一、カラス(1)
ギラギラした太陽が眩しかった夏の峠もやっと過ぎ、焼き付いた肌で行き場を無くした疲れを、そよ吹く風で少しずつ取り戻そうとしているかのような河畔公園のベンチで、西に傾きかけた夕陽を背に浴びながら、ぼんやりと川面を見ていた純一朗は、自分の影が長く川の縁まで伸びているのに気が付いた。路面からの照り返しも幾分楽になり、汗ばんだ首筋や腕に夕風が心地よい。
それにしても、今日はいつになくカラスの多い日だ。ここに来た時から、何かしら騒々しさを感じていたのは、その所為だ。もともと夕暮れ時を迎えると、カラスが多くはなるが、今日はやけに多く集まっている。
台風十五号がもたらした雨の影響なのか、室見川の水量が普段より多く、水位も多少高くなったように感じる。今年の福岡は水不足とのことで、堰の高さをいつもより上げて水不足の対応をしているのだろう。それで幾分水位が高くなっているように感ずるのかも知れない。
ベンチから左手の北側には、福岡タワーが顔を覗かせ、ここから海が近いことを教えてくれている。右手には、室見川の水源となる背振山系が靄でかすんで見える。たいして大きくはない幾つもの川が博多湾に注ぎ込む福岡市は、海あり山ありの言わずと知れた九州一の政令都市である。
純一朗は、夫婦揃って神戸出身なのでいずれは神戸に戻りたいと思ってはいるものの、この美しい福岡の街を、生活のし易さの面からも大いに気に入ってしまった。転勤を期に福岡に住み着くようになったのだが、いずれ故郷の神戸へ戻れば良いと思っている内に、とうとうこの年になった。夫婦の会話を、神戸なまりのまま通しているのも、望郷の所為かも知れない。このままで神戸に戻れる日が来るのだろうか。
秋がもうそこまで来ているというのに、まだまだ日差しが強い。渡り鳥が多く集まる川なのだが、この時季『ユリカモメ』はどこでどうしているのだろう。一羽も見当たらない。カラスだけがやたらと目立つ。
これまで、どんなことに対してもくよくよ悩んだりすることもなく、決断するのも割に早く、うじうじしたことが嫌いな、男らしいタイプだと自負してきた純一朗だが、早くも六十一歳、年金を貰う年になり、目に見えぬ将来への不安が少しずつ芽生えて来た。男らしさも何処へやら、時折こういった場所で、色々なことを思い悩み、ただボーッと、物思いに耽ることが日増しに増えて来た。
中肉中背、年相応の毛髪量に若干の白髪頭。ハンサムとは言えないが、飽きの来ない結構味のある、多少角張った顔立ちである。中味の方は、非常に慎重な面とかなりおっちょこちょいな面を兼ね備えてはいるが、それなりにバランスは取れている。頑固さが目立つが、気長な面と共存しており、人当たりが良い所為か、滅多なことでは他人から頑固さを指摘されることはない。凝り性である反面、あきらめが早く粘り強さに欠けるため、多くの無駄道を歩いて来たように思う。いずれにせよ、色んな面で両極端を併せ持つ人間であると自己分析している。
妻は三歳年下で容子というが、容子に言わせれば、『とっても分り易い人』だそうである。つまりは、結構複雑な割に単細胞ということか。ただ、責任感と正義感だけは人一倍である。これが際立った長所と言えるだろう。総合的には自惚れの強い自己評価とは随分異なり、ごくごく普通の男ということになる。
この年になって、今更自己分析をしても始まらない。うじうじと何時までも悩まないのも、まぁ長所の一つだ。カラスの騒々しさが気になり出した。さて、そろそろ帰ろうとベンチを立って、両手を上げて大きく伸びをし、川の縁に近付き何気なく川面を覗き込んだ純一朗は、思わず息を呑んだ。
いきなり目に飛び込んで来た物体が、なんと人の形をしているではないか。川面の動きに合わせゆっくりと揺れている。目を凝らしてじっと良く見たがやはり間違いない。ワイシャツ姿の男の背中のようだ。手前の岸にピッタリとくっついた状態なので、覗き込まないと河畔からは全く見ることが出来なかった。
ビックリした純一朗は、とっさに自分の住むマンションに向かって走り出した。家に戻ってすぐさま電話を取り上げながら大きな声で、妻の容子に言った。
「容子、えらいこっちゃ、そこの川で人が死んどるで! 」
「え! うそーホンマ? 」
