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Chapter-10

 ともかくタロウを探さなくてはいけない。交通事故の危険もあるし、それに……元来大人しい犬であったとしても、大型犬だ。虐待を受けてストレスも溜まっていたかもしれない。磯崎を見て、興奮している様子もあった。もしも誰かを傷つけてしまうようなことがあったとしたら……

 僕は最悪な想像をし、一刻も早く何とか見つけださなくては、と思った。けれども不安に駆られる僕の横で、お兄さんは「フハ」と突如噴き出すように笑った。

「ハハハ。意外に元気だったなタロウ。ハハハ。自由の身だ。ハハハ」

「何がおかしいんですか」

 僕の問いにお兄さんは答えないで笑い続ける。近づいてきた磯崎に気づいて一瞬笑い止めたが、すぐにまたその顔には笑みが広がった。この人はもう、どこかおかしくなっているのではないか。僕にはそう思えてならなかった。

「……犬も途中で我に返って、慣れ親しんだ自分のねぐらに帰ってくるかもしれません。お兄さんは家でタロウを待っていてもらえないでしょうか」

 磯崎は、感情を殺した静かな声で言った。お兄さんは愉しそうに磯崎を見上げると、磯崎の頬に唾を吐きかけた。

「なんでてめえにそんなこと指図されないといけないんだ。あ?」

 すでに辺りはかなり暗くなっていた。磯崎の表情はよく見えなかった。磯崎は頬を拭いもせずにおもむろに片手を伸ばし、その長い指でお兄さんの喉元を掴んだ。

 お兄さんの顔色は一気に変わった。

 僕はそのまま、磯崎がお兄さんの喉を握りつぶすのではないかと思った。

「……お兄さんは家に帰ってください。家の中に入ってください。僕は家の前に立っていることにします。タロウが例えあの家に帰りたがったとしても、二度と帰ることはできない。僕がいれば近づくこともないでしょう。あなたにタロウを飼い続ける資格はない」

 淡々と、磯崎は言った。

 実際には、磯崎はその手に力を込めはしなかったようだった。けれどもお兄さんは、恐怖で凍りついたような顔をしていた。磯崎がその喉元からぱっと手を離すと、お兄さんは膝からくずおれるようにその場にへたりこんだ。

「……理事長にメールで犬の写真を送って協力を頼んだ。動かせる人間は動かしてもらえる。犬を目撃したら僕に連絡が来る。それとは別に何人か応援を頼んだ。今こちらに向かっている。沙原くんは……」

 こちらを見もせずに言う磯崎に、

「僕も磯崎と一緒に行くよ」

 僕は言った。

「いや、沙原くんはここにいてくれ。いなくなったこの場所に戻ってくる可能性もある」

 冷やかともいえる声で磯崎は言った。

 確かにそうかもしれない。

 けど、この磯崎を放っておいて大丈夫なのだろうか。

「そうだけど、でも……家に戻ってきた場合、磯崎は捕まえられないわけだし」

「近づいても来ないだろう。応援が来たら家への道の要所にいてもらうようにする。が、一番可能性が高いのはやはりここを通るルートだ。沙原くんはここに」

「けど」

「くどいな」

 磯崎は、吐き捨てるように言った。

 今磯崎の心を占めている感情は……おそらく自己嫌悪だ。

 背中を向けたままの今の磯崎には、何をするかわからないような怖さがあった。

 へたりこんでいたお兄さんは、磯崎に促されると、怯えたように慌てて立ち上がった。が、その身体は震えているにも関わらず、その目は憎しみに満ちていて、隙あらば磯崎に何かしてやろうともくろんでいるように見えた。この人が何かするかもしれない。その場合、磯崎の身も心配だが、それよりも……磯崎が何をするか、が僕には怖ろしく思われた。

 僕が動きあぐねていると、磯崎の携帯が鳴った。

 何やら話している磯崎をただ眺めていると、今度は僕の携帯が鳴った。

「もしもし」

 ――もしもし。今、いいかな。磯崎くんが話し中でつながらなかったから……

「あの」

 ――あ、ごめん、高槻です。

 高槻先生。今日の夕方、面談室の外の給茶コーナーで久しぶりに会ったばかりの、僕たちの中等部の頃の担任の先生だ。それはいいけど、なぜ今このタイミングで電話がかかってくるのだろう。

「すみません、ちょっと今」

 今取り込み中です、と言おうとして、そういえば、高槻先生の家は香々見学園の徒歩圏内、つまりこの近くだということを思い出す。高槻先生は、たまにちょっと抜けたところもあるけれど、信頼できる先生だ。今この場に先生が来てくれたら――

「先生、いきなりなんですけど、ちょっと今困っていて、もしも」

 勢い込んで言いかけて、自分が相手の話を遮ってしまっていたことに気づいた。

 そもそも電話をかけてきたのは相手なのに、その用件も聞かずに話し出すなんて。

 何をやってるんだ僕は。

「いえ、すみません」

 僕は黙った。微笑みながら辛抱強く生徒の話を聞く先生の顔が浮かぶ。こんな時先生は、自分の用件を後回しにして僕たちにことばの先を促してくれたものだ。もちろん僕も、それに甘えるようなガキではいたくないと思っているのだけど。

 ――沙原くん。もしもし。聞いてる?

 ところが先生は、いつもと比べると余裕がないようだった。

「あ、はい」

 ――僕の家、知ってたかな。磯崎くんは知ってると思うけど。わからなかったら、学内ネットの教職員一覧のリンクから情報出るから。そのマンションの前に、今すぐ来てくれる?

「え?」

 あまりにも唐突な、しかも言い方はやわらかいけどほぼ命令に近い提案に、僕は面食らった。

「な、なんで」

 と思わず言いながら、けれどそう言えば高槻先生は理事長のお気に入りであったことを思い出す。もしかして、今回の件についてすでに先生にも協力依頼があったのだろうか。

 ――タロウが、ここに……うわあっ

 どうやら僕が思い至ったとおりだったらしい。

 けれども一瞬の安堵も束の間、先生の悲鳴と衝撃音が耳を刺し、そして通話は途切れた。


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