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Chapter-9

 日が暮れる前に、僕たちは学校を出た。

 久島さんがかつて暮らしていた家は、すぐに見つかった。クリーム色の壁の、そこそこ立派な二階建て。門の反対側に回ると、物干し台が置かれ雑草が少し生えている殺風景な小さな庭に、日本犬が一頭繋がれていた。おそらくこの犬がタロウなのだろう。

「思ったよりは元気そう」

 僕は言った。つまらなさそうな顔をして寝そべってはいるけれど、繋がれて自由を奪われている犬はそんなものじゃないだろうか。とても美しい毛並、とまでは言えないまでも、別にひどくみすぼらしい様子でもない。特に痩せているわけでもない。普通、の範疇だと思った。

 けれども磯崎は、ひどく顔をしかめて言った。

「これは……。事態は急を要するかもしれない」

「そうなの?」

「憶測でものを言うべきではない。だが」

「だが?」

「……あちこち身体を痛めている」

 僕はもう一度タロウを見た。

 ぺったりとお腹をつけて地面に寝ている。たまにもぞもぞ身じろぎする。ぱたん、ぱたん、と尻尾を動かす。特別顔をしかめたりする様子もない。もちろん出血していたり、傷になっている箇所も見えない。

「そう?」

「ひどく痛めているわけではない。ほんのわずかではある。だが……」

 その時、窓に人影が現れた。

 僕たちは慌てて塀の陰に隠れた。

 スエットを着た、若い男が窓を開けて外に出てきた。磯崎が僕に目配せする。この人が、久島さんのお兄さんだった人らしい。ビニル袋とスコップとリードを手に持ち、彼はタロウの脇にしゃがみこんだ。たぷんとした毛皮に埋まった首輪を掴み、繋がれている紐をはずして持ってきたリードに付け替える。タロウは腹這いのまま首を持ち上げて素直に従っていた。散歩に行くとなったらはしゃいで身体を起こしそうなものだけど、あまり動きたくないように見える。

「ほら、行くぞ」

 立ち上がったお兄さんがリードを乱暴に引くと、タロウはようやく腰を上げた。大人しく、お兄さんの後をついていく。

 僕たちはお兄さんがタロウを連れて門を出て行くのを見送り、少し待ってから後を追った。

 辺りは暗くなり始めている。

「タロウって老犬じゃない……よね」

「再婚直後にもらってきて、当時子犬だったと話していた。まだ五歳程度」

「そのわりに」

 歩き方がやけにゆっくりだな、とは思った。

 磯崎の言うように、身体を痛めているのだろうか。

 お兄さんはすたすた歩いていた。タロウはとまどうようについていく。

 川沿いの道で、お兄さんは立ち止まった。磯崎と僕は、少し離れた繁みの陰に隠れて様子を窺う。

 土手をさえぎる柵の前で、お兄さんは屈みこむようにしてタロウの頭を撫でていた。……かと思うと。

 ぺたんと座りこんだタロウの肩のあたりを、お兄さんは運動靴を履いた足でいきなり蹴りつけた。

 タロウがよろける。その優しそうな黒い目が、びっくりしたように見開かれている。

 けれどもお兄さんは、次の瞬間にはタロウの顔のまわりをさすっていた。「よしよし」なんて言いながら。タロウは混乱しているのか、よくわからないというような顔でさすられている。

 するとふいにお兄さんは身体を起こし、またタロウを蹴った。今度は正面の、胸のあたりを。

 反射的にタロウは「うう」と唸るようなそぶりを見せた。ところがお兄さんが「どうした?タロウ」と機嫌のよさそうな声をかけて撫でると、やはりよくわからなくなったみたいな顔をして撫でられている。

 そのタロウを、お兄さんは今度は柵に押しつけるように膝で蹴りつけた。

 僕は我慢ができなかった。

「……ちょっと!」

 僕は思わず繁みの陰から飛び出して、そう呼びかけた。

 お兄さんが振り向いた。その顔がやけに愉しげなへらへらとした笑いを浮かべていたので、僕はぞっとした。

「なに……やってるんですか?」

 思わずつっかかる口調でそう訊ねると、

「なんだおまえは」

 お兄さんは笑いをひきずったまま訊ね返した。

「……僕のことはどうでもいいです。なにをやってるんですか?」

「おまえに関係ないだろ」

「その犬を蹴っていましたよね」

「だからなんだよ。俺の犬だ」

「飼い主だからって、やっていいことと悪いことが」

「ああ?」

 お兄さんはタロウのリードを柵に結わえつけると、僕に向かって近づいてきた。

 磯崎よりは低いけど、僕よりは充分背が高い。

 けれども多少は僕だって……と身構えていると、

「沙原くん!」

 磯崎が姿を現した。

 お兄さんは磯崎を見て「げ」という顔をした。

 しかし僕は磯崎が気に入らなかった。犬が目の前でいじめられているというのに助けに入ろうともせず、僕が出て行ってからもしばらく来なかった磯崎を、見損なってさえいた。

 けれども磯崎が出てこなかったのは、彼がやむを得ない事情から判断したものだった。そのやむを得ない事情があったにも関わらず、この時磯崎は、僕がお兄さんに殴られるのをおそれてつい出てきてしまったのだ。

 そしてその結果。


 ワオン、とタロウが大声で吠えた。

 タロウもタロウである。優しく撫でられつつだったので訳がわからなかったのかもしれないが、自分を蹴りつける相手にはなすがままになっていたくせに、磯崎を見た途端、狂ったように身をよじらせ、飛び跳ねて、その場から逃げ出そうとした。そうしてタロウが暴れた結果、軽く結わえただけのリードはするりとほどけ、タロウはそのまま磯崎とは反対方向、川沿いの道を一目散に下っていった。

「な……」

「な……」

 僕もお兄さんも、呆然と、犬の走り去るのを見ていた。そして同時に磯崎を見た。

 礒崎は、ひどく悲しげな顔をしてその場に立っていた。



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