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描いた絵は、消さずにそのまま残しておくことにした。きっと、しばらく消されることもないだろう。
「もうそろそろ引き揚げ時かなー」
海渡が窓から西の空を眺めながら言った。太陽の光は弱まって、水平線にかなり近づいていた。3人のいる室内もすでに薄暗い。気づかないうちに、いくらか夕暮れが早くなったように感じる。
「じゃあそろそろ片付けの準備しようか」
「その前に、質問」
撤収の流れを遮るようにして、彼方が口を挟んだ。
「海渡の新曲、進捗を知りたい」
すると、海渡の表情が2段階で変わった。「すっかり忘れていた」という顔から「よくぞ訊いてくれました!」という顔へ。
「そうそう、その話するの忘れてた!」
「確かに俺らは全然聞いてなかったけど、順調?」
「すごくいい感じでできてる! 実はもう曲自体は完成してて、後は歌詞がもうちょっとでできそうだからそこを仕上げるだけなんだよね」
「それ、曲だけ聴ける?」
彼方の要望に、海渡が一転難しそうな表情で唸る。
「本当は完成形を聴いてほしいけど、すぐに曲だけでも聴いてほしいって気持ちもあるし……うーむ、どうしようかなー」
「そんなに難しく考えなくても、別に俺は完成してからでもいいけど……」
「いや、せっかくの姐さん達の頼みだ! ここで一足先に曲だけでも聴いてもらう!」
海渡は片付けようとしていたギターのストラップを肩に通すと、再びどっしりとギターを構える。
「それじゃあ今回はラララで歌うけど、タイトルもまだ決まってないけど……聴いてください!」
再び黒板の正面に立つ海渡。しかし、今度は反対側にいる彼方と奏介に向かい合って歌う。奏介と彼方は、それに静かに耳を傾けた。
さっきまでの、熱量をそのまま力任せにぶつけるような演奏は鳴りを潜めた。海渡が描いた音楽は、優しかった。まるでカモメ島に吹いていた風のように。聴いているだけで、全身が癒されていく。
日が暮れて、今日という1日が終わろうとしている。相変わらず巷のニュースは騒がしく、乙江の街や港には自衛隊が闊歩している。どこかざわついた空気が流れている。それでも自分達3人を取り巻く世界は平和で、穏やかだった。海渡の紡ぐ音楽は、そのエンディングに相応しい。
この平和を、世界中に分けてやれたらと奏介は思う。しかし、もしかしたらそれを言う資格はないのかもしれない。その役目を務めていたMiXが消えた。その引き金を引いたのは、奏介自身だから。
ならば、今ここにある幸福を嚙みしめよう。その幸せを形にしてくれた海渡の音楽を一瞬たりとも聴き逃さず、心に刻みつける。
曲が終わっても、奏介と彼方はしばらくその場から動く様子はなかった。海渡は、いい表情だった。これほど優しい表情の海渡を見たのは初めてかもしれない。
「こんな感じで……なんか照れ臭いけど、どうすかね?」
「いや、よかったよ」
むしろ、それだけしか言えない自分のほうが恥ずかしい、と奏介は思う。本当は、こんな簡単な言葉で片付けてはいけないのに。だけどすぐには思いつかない、相応しい褒め言葉。
そして、そんな時に最短距離で正解を導き出すのが、彼方だった。
「その曲、楽譜はないの?」
「楽譜っていうか……自分で書いた汚いメモ書きならあるけど」
「じゃあそれ、見せて」
「彼方? 何するんだ?」
「私は一刻も早く、この曲を弾いてみたい」
彼方の一言で、心に残っていたもどかしさが全て晴れた。
「自分で鳴らしてみたい。みんなで歌ってみたい。奏介は、そう思わない?」
それが真理だと、奏介は思った。
「……俺もそう思うよ。もうちょっと、この曲練習してみよう。海渡はそれでもいい?」
「もちろん! オレも付き合うよ!」
それから、結局3人は完全に日が沈むまでギターを弾き、歌い続けた。
改めて思う。この曲は、今日という日のエンディングに相応しい。