Chapter-5
二年ぶりに「兄」に名前を呼ばれて、久島さんは固まった。かろうじて立ってはいたものの、すうっと血の気が失せ、全身の力がだらん、と抜けてしまったという。
「なつきちゃん、懐かしいなあ」
お兄さんはにこにこしながら久島さんに近づいた。
久島さんは動くこともできず、近寄って来る「兄」をただ呆然と見ていた。
「久しぶり。元気だったか?背、だいぶ伸びたなあ」
親し気にそう言いながら、お兄さんはさりげなく久島さんの頭に触れた。
「香々見に通ってるんだって?帰りにでもうちに寄ったらいいのに。父さんと母さんは離婚しちゃったけど、俺たちは仲良くしたっていいんだから」
言いながら、制服のブレザーを軽く叩くようにして久島さんの腕に触れた。
「な……んで、ここに?」
「なんでって、近くまで来たから。母さん……もう母さんじゃないけど……がうちを出てどこで暮らすかといったら、とりあえず実家だろうと思って」
「そ……な……」
「なんてね。実はなつきに会いたくてさ。会いたくて会いたくて~。香々見の通学路をうろついたりもしてたんだけど、なかなか会えないからさ。こっちで待ってた方が確実だって思いついたわけ。なつきは俺に会いたくなかった?」
お兄さんは久島さんの腕に再び触れ、今度は軽くさするようにした。
「考えたんだよ。兄妹じゃなくなったこと、残念だったけど、ある意味ラッキーだったんじゃないかなって。だって兄妹じゃないってことは、つきあったって何の問題もないってことなんだぜ?」
うきうきとした調子でそう言うと、お兄さんは久島さんの両肩に手を置いた。
「な?母さん相変わらず仕事忙しいんじゃないの?よかったら今からうち来たら。実は今日父さん出張なんだ。俺も一人ご飯は寂しいしさ」
両肩に手を置いたまま、お兄さんは久島さんに顔を近づけた。
覚えのある息のにおいに、久島さんは吐き気が込み上げて涙目になっていた。
だが、そんな二人のすぐ真横に、腕組みをしながら顔を突き出し、彼らをまじまじと眺める変人がいつの間にか立っていた。
「失せろ」
お兄さんは久島さんから視線をそらさずに、吐き捨てるように言った。
しかし当然のことながら、変人磯崎はその場から失せなかった。
突如磯崎は両手を胸の前で揃え、ぶりっこのようなポーズで首を傾げながら、
「お見受けしたところ年上さん……年上のおニィさん……大人の魅力ぅ……」と目をぱちぱちさせながら言った。
「なんだおまえは」
「磯崎めぐるです!」
「おまえの名前はどうでもいい」
「訊かれたから答えたのに」
「どうでもいい。何なんだ。なつきの学校の友だちか?」
久島さんの両肩を掴まえたまま、お兄さんは磯崎をにらみつけた。お兄さんより磯崎の方が、少し背が高かった。けれども次の瞬間、磯崎の身体が突如沈み込んだ。もさっとした磯崎の頭が、お兄さんの腕の間、久島さんの目の前に生えるように突き出した。守るように現れた磯崎の背中の熱を感じながら、久島さんはそのことばを聞いた。
「僕はなつきさんの彼氏です」
言いながら磯崎は、お兄さんの両腕の付け根を掴み、そのまま持ち上げた。
「な、わわ、わ」
お兄さんの両足が地面から離れ、お兄さんは変な声を上げながらばたばたと暴れた。磯崎は長身ではあるけれど、どちらかというとやせ型で、そんなにガタイがいい感じではない。けれどもお兄さんが暴れても、掴まえている磯崎はびくともしなかったという。平然と、静かに、持ち上げたお兄さんを見上げて言った。
「僕はなつきさんの彼氏です。大人の魅力はまだまだですが、年上のおにいさんだからといって負けるわけにはいきません。二度となつきさんに近づかないでもらいたいんですが、お願いできますか?誓ってもらえるなら、今日のところはこれ以上何もしませんけど、どうですか?」
「ひ、ひひひ、わ」
「どうですか?」
「はな、離せ」
「誓ってもらえたら離しますけど」
磯崎が手に力を込めたらしく、お兄さんは悲鳴を上げた。
「わか、ちか、誓う」
言った瞬間磯崎はぱっと手を離したので、お兄さんはどん、とコンクリートに尻餅をついた。しばし痛がっていたらしいが、見下ろす磯崎の視線に気がつき、よたよたと立ち上がると、転がるようにその場から走って逃げて行った。磯崎が振り向くと、久島さんもその場に座り込んでいた。
「立てるか?」
礒崎は訊ねた。
その瞬間、失せていた血の気が一気に逆流したかのように、久島さんは真っ赤になった。
「なに、今の」
「さあ」
「さあ、じゃない。なに。彼氏って、なに」
「嘘も方便」
「わ、わかってる。でも、なんで」
「彼氏だ、というのが一番説得力があって効果的だろう」
「な、でも、どうしてその」
「なぜなら僕は探偵だから。だから見ればわかった」
「なにが」
「あなたが彼をいやがっていたこと」
磯崎は、最後まで久島さんの事情を知っていることを隠し通した。
そうしてそれは、僕が見る限り、成功していた。
彼女に、疑っている様子はなかった。
数日後、久島さんは再び面談室9にやって来たのだった。