12
次の日の朝。
奏介は、また河原で彼方に会うことができた。
快晴の空。舞い散る桜吹雪の真ん中。凛と佇む彼方。景色に溶け込んで、どこまでも響く歌。
それは、最初に出会ったあの日、あの瞬間と同じように。
奏介は彼方に近づく。彼方も奏介に気がついたようだった。だけど、歌うことはやめなかった。だから奏介は、傍らのベンチに座ってじっと彼方の歌声に耳を傾ける。
初めて出会った時の驚きや、部活に勧誘したときの緊張はなかった。そこにはただ、自分でも不思議に思うほどの安らぎがあった。
ずっと、彼方の歌を聴いていたい。できることなら、桜舞うこの場所でいつまでも、彼女の歌を独り占めしていたい。
それでも、歌は終わる。まるで、うたかたの夢のように。
歌い終えた彼方は、目を閉じて深呼吸。その横顔に触れてみたいと思った。実際に行動に移しはしないけど。
「……やっぱり、近くでじっと聴かれてるのは慣れない」
「あ……ごめん」
「別にいい。昨日私も奏介の歌を聴いたから、そこはお互い様」
1人分の間隔を空け、そのスペースに鞄を置いて彼方も奏介のいるベンチに座る。今の2人にとっての、ちょうどいい距離感。
桜が降っている。2人を見守っている。
「私だって、最初から音楽が嫌いだったわけじゃない」
「音楽が、好きだったの?」
「好きだった。大好きだった」
大好きだった。
過去形のワードに、奏介の胸がちくりと疼く。
「子供の頃の私は音楽が好きで、だから自然と歌うことが好きになった。そうすると今度は、ただ歌うんじゃなくて上手に歌いたくなって。そうしたら家族とか、友達とかが褒めてくれた。嬉しかった」
ここまでは、よくある話だと思う。奏介も似たような経験を通ってきたから、今も音楽を続けている。
そんな子供時代の思い出を語る彼方は、淡々とした表情でも心なしか、楽しそうだった。
「それで、私には新しい目標ができた。もっとたくさんの人に音楽を聴いて欲しいって思うようになった。実際に聴いてもらった。たくさんの人が褒めてくれた。もっと嬉しくなった。……だけど」
「だけど?」
楽しそうだった彼方の感情に、影が差す。
「だんだん、自分の歌いたい歌が歌えなくなった。聴き手の期待が大きくなって、それに応えられる音楽しか歌えなくなった。そんな音楽でも褒めてもらえるのは、嬉しい。だけど同時に、苦しくなる。そんなことがずっとずっと続いて。続いていくうちに苦しさのほうが大きくなって……それで、音楽が嫌いになった」
ああ、なるほどな。
奏介は天を仰いで空を見た。青い空から、雪のように桜の花弁が舞っている。ときどき吹く風にさらわれて、くるくると翻弄されながら。
「……これは、もしもの話だけれど」
そこから彼方は一呼吸、間を置いて。
「私がもし軽音部に入ったら、昔のように歌えるようになる?」
緩くなりつつあった奏介の思考が、一瞬で固まった。
「え、それは……軽音部入るの?」
「人の話を聞いて。これはもしもの話」
「ご、ごめん。そっか、そうだよな……」
「でも返答次第では入るかもしれない」
「マジで?」
「逆に入らないかもしれない」
一気に手汗がにじみ出た。責任重大すぎる。
「奏介の思った通りのことを話してくれればいい。教えて」
2人の間にあった空白が、心なしか狭くなっていたように奏介は感じた。もはや数十センチの世界。少なくとも、彼方とは今まで遭遇した中で一番の至近距離。鼓動が高鳴るのも仕方ないんだ。入部の命運がかかっていることのプレッシャーと人見知りによる不可抗力だ。
奏介は大きく息を吸った。もはやなるようになれ、である。
「昨日言った通り俺達の音楽は遊びで、だけど、みんな全力で遊んでる。えー、だから……遊ぶんだったら楽しくなきゃ遊びじゃないから……もし遠野さんが入ったら、それは楽しんでくれなきゃいけないんだよ」
言葉が途切れる。彼方がじっと奏介の言葉を待っている。黙ったら彼方の呼吸まで聞こえてきそう。
「要するに、俺らが楽しくて、でも遠野さんにだって楽しんでほしくて。無理矢理じゃなくて、自然と、そう自然に楽しんでもらえるようになってほしくて。つまり……俺、何でもやる! 彼方がもう一度音楽の楽しさに目覚めてくれるためなら、何でもやるから! …………い、以上です」
弾切れ。ガス欠。あるいは完全燃焼。
しかし、言い切ったという妙な達成感の後に襲ってきたのは、猛烈な後悔だった。
おいおい、何だよこれしどろもどろすぎるよ絶対言いたいこと伝わってないよどもりすぎだよ自分でも途中から何言ってんのかわからなくなってたししかも最後の何でもするって何をだよそれに下の名前で呼んじゃったしきもいよ間違いなくどん引きされるんじゃ――
「軽音部、入ってみる」
「やっぱりそうですよね…………って、え、何? 入るの?」
「今そう言った。嫌なの?」
「嫌だなんてとんでもない!」
とはいえ、奏介はうまく心の整理がつかない。
「マジか……そうか……マジか……」
とうとう頭がパンクした奏介はベンチに仰け反る。背もたれがなかったらそのまま仰向けに倒れてしまいそうな角度で。さっき見上げたときよりも逆さまになった空と桜吹雪は、やけにまぶしく映った。
すると、横からぬっと出てきた。
「うわ」
覗き込むように彼方の顔が。
「初めて見た」
「な、何が?」
「奏介の両目」
奏介の前髪は、結構長い。だから右目がそれでよく隠れている。でも奏介にとってはそれが自然なので、あんまり気にすることはないし、よく自分でそのことを忘れている。でも今は、彼方に指摘されて気がついた。
そうか、今の景色は両目で見ている景色なんだ。
だから、こんなにまぶしいんだ。
だから、こんなに彼方の表情が美しいんだ。
「あ、あんまりじっと見ないで。恥ずかしい」
「そ、それはお互い様だろ」
「言われてみれば、そうかも」
よく見ると、彼方の表情はわずかな変化を見せている。照れくさそうだったり。楽しそうだったり。確かに梨音のような起伏の激しさはないけれど、それでもちゃんと、気持ちを表に出しているのがわかる。
「それじゃあ、行く」
「行くって、どこに?」
「学校」
当たり前のように、彼方は言った。だけど、それには相当の覚悟が必要だったはずだ。ずっと不登校のまま、ここまで来てしまった彼方にとっては。
「本当に、大丈夫なの?」
「奏介がいるなら……大丈夫」
それは、どういう意味だ?
ただでさえ異性に対する耐性の低い奏介である。そんなことを言われては、ヤバい。いろいろと、ヤバい。
「ん? どうしたの、顔赤くして?」
「え、いや、これは別に何でもないし深い意味もないので……」
相変わらず奏介がしどろもどろしていると、彼方はくすっと笑った。今までどんなに感情が動いても大きく表情を崩すことのなかった彼方が、かすかに笑っていた。
「奏介って、面白い」
「そ、そうか? そんなこと言われたのは、初めてだから……」
そう言う奏介も、笑っている。氷が春の暖かさで溶けていくように、徐々に緊張が薄らいでいく。
そして、そんな幸せの一部始終を遠目から監視する人物がいた。