警察に緊急連絡をした純一朗は、容子と再び川に向かった。恐る恐る川面を覗き込んだ容子の顔が、見る見る青ざめ、自分の手で口を押さえた。人が死んでいる。こんなことは生まれて初めてだ。犬や猫の死体でさえ余り見たことがなかったのに。
間もなくオートバイに乗った警官と二台のパトカーがサイレンを鳴らしながら到着した。いつのまにか大変な人だかりになっている。そしてさらに二台のパトカーが到着した。あれだけ集まっていたカラスの姿は騒ぎの所為か消えていた。周りにロープが張りめぐらされ、その中で、純一朗は、死体発見状況を説明した。そして一台のパトカーに便乗を求められ、西警察署に向かった。
発見の状況を詳しく教えて欲しいとのことで、わざわざ西警察署までパトカーに乗せられ出向いて来たのだが、もう小一時間も待たされている。一体どういうことか。気長な方ではあるが、さすがにムッとして来た。あたりが少し暗くなって来た。
やっと、年輩の刑事が若い警官と応接室に入って来た。
「やあ、すいません、亡くなった人の身元を確認してたもんでお待たせしてしまいました。えぇっと、寺島さんとおっしゃいましたねぇ。」
と言いつつ差し出された名刺には、福岡県西警察署、刑事第一課、警部補、藤村徹と書かれている。
「それで、身元は確認出来たのですか? 」
「ええ、所持品からすぐに判明しました。死因など詳しいことはもう少し調べないと、分りませんけどね。さてと、ではすいませんが、死体を見付けた時の状況を、もう一度お願いできますか。」
待たせたことを済まないとは露ほども思っていないようだ。刑事はボールペンを握り直した。
純一朗は、発見した時の様子を詳しく述べて、求められるままに、調書にサインをした。藤村刑事は、もう一度調書に目を通しながらしきりに頷いている。短くカットされた白髪交じりの薄い髪だが髭はかなり濃い。むさ苦しい刑事だが、笑顔が良い所為か何やら親しみを覚える。純一朗は待たされたことを何故かしらもう忘れていた。警察を後にし、家に戻って夕食のテーブルに着いたが、腹は減っているはずなのに、空腹感がなく、いまひとつ箸が進まなかった。
翌日、平成十四年九月二日の朝刊には、『室見川で、水死体』という記事が、社会面に小さく載っていた。新聞に拠れば亡くなったのは、福岡市西区福重に住む会社員、沢田勉さん三十八歳で、『酒に酔って誤って川に転落し、溺死したものと思われる。』とあった。新聞に目を通したあと、純一朗は、嫌なものを見てしまった、何とも言いようのない後味の悪さを、吐き捨てるように「フッ!」 と大きくため息をついた。
「もっと良い物を見付けりゃいいのに、ついとらんな、全く! 」
ぶつぶつと独り言を言いながら、パソコンに向かい、最近ハマッテいる、フラッシュでの動画制作に取り掛かった。丁度作業にも油が乗って来た頃、玄関のチャイムが鳴った。もう昼近かった。応対に出た容子の声で、西警察署の藤村刑事と直ぐに分った。
「寺島さん、昨日はご協力ありがとうございました。お陰で助かりました。今日は、近くまで来たので一言お礼をと思いまして。」
「それはどうもご丁寧に、で、どうだったんですか? 新聞には溺死となっていましたけど。」
藤村刑事の話に拠ると、亡くなったのは、日の出興産㈱福岡支店、業務課長代理の沢田勉さん三十八歳だそうだ。発見の前日、八月三十日の夜八時から十二時の間に亡くなった模様で、検死の結果、川に転落した時のものと思われる傷以外、特に問題になるような外傷などは無かったという。事件性は無く事故死との結論が出て藤村刑事もホッとしたそうである。しわがれた声でボソボソしゃべる藤村刑事の顔に安堵の色が窺える。
沢田さんの家は、近くの分譲マンションの一軒を会社が借り上げ、社宅として沢田さんに提供しているものらしい。さらに、夫婦とも千葉県の出身で、十歳の女の子が一人、福重小学校に通っており、大阪から福岡に転勤して来て二年になるという。
藤村刑事は、事件性なしとのことで本当にホッとしたのだろう。目じりに出来た深いしわが微笑んでいる。彼も近くの石丸団地に住んでいることや、純一朗と年齢は二歳違うが偶然にも誕生日が同じで、あと一年で定年を迎えること、そして、今日は日曜日なのでこれから家でのんびりしたいなどと、色々話し込んで帰って行った。強面の顔とは裏腹に、結構お人好しなのであろう、話好きな刑事である。