(2)
若干遅めの昼食となったが、いつもと違ってテレビもつけず、先ほど藤村刑事から聞いたばかりの話が二人の頭から離れない。容子が心配顔で切り出した。
「突然ご主人が亡くなるなんて、信じられんやろな。奥さん大変やろね。」
「娘さん、十歳ということは、小学四年生かな、いや五年生か? 」
「お子さん一人や言うてはったよね。」
「うん、それにしてもビックリしたな、日の出興産の社員とはな。」
藤村刑事の話を聞いて純一朗は実は驚いていた。亡くなった沢田さんが勤めていた会社が日の出興産㈱と分ったからだ。日の出興産と言えば、石油精製元売でありかつ販売元売でもある、日本を代表する石油会社である。また、純一朗が永年勤務した総合商社、浪速通商㈱の主要仕入先でもあった。そのため、この会社の社員、特に営業関係の社員の多くを知っている。正確には知っていたと言うべきであろう。その後殆どの知人は、定年あるいはリストラにより退職し現在では知る人はごく少なくなっている。
浪速通商㈱大阪支社燃料部が日の出興産㈱との取引を開始することが出来るようになったのは、ひとえに純一朗の卓越した営業力とたゆまぬ努力によるものだった。日の出興産という新たな仕入先を獲得した功績は、純一朗が大阪支社燃料部勤務、十二年間に築いた数多い功績の一つであった。特筆すべきは、昭和四十八年末、日本が石油パニックに陥った時、この取引関係が実に大きな実益をもたらした。その功績が物を言い、純一朗の燃料本部における地位を、その後かなり良い方向へと導き、やがて同期入社ではトップクラスのスピードで課長に昇進した。
良いにつけ悪いにつけ、思い出深い会社となったのが日の出興産㈱なのだ。そんな多くの思い出のある会社の社員が、自分の住む家の近くで溺死し、その死体を自分が発見するとは・・・。
何ともいやな思いをした事件ではあったが、一応一件落着となった。それにしても、何の因果か、純一朗が死体第一発見者となったのは事実で、袖触れ合うも多生の縁というではないか。因果の程は良く分らぬが、純一朗は、せめて葬儀には顔を出した方が良いだろうと思い、日取りなどを調べることにした。
月曜日の朝、純一朗は藤村刑事に連絡し、沢田さんの葬儀の日取りと場所を聞いて見ることにした。藤村刑事は
「葬儀日程は、まだ決まっていないようなんですよ。ま、分ったら連絡しましょう。」
と、案の条快い返事をくれた。
九月五日、近くの葬儀場で盛大な葬儀が執り行われた。参列者が非常に多い。さすが日の出興産だ。知らぬ人ばかりだったが、一人だけ、よく知っている顔があった。日の出興産㈱常務取締役、吉野隆弘。さすがに貫禄がついている。昔に比べ、一回り大きくなったようだ。
純一朗が大阪支社に勤務していた時、神戸支店の販売二課長をしており、純一朗と歩調を合わせるように課長になった人で当時は、良く付き合ってゴルフへ行ったり、マージャンをしたり、また飲みに行ったりした仲だった。純一朗と同い年でもあり何かにつけてウマの良く合う関係だった。日の出興産において、この人だけが出世街道から外れることなく、現在も常務取締役として活躍している。人柄も良く、日の出興産にありがちな横柄な態度も一切取らない紳士であった。彼が東京本社に転勤し、そして間も無く純一朗も福岡に転勤となったが、純一朗が東京に出張した折に、仕事抜きで、二度三度会っており、逆に彼が福岡に出張して来た時にも一緒に酒を飲み交わしたことが何度かあったことを思い出す。
懐かしさもあって挨拶したかったが反面気後れして、結局挨拶はしなかった。相手が気付いてくれれば別だったかもしれない。
沢田夫人に直接お悔やみを、と思ったが傷心の夫人に、話す機会を見出せずにいる内に式も終わり、出棺の時を迎えようとしていた。とそこへ、藤村刑事が声を掛けてくれた。そして沢田夫人に、亡くなったご主人の第一発見者であると紹介してくれた。なかなかどうして、気の利く刑事だ。夫人から、発見した時の状況を知って置きたいと言われ、改めて訪問させていただくことを約し、葬儀場を後にした。夫人はどちらかと言えば可愛いタイプの美人だ。年をとっても余り老け顔にならないであろう。
九月九日、初七日も過ぎた月曜日。純一朗は余り気乗りはしなかったが、約束したこともあるので思い切って、沢田さん宅を訪ねることにした。見送りに出た容子から、「右肩が落ちてるよ。」と、注意を受けた。気が乗らない時は、右肩が下がる癖があるらしい。沢田さんのマンションは特に探し回ることもなく直ぐに分った。バス道に面したマンションで、オートロック式の玄関になっており、中へは入れない。玄関ロビーに整然と並んだ郵便受けに、三○一号、沢田勉、則子とあった。キーボードで部屋番号を押すと中から
