15
奏介が2階に上がると、ちょうど彼方が自室から飛び出してきた。ドアがすごい勢いで開け放たれ、ちょうど通りかかるところだった奏介は反射的に身を引いた。
「ど、どうしたの?」
出てきた彼方は表情こそ大きく崩さないものの、明らかに動揺している様子。奏介の言葉に反応した彼方は目が泳いで、焦っている。
「その……落とし物して……」
「落とし物ってもしかして、これ?」
奏介は、手に持ったままだったピックを見せた。すると、彼方の目は焦りと動揺から、安堵と歓喜の色に変わった。
「これ!」
見たことないような喜びよう。ピックを持っていた奏介の手首を両手でがしっと掴んで。
「ありがとう!」
過去最高にはきはきした彼方の「ありがとう」。夏でも常に白かった頰の肌が赤らんでいる。そんな調子で、しかも手を掴まれたまま言われたもんだから、奏介はいろんな意味で目を白黒させていた。
「そんなに大事だったんだ、これ」
「大事。すごく大事」
少し冷静さを取り戻した奏介の頭は考えた。
これまでの手がかりから推測すると、このピックは貰い物だと思われる。だとしたら、これほど大事だというピックの元持ち主は、一体どんな人なのか。どれほどの腕前なのか。年上か年下かはたまた同い年か。そして、男なのか女なのか——
「——介、奏介?」
「……えっ?」
彼方が呼ぶ声で我に返った。
「ごめんなさい、少しはしゃぎ過ぎたかもしれない」
「いや、それは別にいいんだけど……」
一瞬、奏介は躊躇った。正直、訊くのが怖かった。しかし、海渡のせいでぎこちなくなった心を無理やり奮い立たせて聞いてみる。
「このピックって、誰かからの貰い物?」
「……知りたい?」
彼方の言葉に、少しだけ間があった。黙って頷く奏介。
「わかった。このピックは——」
「あ、ストップ」
視線を感じた。リビングの奥。その先には満面の笑みでグーサインを送る海渡。
あっちいけ。
一瞬のアイコンタクトで返すと、海渡はひょこっと影に隠れた。
「ここで立ち話ってのもあれだし、もしよかったら一旦部屋に入らない?」
「確かに。入って」
彼方に促されて、奏介は久々に彼方の部屋へお邪魔した。最初に入った時と比べていくつかモノが増えている。例えば畳んで置かれたままの布団。スタンドに立てかけられたギター。ハンガーにかかったままのシャツ。あちこちに感じ取れる、彼方の生活の匂い。
「座って」
「お、おう」
自分から提案しておいて、奏介は今更ながらドキドキしていた。これは本当にお邪魔してよかったんだろうかと。思わず座り方も正座になった。
「……奏介、もっとリラックスして聞いて。大した話じゃないし、逆に話しにくい」
「あ、ごめん」
と言っても緊張はすぐにほぐせるものではないので、とりあえず正座の足を崩すところから始める。
「私には以前、一緒に音楽活動をするパートナーがいた」
「パートナー? 彼方ってずっとソロじゃなかったのか?」
「違う。歌の投稿を始めた後から、改名して少しの間だけは、ギタリストのパートナーがいた」
初耳だった。でも、ネットで楽曲を発表している人でもユニットを組んでいる人はざらにいるわけで。演奏経験のない彼方がギタリストと組むのは、当然といえば当然の流れだ。そして、何となく話が見えてきた。
「それで、そのピックはその組んでいた仲間のギタリストが持っていたってことか」
「そう。元々ネットでのやり取りだけで組んでた人だったけど、初めてリアルで会った時にくれた。お近づきの印に、って。それ以来、これはよく持ち歩いてた」
「あの、この際踏み込んだことを聞くけど……どうしてそのギタリストとは別々に?」
すると、彼方は目を少し伏せた。
「河合に、引き離された」
やはり、あの男か。
「河合が欲しかったのは、私の歌声。だからギタリストは不要だった。ましてやアマチュアの人だったから、邪魔ですらあった。だから切り離した。あの男は、目的を果たすためなら手段を選ばない」
河合の冷徹な表情が、奏介の脳裏をよぎる。きっと彼は、何の感情も持たずに切り捨てたのだろう。
「私はずっと悩んでいた。私の決断次第では、2人で続けていく方法があったんじゃないか。私はずっと、そんなことを考えてた。だからこのピックは、私にとって、後悔の象徴だった」
「そんなことが……」
「だから一度だけ、このピックを捨てようと思った時がある。今から4ヶ月くらい前の話」
奏介は思い返す。4ヶ月前といえば、ちょうど奏介と彼方が出会った頃。
