表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/13

Chapter-6

「依頼のキャンセル、取り消します」

 彼女は言った。

「犬の誘拐、してほしい」

 僕は磯崎を見た。

 理事長の依頼は完了しているわけで、久島さんの依頼を断らないと言ったのが理事長の依頼ゆえであったなら、ここで「犯罪行為」を引き受けるいわれはない。

 けれども磯崎は、案の定にっこりと笑い、「承ります」と答えた。

 不安がないわけではなかったけれど、僕も今度は口を挟むことはしなかった。

 久島さんはその磯崎の反応に、一瞬ほっとするような顔をした。でもずっと浮かべている不安とためらいの表情が、それで消えたわけではなかった。

「でも」

 言った傍から、彼女は迷うように目をそらすと、

「やっぱり、その」

 泣きそうに口許を歪めながら、席を立たずにこの場に留まっているのが精いっぱいという様子だ。

 磯崎は彼女のことばの続きをしばらく待っていたが、ふと空気を変えるように唐突に訊ねた。

「久島さんはコーヒー好きですか」

「え?」

「僕はコーヒー飲めないんですけどね。この沙原くんはコーヒー好きなんですよね」

「はあ」

「この面談室の横には、なんと給茶コーナーがあるんです。インスタントの粉が給湯器の横に置いてあるだけですけど。コーヒー、紅茶、カフェオレ、緑茶、ほうじ茶。砂糖とミルクもあります。久島さんは今、どれが飲みたいですか?」

「え、その」

「遠慮なさらず。沙原くん、頼む。僕は紅茶で砂糖もミルクもなし。久島さんは?」

 久島さんはとまどうように僕の顔を見た。僕が笑顔を向けてみせると、おずおずと、「紅茶……砂糖とミルクありで……」と言った。僕はOK、と答えて席を立った。磯崎は慣れた様子で言っていたが、実を言うと並ぶ面談室と面談室の間にある給茶コーナーについて、利用するのは初めてだった。本来この面談室は、教師やカウンセラー等大人が生徒と面談するための場所だ。面談室9はちょっとはみだした位置にあるとはいえ、ここ数日この部屋を私物化していることについて、僕は磯崎に何も確認していない。生徒が勝手に給湯器を利用していて、誰かに見とがめられたらどうしよう。

「あれ、沙原くん?」

 紙コップにティーパックを入れていると名前を呼ばれた。びくついていたものだから、僕は思いのほか過剰に反応して「ひっ」と声を上げてしまった。焦りながらおそるおそる振り向く。

 そこにいたのは、中等部二年の時の担任教師だった。僕がこの学校に編入し、磯崎と出会ったクラスの担任で、磯崎の探偵活動開始にも深い関わりのあった先生だ。

「あ、高槻先生……」

「ひさしぶり。依頼人来てるの?」

「え、あ、はい」

 担任ではなくなった後も何だかんだ関わりがあったのだけれど、高等部に入ってから、会話を交わすのは初めてだった。僕は妙に懐かしい気持になり、けれども今はすぐに戻らないといけないことに気づく。

「その……」

 とりあえずお湯を注いだり自分用のインスタントコーヒーのパックを切ったりしつつ、僕は適当なことばを探していた。先生は、そんな僕をしばらく眺めて、

「またゆっくり話したいね。いつでもメールくれたらいいよ」

と言ってくれた。


 面談室9に戻ると、話は進んではいないようだった。面談室には脇に本棚があり、風景や動物の写真集や画集などが数冊置いてある。磯崎はその中の一冊の犬の写真集を取りだして、コリー犬にまつわる歴史的エピソードとか、他愛ないことを話していた。

「……犬の幸せって何だと思う?」

 渡された犬の写真集をぱらぱらとめくっていた久島さんが、本に目を落としたままふいに言った。

 僕は彼女の前に紅茶の紙コップを置きながら、え、と思い、それから磯崎を見た。

「それは犬に訊いてみないと何とも言えないが……」

「おばあちゃんは犬が嫌いだし、ただでさえ迷惑かけてるし、ペット不可のマンションで犬は飼えないし。でもあの人たちがタロウをかわいがっているとは思えないし。いやな人たちに一生鎖に繋がれているぐらいなら、死んだ方が幸せじゃないかなって。犬を飼いたいなんて言った私が馬鹿だったし、それなのにあの家にずっといることができなかった私が悪いし、あの子を見捨てた私が悪いのはわかってて……私がもっと我慢できればよかったけど、できなかった。あの子にしてあげられるのって、もう……」

 久島さんは、どこを見ているのかわからないような目をしていた。磯崎はとりあえず彼女に笑みを向け、「まあとりあえず、紅茶どうぞ」と言った。無表情で彼女は紙コップを手に取り、砂糖とミルクの入った紅茶を、こくん、と飲んだ。

「では、誘拐したい犬というのは、元はあなたが飼い主なんですか?」

 磯崎が訊ねた。

 彼女はうなずいた。

「今の飼い主の方々は、あなたとどんな関係なんですか?」

「……私の、母の、離婚した相手と、その息子で……」

 久島さんはようやく話し始めてくれた。

「うちの父親は私が小さい時に亡くなってて……私の母親は、私が小学生の時に再婚して……。その人たちはしばらく私のお父さんとお兄さんだったけど……その、いろいろあって……離婚して……それが一年半くらい前で……あ、その、先に言っておくけれど、この前磯崎くんが会ったのは、その、その兄なんだけどね」

「そうなんですか」

 久島さんはひどく気まずそうな顔をしていったん黙り込んだけれど、意を決したようにまた口を開いた。

「再婚したばかりの頃に、私が犬を飼いたいと言ったら、その、父親になった人は知り合いから犬をもらってきてくれた。秋田犬。むくむくで、すっごいかわいかった。あっという間に大きくなったけど、ほんとにいい子で、優しくて、あと、ふかふかで。……ほんとに大事だったのに、お母さんたちが離婚することになって、私たちはその家を出ることになって、タロウを連れて行く選択肢はなくて。ひどいんだけど……その時はそれどころじゃなかったりして。でもしばらくしてすごく気になり始めた。私は、その、その家に近づくのがいやで、怖いぐらいだったんだけど、タロウのことが気になって、その家はこの学校の近くだから、この学校を勧めてくれた知り合いが気にしてたんだけど、私はその時、タロウのことを見に行けってことかなと思って……。先週、やっと見れた。ちゃんといて、よかったけど、毛がばさばさで、あんまり元気そうには見えなかった。行って抱きしめてやりたかったのに、その、家にはいやな思い出があって、それ以上近づけなくて。何とかしてやりたいんだけど、どうにもできない。この前磯崎くんに助けてもらって……感謝してるけど、あとから考えて、自分が情けなかった。私が平気な顔してあの人とつきあってあの家に行ってタロウの世話できたら全部解決してたのにって、あとから……」

 話している久島さんの目が、すうっと焦点をなくしたように見えた。次の瞬間、そこから涙があふれてきた。磯崎はずっと同じ笑みを浮かべつつ、「とりあえず、紅茶をどうぞ」とまた言った。久島さんは、あふれた涙もぬぐわずに頷くと、素直にまたカップを手に取り、小さく喉を鳴らしてそれを飲んだ。

「……今、タロウは幸せではない。しかし久島さんはタロウを飼ってやれる状態ではない。事態を整理するとそういうことですね」

 言いながら、磯崎は自分も紅茶をひと口飲んだ。そうして淡々と続けた。

「では久島さんの依頼は、タロウを誘拐して殺してほしい、ということで、まちがいないですか?」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