「ハイ。」
と女性の声。寺島である旨を告げると
「ああ、ハイ。」
といってロックを外してくれた。三階の一番隅の部屋だった。
改めてお悔やみを述べ、かつて自分も石油業界に身を置いており、しかも、日の出興産とは親しく取引をさせて貰っていたこと、そんな縁があるだけに、今回の件が、全く他人ごとのようには思えないこと、などを述べた上で発見した時の様子を話した。
夫人は、余程気丈夫な人なのだろう。葬儀の時も涙一つ見せることなく、毅然とした振舞が印象的だった。この日も、純一朗の話をしっかりと聞いていた。純一朗は、夫人に発見した時の様子を話している内に、ふと、沢田さんはいったい何をしに室見川へ行ったのかと、気になり出した。
「ところで奥さん、ご主人は何で又、川に行かれたんでしょう。これまでも、室見川へはちょくちょく行っておられた、とか? 」
「いいえ。私も、その点が気になっているんです。たまに娘をつれて、散歩に行く程度でしたのに。」
「ということは、何か特別の理由でもあったのでしょうか。私、思うんですけど、ご主人川に行きさえしなければ、あんな事故に遭わずに済んだのじゃないかと。」
「・・・刑事さんにも申し上げたんですが、何しに行ったのか・・・深酒をしたので、私の小言を余程聞きたくなかったのでしょうか、よく分りません。」
「ご主人は時々深酒を?」
「ま、たまに、ですけど。」
沢田夫人とやり取りしている内に、純一朗は、沢田さんがそこまで酔っていて、何のために室見川に行ったのか理解出来ず、その点で何かしら引っ掛かるものを感じた。
「ご主人の所持品で、何か無くなったものはなかったのでしょうか? 」
「刑事さんからも、同じことを聞かれましたが、ケータイだけが見当たらないと答えました。」
「警察は、そのことについて何か? 」
「相当酔っていたので、どこかで落としたのだろうと・・・ 」
「何か他になくなった物は? 」
「後になって気付いたので、警察にはまだお話してませんが、自転車が見当たりません。」
「自転車ですか? 」
「はい、何日か前に、朝、主人は自転車で出掛けたんです。いつも通り、姪の浜駅の駐輪場に止めてあるとばっかり思い込んでいたんですが・・・。」
沢田夫人の言う姪の浜駅とは、西区の玄関口に相当する市営地下鉄の駅名であり、市営地下鉄の中心路線は福岡空港から博多、天神、西新等を経由して姪の浜駅まで東西に伸びており、さらに相互乗り入れをしているJRで唐津まで繋がっている。東西を結ぶ言わば動脈とも言える路線である。純一朗達が住む福重の最寄りの駅となる。純一朗は質問を続けた。
「で、駐輪場にはなかったんですね。」
「ええ、娘が探しに行ったんですが有りませんでした。駐輪場以外も随分探したようなのですが。」
「娘さんが一人で探したんですか? 」
「友達にも一緒に探して貰ったらしいんですが、結局見付からなかったと申しております。」
沢田さんは通勤するのに、時々地下鉄姪の浜駅まで、自転車に乗って行くことがあったようだが、帰りが毎日のように遅くタクシーで帰って来ることが頻繁で、そんな場合自転車は、駐輪場に置きっぱなしだった。自転車が置きっぱなしであることに気付き、娘さんが引き取りに行って、無くなっている事が分ったそうだ。となると事故に遭った日に、沢田さんが自転車で室見川まで乗って行ったのだろうか。その他、夫人との話の中で沢田さんが亡くなった日は
「業者との付き合いで、今日も遅くなる。」
と言って朝出掛けたことや、見当たらない自転車の特徴、ケータイの番号などを、知ることになった。
純一朗は、この残された家族はこれからどうするのだろうか、やはり実家に戻るのだろうか、と余計なことを心配し
「奥さん不躾かも知れませんが・・・千葉のご出身だそうですね。千葉の方に帰られるのですか? 」
「いえ、まだ決めかねています。娘が小学校を卒業するまでこちらにいようかと、社宅に住むことについては、会社の方も良いと言って下さってはいるんですが・・・今のところ迷っています。」
「色々大変だと思いますが、頑張ってください。お役に立てないかも知れませんが、ご相談に乗れることがあれば、家内と二人でお力になりたいと思います。」
沢田夫人は
「ありがとうございます。」
と頭を下げた。夫人の静かな物腰と、歯並びの良さが印象的だ。奥の部屋から夫人の母親らしき人が出て来て、同じく頭を下げた。
沢田さん宅を後にした純一朗はそのまま家に向かった。純一朗の家までは歩いて五分程度しかかからない。歩きながら、夫人から聞いた色々な話を思い出して、この件、本当に単なる事故で片付けて良いのだろうか。スッキリしない点が幾つかあるように思った。