「私は、大堀川にピックを投げ捨てようと決めた。そうすれば、未練を断ち切れると思って」
あの時か。
今でも鮮明に思い出す、最初の邂逅。桜吹雪の中心に立つ彼方。
「だけど、そのタイミングで奏介に会った」
そうか。だから、あの時ピックを手に持っていたのか。だから、躊躇なく自分に投げたのか。
「それじゃあこのピックは……彼方に返すべきじゃなかったのか」
「違う」
沈みかけた奏介の言葉を、彼方ははっきりと否定した。
「ピックが後悔の象徴だったのは、昔の話。今は、違う」
「……じゃあ、今は?」
「あの日このピックがなければ、今の私と奏介はいなかった。今の私にとって、これは奏介と引き合わせてくれた大切なもの」
彼方はピックを握りしめ、その手を胸に当てて言う。
「だから、奏介がピックを返してくれたこと。今日、ピックを見つけてくれたこと。今はどっちも、感謝している」
大事にしてくれていたことは、よくわかった。それで、奏介の頰が思わず緩みそうになる。それをごまかすように、奏介は続けて訊いた。
「それじゃあ元の相方への後悔って、今はない?」
「ゼロじゃないけど、昔に比べて薄くなった。彼女も、今は新しい道に進んでいるだろうから」
「うん……ん、彼女?」
流しかけたところで、奏介は聞き返した。
「うん、彼女」
彼方は素直に答えた。
「じゃあ彼方の元の相方って、女の人?」
「そうだけど、それがどうかした?」
「いや……別に」
ほっとした。全身の筋肉から力が抜けそうになる奏介。それにしても、どうしてこんなに安心している自分がいるのか。これじゃあまるで——
「奏介さんに姐さん! あんたら最高っすよおおお——‼︎」
突然部屋のドアが開け放たれて、魂の叫びとともに海渡が乱入してきた。
「うわあああああ⁉︎」
まるでおばけ屋敷でしか見かけないような驚きっぷりの奏介と。
「…………」
口が半開きのまま固まってしまった彼方。
「なんか細かいことはわかんないけどめっちゃ感動しました! すげーいい話じゃないっすかー! オレ聞いてて泣きそうになっちゃいましたよもー!」
「おーそうかそうか……ちなみに俺らの話、どこから聞いてた?」
「はい、姐さんに昔は別の相棒がいたってところからっす!」
「ほとんど最初からじゃねーか!」
「痛い痛い奏介さん耳引っ張るのやめてください痛い痛いー」
厳しい制裁を加えた奏介だったが、それでもめげない様子の海渡。
「ちょっと落ち着いてください! オレの話も聞いてほしいっす!」
「まあ、聞くだけ聞くけど」
「あざっす! オレ思ったんすけど、オレすごく彼方姐さんのことが好きなんす!」
「ああ?」
「奏介さんガン飛ばさないで最後まで聞いてほしいっす! オレは奏介さんのことも好きなんす!」
「ええ……」
「姐さんも引かないで最後まで聞いてほしいっす! オレは結局2人のことが好きで、何て言うのかな……お互いがお互いをリスペクトし合ってる2人が好きなんす!」
握った拳やキリッとした目の奥からびしびしと伝わってくる、海渡の熱すぎるくらいのパッション。一周回って清々しさすら感じるラブコール。
「だからオレ、お願いしたいっす! オレも2人の仲間に入れてほしいっす! それで、オレも曲を作りたいっす! 3人で歌う曲を! お願いしゃっす!」
海渡は、深々と頭を下げた。
奏介と彼方はお互いに顔を見合わせ、口元を緩めた。満場一致。そして、彼方の口から告げた。
「わかった、これからよろしく」
海渡はゆっくりと顔を上げ、ぱあっと笑顔が弾けた。それから本能に突き動かされるまま網戸を開けて、窓から身を乗り出して。
「よっしゃ————っ‼︎」
海渡は叫んだ。彼の声が海に反響する。
「オレが新メンバーだ——ぁ?」
と、そこまで叫んで海渡の声が急に失速した。しかも最後は疑問形で。海渡は振り返り、苦笑いで訊ねた。
「そういや、2人のグループ名って何でしたっけ?」
「……あー」
「決めてなかった、かも」
そういえば、考えていなかった。そもそも奏介自身は名前を決めるつもりは特になかったけど、海渡も加わるとなるとまた違ってくる。だったら。
「じゃあ、今決めようか」
「マジっすか! その展開アツい!」
「海渡も、アイデア出して」
「もちろんっす姐さん!」
それから、この日の3人は練習の予定を変更。新しいグループ名の案をあれがいいこれがいいと出し合った。
そして、決まった名前は——『THE BLUE PORT』