18
その日の夜。
ランチタイムこそいつもの満員御礼だったものの、ディナータイムはほとんど客が来なかった。たぶん、両手で数えられる程度。
最後の客の皿を片付けていたら、いつの間にか海渡と彼方まで店内から消えていた。春海の姿も見当たらない。キッチンにはかろうじて拓渡の気配があった。夜の2人きりの店内はがらんとしていて、異様に広く感じる。
「拓渡さん、何で今日ってこんなに人少ないんですか?」
片付けた皿をキッチンに運んだ奏介は、フライパンを温めていた拓渡に聞いてみる。
「そりゃあれだろ、オリンピックの開会式」
「あ」
すっかり忘れていた。ここ最近は自分達のことばかりで頭がいっぱいだったからか、外の情報をほとんど取り入れていなかった。
「でも、そんなに影響あるんですか? 会場は東京なのに」
「それじゃあ、1つ訊こう。現状うちの売り上げに最も貢献している客層ってどこだと思う?」
「それは……自衛隊、ですよね?」
「その通り。それでその自衛隊なんだが、常連客からの噂によると今日は出撃待機の命令が出ているらしい」
「それってもしかして……」
戦争。
なるべく口に出したくないキーワードが、奏介の脳裏をよぎる。しかし、それを拓渡は笑い飛ばした。
「気にするな! オリンピック当日にいきなり宣戦布告、なんてこと言い出す国はいくら何でもないだろうよ。ただ最近は主に日本海の情勢が怪しいからな。その予防策で待機、ってことなんだろう。そんなわけで、自衛官の客はおそらく誰もこない。それ以外の常連客も、みんなテレビがあって騒げる店か自分の家で開会式に釘付けだ」
「なるほど」
「そういうことだから、うちも今日は店じまいな!」
「えっ、いいんですか?」
「大丈夫大丈夫。さっき春海が閉店の看板出しに行ったから、もう客は来ない」
どうりでさっきから見かけないはずである。準備が早い。
「テレビ、持ってきたっすー」
すると、今度は海渡が中型の液晶テレビを持ってやってきた。その後ろについてきた彼方は、テレビに使うらしい配線を持っている。これから何が始まるのか、奏介もだいたい察しがついた。
「ここで開会式見るの?」
「そうっす! 日本でやるオリンピックの開会式なんてなかなか見れないっすから、今日は特別ってことで!」
「みんなで見るの、楽しみ」
「あ、奏介さんもし手が空いてたらテレビのセッティング手伝ってもらっていいっすか?」
「ああ、もちろん」
3人はせっせとテレビと配線を繋ぐ。そうしているうちに、春海も戻ってきた。なし崩し的に3人がテレビ、親2人が料理という分担で夕食の準備を進める形になる。にわかに、がらんとしていた空間が賑やかになった。
その様子は、お祭りの前夜に似ていた。クリスマスパーティーとか誕生日会とかの、直前。あるいはライブ前に湧き起こる、そわそわとした静かな興奮。
刹那、奏介はライブハウスの記憶がフラッシュバック。まぶしいスポットライト。観客の拍手。梨音の笑顔。ジェロムの叫び。それから、真ん中に立つ彼方の、凛とした佇まい。
「奏介!」
「っ、はい!」
拓渡に呼ばれ、無理やり現実に引き戻された奏介。
「悪い、手が空いてたら料理運んでくれ!」
「わかりました」
どんどん大皿の料理が出来上がって、それを店の1番大きなテーブルに次々と運んでいく。オニオンスープ。シーザーサラダ。キノコのソテー。フィッシュフライ。ローストチキン。普段よりも豪華な料理で、テーブルも徐々に賑やかになっていった。そろそろ開会式の生中継が始まる。
ところが、こういう時には決まってトラブルがつきものなわけで。
「あっれー? テレビの画面が真っ黒なままっすよー?」
「リモコンの反応がない。おかしい」
「あら、おかしいわね? ずっと奥にしまってたから壊れちゃった?」
「おいおい、いくら何でもそんなヤワじゃないだろ? ちょっと俺に貸してみ?」
と、あれこれやっているうちに気づいたら開会式の開始予定時刻を10分程過ぎていた。
「点いた! 何だよ結局海渡の配線ミスじゃねーか!」
「父ちゃんごめーん! とりあえずチャンネル変えるっすよ!」
そして、画面が切り替わる。
競技場が燃えていた。
最初はそういう演出なのかと思った。しかし、映像には観客席から上がる火柱。連発する甲高い破裂音。逃げ惑い混乱に陥る観衆。実況はなく、カメラの映像が何かの衝撃で傾いた。
それがただならぬ状況だということが、素人目から見てもよくわかった。
何の説明もなく、すぐ上空のヘリからの映像に切り替わる。
炎の紅に染まっていた。
それは開会式を開いている競技場だけではない。都心の至るところで火柱と煙が上がっていた。
その絵は、まるで戦場だった。どこか遠い世界で行われていたはずの、戦場の絵そのものだった。
混乱の渦に飲み込まれていく東京を、カメラは空から淡々と映している。音は聞こえず無音のまま。その静寂がかえって不気味さを演出している。それに釣られてか、テレビを見ていた奏介達4人も言葉を失っていた。
「……っ!」
不意に、声にならない声を聞いた。
彼方だった。
見開いたままの目に涙をぎりぎりまで溜め込んで。口を手で押さえたまま、硬直して震えている。
「彼方……?」
そして、それに追い打ちをかけるかのように。
『臨時ニュースです、臨時ニュースをお伝えします』
張り詰めたニュースキャスターの声が聞こえた。グレーのスーツを着た、ニュースキャスターの画面に切り替わる。
『先ほど、東京都心の複数の箇所で爆発が発生した模様です。今入りました情報によりますと、オリンピックを狙った爆破テロの可能性があるとのことです。繰り返します——』
そして、耐えられなくなった彼方は何かに突き動かされるようにして駆け出した。
「彼方⁉︎」
「一旦テレビ止めろ」
拓渡の指示にいち早く反応した海渡がリモコンでテレビを消す。同時に春海が奏介の背中を叩いた。早く行きなさい、と。
「行ってきます」
奏介は彼方の後を追って駆け出した。