜多見海渡だと信じ込んでいるようだが……僕の意見として、このまま海渡君の振りを続けるのはおすすめしない。奏介君、君はどう思う?」
足利の言うことは、間違っていないのかもしれない。だが、奏介は素直に受け入れられなかった。
お前に自分達の何がわかる。そんな反抗心に似た感情が、奏介の中で渦巻いていた。
「俺は……彼方が俺のことを海渡だと認識し続ける限り、海渡であり続けます。俺はそれでいいと思ってます。だから、俺の本当の名前は彼方の前では明かさないでください」
始めからそのつもりなのだ。今さら何を迷う必要がある。
奏介は足利をきつく睨む。足利はそれに動じる様子もなく。
「承知した。君がそのつもりなら、自分もそれに合わせよう」
煙草をふかしながらすんなりと、奏介の頼みを受け入れた。しかし、足利はそこに忠告を添える。
「だが、このままいけば君は本当に苦しくなるぞ。いいのか?」
「構いません」
「そうか。ならこの話は終わりだ。時間を取らせてしまってすまないな」
「いえ、大丈夫です」
「じゃあ車に戻ろう。彼方君はもう戻っているかもしれない」
トイレを出て、足利は近くにあった吸殻入れに煙草を落として車に戻る。何も言わず、奏介はその後についていく。
入りきれない荷物が屋根に積み上げられた、足利のジムニー。その正面、彼方が先に戻って待っていた。2人が戻るのを見つけて、彼方は表情を変えないまま控えめに手を振った。
奏介もそれを見て、手を振り返す。
そんな自分の姿は、彼方にはどう映っているんだろう。