ひたすらオチもなく野鳥画像付きで鳥を語るだけの小説。
当小説は、作者こと84gが自転車で旅行しているときに遭遇した鳥たちである。
一年ほどの旅の中、使えそうな写真はほぼほぼ少なく、ほとんどの鳥はカメラを向けた瞬間に逃げてしまうのである。
驚かせて申し訳ないと思う反面、写真撮影に応じてくれた鳥たちに謝罪と、それに負けないくらいの感謝と感激を沿えて。
鳥は自由の象徴とするには、いかにも不自由な生き物だった。
軽量化のために切り詰めて寸足らずになった消化器、前肢と呼ぶには応用の効かない翼、かつて竜と見紛う陸の王たる偉容は牙や角といった武器と共に捨て去った。
空を飛ぶと云っても気流・気圧・気温に左右され、鳥たちの飛翔は気まぐれな自由という概念とは掛け離れていた。
しかしながら、だからなんだと云うのか。
自由とは自在とは異なり、自らを悠々と表すことを指す。
空が飛べなくとも、泳げなくとも、走れなくとも、鳥は太古から生き、未来へと繋がっていく。
鳥。
彼らは何者なのか。どこから来てどこへ行くのか。
英語でバード。ラテン語でアウィス、ドイツ語でフォーゲル、イタリア語でウッチェロ、中国語でニーアオ。
日本語ではトリ。そう、人の心を獲り、捕り、奪り。全てを奪い取る襲撃者、鳥カワイイ。
立つ鳥、跡を濁さず、と古人は偽証する。鳥は見たものの瞳に像を残す。記憶に刻むのだ。
羽根を足跡のように付けるが、その足跡は風に薙がれて消えていく。
鳥たちは風と共に現れ、風と往く。
生まれながらすりこまれた放浪者としての宿業を背負いながらも、その重さに耐えながらも海を渡る。
彼らの觜は言の葉ではなく歌を交わす。
生を受ける際に卵を割り、硬い殻を割って木の実を啄み、甲虫の節を引きちぎる。命と自然の歌を奏でる、それが觜。やだカワイイ。
翼を用いて天道を邁進する彼らは、足を車輪に据えない。
猛禽は鉤爪で肉を裂き、水鳥は水掻きで自らの道を拓く。巨鳥は大地を踏みしめて獣のように走り抜ける。
歩む道を選ぶことができる生命は数多くいるものの、しかしながら生きる世界を選んだのは人と鳥だけとも云えるのではないのだろうか。
冬を越すために海を渡る彼らは冒険者である。羽毛は皮脂を纏い、熱を帯びて季節を越える。春・夏・秋・冬だけでなく、雨季・乾季すら翔べる空。
風を切る彼らは風になり、風を読み、風を呼ぶ。
嵐の中、飢えと戦いながら休む枝もない大海原を横切っていく。
群れからはぐれることもある。嵐に出逢うこともある。
それでも気流に乗る。何百海里という距離をはばたき続けることはできない。風にならなければ空の青から海の青へと飲み込まれ藻屑になる。
胸毛から尾羽へと気流が抜ける。対流の層を射抜くような視線、その先を見据えているのだろう。
鳥はどこから来たのか。
かつて大地を征し、恐竜と呼ばれていた先祖たちとは異なる。
冷血の祖先とは異なる熱血が全身に溢れ、情熱を瞳の黒から放散するのだ。
放散される熱は、的確に水中で敵を射抜く。弾丸のようにではない。弾丸なのだ。
海の銃口を滑降して打ち砕いていた恐竜から更に進化を遂げ、海の線条痕を沿って獲物の脇腹に弾頭を叩き付ける。
それはそれとして、ここで致命的な問題が発生していた。
このテキストを書いているのが2017年の暮れから2018年元日にかけてであり、2018年一発目更新であるという点である。
そう。今年は戌年なのだ。数日前まで酉年だったのに。
何を考えているのだろうかこの作者は、そう思われるのも至極当然。
俺もそう思っている。旅先の記録を纏めてコンテンツに仕上げようとする中で、まさかまさかの年跨ぎ。
犬は写真こそ有れど多くが飼い犬で無断では使えない子たちだから、選択の余地すらない。
しかも旅先の写真と云いながらも、よーく日付を確認して頂ければ旅が終わった後の写真まである事態。
行き付けの野球場こと東北イーグルス本拠地の宮城球場からちょっと行った先の、地元の一級河川こと宮城県が誇る広瀬川じゃないかというお叱りも尤もである。
じゃあ、これはなんなのかと。それどころかお前の旅はなんだったのかと云われかねない惨事である。
では、あえて旅とは何かを鳥に問おうと思う。
長い旅の中、鳥のように冒険をしたのではないのかと云われれば、不思議と噪音めいた不合を感じる。
実は海を越えない鳥も多い。巣を造り住み着く種類も多いのだ。
オールシーズン見られる鳥というのも存在するが、では彼らが冒険をしない動物なのだろうか。違う。
彼らはその土地を終の地と決め、冬を越え、春に笑い、夏に汗を流し、秋に泣く。
冒険をしないのかと云われそうだが、旅だけを冒険と指すのではないのだ。
大都会の片隅で耐え忍び、巣を守り、子供のために餌を運ぶ。
時には子供が煩わしくなったり、職場で上手く餌が取れなかったり、他の鳥に妨害を受けたり、些細なことが気になったり、病気をしたり怪我をすることも多い。それでも鳥は往く。
なぜなら、鳥は自由なのだから。
もし、目の前に障害が有ろうとも、上手く行かなくとも、それは鳥が不自由である理由にはならない。
鳥が自由ではないと証明するのは、それは鳥自身が不自由であると認めたときに他ならない。
死んだ鳥を鶏肉と呼ぶ。死んだ目をしたヤツを臆病者と呼ぶ。
飛べなくとも、泳げなくとも、走れなくとも、それでも死ぬ瞬間まで鳥は鳥なのだ。
とにもかくにも、今日も往け!
鳥
が
好
き
!
ちなみに鴨・カラス・燕・白鳥・黒鳥・鴎以外の名前は分かりません。 正解は感想ページにて募集!
新年からこんな感じです!
猫バージョンは
【ひたすらオチもなく野良猫画像付きで猫を語るだけの小説。】
https://ncode.syosetu.com/n4804ei/
をお楽しみ下さい。