Chapter-7
僕は磯崎の横顔を見た。
磯崎の感情が、読めない。
実は、探偵のHPの依頼欄に「悪事以外」の文言を加えるように言ったのは、さっき会った高槻先生だ。磯崎は別に反対もしなかったけれど。
磯崎はすごく真面目だし、信じられないようなお人好しだし、基本的には胡散臭いほど道徳的な人間だと思う。
けれどもその一方で、どこか常人と違うその感性が、高性能すぎる頭脳によるその思考のあり方が、ひどく危うく思えることもある。
何が悪事で何が悪事でないかは難しい、と前に磯崎は言った。
もしも今言った内容を本気で実行すると磯崎が言うなら、僕は止めなければいけない。
そんなことを考えながら、僕は久島さんに目を向けた。
睫毛を涙で濡らした久島さんは、目を見開いて、ぱちぱちとまばたきしながら磯崎を見た。
「そ……」
彼女はことばを発しようとしたけれど、声にならなかった。今度はその目から焦点が失われることはなかった。悲しみがあふれるように、ぼたぼたと涙が落ちて、久島さんは鞄を探り始めた。僕は慌てて、本棚の上に置いてあったボックスティッシュを彼女に手渡した。
「そうですよね」
磯崎は言った。
「それはあなたの願いではない。嘘です。タロウが殺されることなんて、あなたは望んでいない」
笑みを浮かべて磯崎は言った。
僕はほっとした。その空気が伝わったのか、磯崎は一瞬僕の方に目を向けて、不本意そうな顔をした。
「でも」
久島さんは「ごめん」と言いながらびーっと鼻をかみ、僕は脇から屑籠をとって彼女の足元に押しやった。恥ずかしそうに彼女は「ありがとう」と言った。
「でも、どうしたらいいのか」
「あなたの願いはタロウが幸せになること。それからあなた自身が幸せになること」
磯崎の妙に力強いことばに、久島さんは面食らったような顔をした。
「わ、私の幸せは、別に」
「依頼人の願いはすべて、依頼人本人が幸せになることだ。というか人間の願いはすべて、自分が幸せになることだ」
真剣な顔をして磯崎は言う。
「自傷も自己犠牲も復讐も奉仕も博愛も、実はすべて『自分が幸せになる』ための行動だ。まあこのテーマについて語ると長くなるので今は置こう。ともかく探偵は、あなたの願いをかなえたい。今考えるべきことは、タロウの幸せとあなたの幸せです。いいですか?」
久島さんはおずおずと頷く。
「あなたがいやな思いをすることなく、タロウも幸せにしたい。これがあなたの依頼内容、ということで。問題となっているのは、具体的には『今の飼い主から、どうすればタロウを救い出せるか』『救い出したタロウをどうすればいいのか』この二点。なので」
そう言ったかと思うと、磯崎は突然立ち上がり、右手を高々と持ち上げた。
「いち」
言いながら、持ち上げた手の指を一本立てる。
「まず、タロウの状況を確認する!」
なぜそんな大げさな手振りと大声が必要なのか謎だったが、久島さんは素直に見上げて頷いている。
「に」
今度は指二本。
「いちの調査を元に、現在の飼い主と話をし、タロウを譲り受ける!」
天井に向かって吠えるように言い放つ磯崎は完全にどうかしているが、久島さんには呆れるそぶりもない。うすうす気づいていたけれど、彼女はかなり……いい子だと思う。
「さん」
そりかえるような指三本。
「に、に前後して、タロウを幸せにできる飼い主を見つける!」
高らかにそう宣言すると、磯崎は上げていない方の手を腰にあて、妙なポーズをとったまま、首を傾けて久島さんを見た。
「こんな感じでよいだろうか?」
よくない、と即答したいような体勢の磯崎だったが、久島さんは磯崎の言に「はい」と答える。
「でも……」
遠慮がちに久島さんは続けた。
「新しい飼い主なんて、そんな簡単に見つかるかな?」
「見つけるさ。なにしろ僕は、探偵なのだから」
進捗は逐一報告するから、と磯崎に告げられて、久島さんはお願いします、と頭を下げた。