遊び人
※一人称の主人公が難あり物件です。不安に思われる方は回避していただくよう、よろしくお願い致します。
見慣れない天井が目に入るのはいつもの事だが、ベッド脇の小さな棚の上のシロクマとバッチリ目が合ってしまい、俺は常になくギクリとしてしまう。昨日その存在に気が付いた時には、見られているような居心地の悪い気分になってクルリとそのつぶらな瞳を壁側に向けた筈なのだ。
なのに何故、今朝はこちらを向いているのか。
キッチンからカタカタと音がしているのに気が付き、俺は漸く視線をシロクマのぬいぐるみから彼女の背中へと移す事が出来た。食欲をそそるような良い匂いが漂って来る。その物音で目が覚めたのだろう、と冷静に判断しつつも内心ヒヤリとした。
うーん、マズったかな。
朝食を用意してくれるような気を回す女に見えなかったのに。彼氏がいると言うから、てっきり割り切った付き合いに慣れているものだと思ったが……案外情が深いタイプだったのか?なんて内省しつつ、ベッドから抜け出す。脱ぎ散らかした服がベッド脇にいつの間にかきちんと畳まれて纏められているのを見て苦い気持ちが湧いて来るが、ここでうろたえるような態度を取るのが一番の悪手だ。これまで経て来た数多くの経験から、俺はそう判断した。
俺は服を身に着けるとスマホなどの所持品を確認し鞄を背負う。そしてこちらに背を向けつつキッチンで作業をする彼女の背中にそっと近付いた。
刃物を持っていない事を確認して、背後からその華奢な腰に手を回す。
「おはよう」
「ひゃっ」
昨日弱点であると探り当てたばかりの耳元で囁くと、集中していたらしい彼女がビクリと肩を揺らした。
「もしかして俺の分も作ってくれちゃってる?」
「え……あ」
彼女は少し頬を染めて、どう返答しようか戸惑っている。俺は二の句が継がれる前に切っ先を制した。
「嬉しいんだけど、もう俺行かなきゃならないんだ」
「……そうなの?」
残念そうに声に籠められた力が削がれた。それを覚った上で敢えて気付かない振りをして、明るく言葉を繋ぐ。
「仕事なんだ」
「休みなのに……?」
「うん、ウチの社長、絶対いるから。お目付け役の俺が行って適当な所で追い返さないと、休日出勤の社員が可哀想だからね」
ワザとらしく溜息を吐いて見せると、肩を竦めてクスリと腕の中の女は笑った。彼女は以前ウチの会社で派遣社員として働いていた事がある。俺の長年の相棒である『社長』の仕事中毒も、彼の右腕である俺が常にそのフォローに追いまくられている事も、社内では定番の話題であったから、当然知っている筈だ。
「『シロクマ社長』のお守り、大変そうね」
「うん、だからゴメンね。……昨日は楽しかった」
チュッと頬に口付けると、クルリと振り向いた彼女の両腕が俺の首に巻き付いた。あうんの呼吸でそっと開かれようとする唇に軽く吸い付いて離れる。
力を込められそうになった腕を柔らかく受け止め、ゆっくりと首から外す。すると、少し拗ねたような上目遣いを送られた。
―――危ない危ない。
誘いに乗って深い口付けになってしまえば、再戦を挑まれ、引き留められる事は必至だ。
こうなってしまうと本当に彼氏と上手く行っているのかも怪しくなってくる。休みの日に長く引き留めようとするなんて……修羅場はゴメンだと部屋に行くのを躊躇していた俺を、色々な理由を付けて強引に引き込んだ時に気付くべきだったかもしれない。
深い付き合いはしないと明言しているのに、何故か遊びを装いつつ本気モードをチラつかせる女を稀に引き当ててしまう。こういうのは自動車を運転をしていれば幾ら本人が気を付けていても巻き込まれる可能性は零では無い、と言う事と同じで避ける事の出来ない事故みたいな物だと割り切ってはいる。そしてここで無暗に相手の気持ちを逆撫でしてしまうと、炎上するのは目に見えている。女を怒らせると面倒だ……だからマズイと思ったら、波風立てずにフェイドアウト。それが一番傷を少なくする収め方だ。
間違っても焦って「遊びだって言ったよな?」と確認したり、「嘘を吐いたな!」などと糾弾し冷たい態度で足蹴にしたりしてはいけない。逆上し、感情的になってしまった女には理性的な話し合いなど通用しない。以前つい牽制も込めて「本気で好きな相手が他にいる」と言うような事を匂わせてしまい、収集を付けるのに大層苦労した経験がある。ああ言うのはもうコリゴリだ。火消しに結構な時間と手間が掛かって、かなり体力を削がれてしまった。
大事なのは、女のプライドを逆撫でしないこと。
それにはまず、『誠実に対応すること』。
例えば他の女性の存在を当て擦られても―――逆上したり怯んだりせず堂々とするべきだ。動揺のあまり相手に対する態度を硬化させたりなんて以ての外だし、普通の状態なら当然取っている基本的な礼儀や配慮については、決して怠ってはならない。
そしてこれが最も大事だ―――『嘘を吐かないこと』。
何しろ女の脳には、男の脳よりずっと高性能な嘘探知機が備わっている。だから意識しないほどの些細な食い違いを発掘し、それを違和感としていつまでも覚えているそうだ。そしてそのピースを掻き集め、組み合わせる事でその全貌を見通す事ができた時……決定的な証拠を掴んだ名探偵のように男を糾弾するのだ。これがそう言う機能を備えていない男達には青天の霹靂、効果的な先制パンチになる。更にその時その犯人が不幸にも挙動不審にうろたえてしまったなら、ますます相手にアドバンテージを与えてしまう事になる。
だけど最初から嘘など付かなければ、糾弾される心配はない。それが証拠に浮気上手な男は最初から妻子を大事にしている事をアピールした上で女性を口説く。もしかしたら、と言う期待を抱かせつつも、言質は決して取らせないのだ。
こんな世間では常識かもしれない駆け引きの仕組みについて、目の前で口にすれば……恋愛事に関してだけは妙に潔癖なアイツは、きっと眉を顰めるに違いない。
―――なんて。想像する傍からおかしくなってきて、俺の口元は自然と緩んだ。
「なあに?ニヤニヤして」
「ああ」
不思議そうに見上げる彼女に俺はニッコリと微笑む。笑顔には自信がある、案の定彼女はポッと頬を染めて瞳を潤ませた。
「『可愛いらしいな』って、改めて思ってさ」
「……ばか」
そうしていつも通り。―――今日も俺はまんまと女を煙に巻く事に成功したのだった。