Boy meets A Girl
他人の気持ちを軽んじたりするつもりはないが、どうして皆、こう判で押したような言動しかしないのだろう。
そんなことを思いながら、潮は放課後のひとけのない廊下で、目前に立つ少女を何の感慨もなく見下ろしていた。
「あ、あのっ 私、広崎くんのこと中等部の頃から見ててっ だけど、広崎くんは他の女子にも人気あって、なかなか話しかけられなくて…っ」
「…………」
父親に引き取られてから、社交的ではなくなっていった自覚はもちろんある。同年代の女子に限らず、老若男女問わずに。これというのも家庭環境のせいだとは思うが、他人のせいにばかりするのは卑怯だという生来の生真面目さが変な風に作用して、できるだけそう思わないようにはしているが。
「でも、高等部に入って越野さんと話してるの見たら、何だか雰囲気がやわらかくなったように思えて…」
…珠美と? 珠美に対しても、別の人間と接する時の態度と何ら変わらないそれで接しているつもりだが、珠美のあの何を言っても引き下がらない性格のせいでそう見えないのだろうか?
「そ、それで、よかったら私とつきあってほしいんだけど…っ」
恐らくは決死の覚悟で臨んでいるであろう女生徒を前に、もはや定型文と化した言葉を口にする。
「……悪いけど。俺は、誰ともつきあう気はないんだ。これまでも、そしてこれからも」
父親のようにならない自信は、潮にはなかったから。事実、半分だけ血がつながっている────決して認めたくはないが────長兄の崇がいい例だ。次兄の翔がそんな人間でないことだけが、救いではあったが、油断はできない。自分の母親と、兄たちの母親────人間性には好意は持てないが、ある意味彼女も父親の愚行の果ての被害者といえるだろう────のような女性をこれ以上増やしたくなかった。潮にその気はなくとも、どこでどう間違いが起こるかわからないから。
いつもならこれで引き下がる相手が多いのだけど、しかし彼女は引き下がらなかった。
「どうして!? 越野さんのことが好きだから!?」
「──────は?」
あまりにも予想外のことを言われ、立ち去りかけた潮の頭が真っ白になって……いつもなら決して振り返りはしないのに、ほとんど無意識に振り返った。ここでどうして珠美の名が出てくる?
「だ、だって広崎くん、越野さんと話してる時は何だか楽しそうだしっ たまに思い出話なんかしてるみたいだし、やっぱり幼友達だと違うのっ!?」
「楽しそう」…? あまりにもめげない珠美に半ば呆れてものが言えなくなったことはあるが、楽しそうにした覚えなど一度たりとてない。思い出話といっても、珠美が一方的に振ってくる話をおざなりに流しているだけで、潮からは昔の話に乗ったことは一度もないのだが。嫉妬を含んだフィルターを通すと、事実がここまで歪んで見えてしまうものかと、潮は人間の精神の恐ろしさの片鱗を見たような気がした。
「…別に越野と仲良くしているつもりはないぞ。あいつが話しかけてくるから、適当に相手をしているだけだ」
確かに、珠美は他の人間とは違う。唯一、昔の潮を知っている相手だからか。だからといって、恋愛感情があるかと言われればないと断言できるし、いまとなってはかつて持っていた友情もないに等しい。けれど、負の感情を抱いている訳でもないし……では彼女に対してどんな感情を抱いているのかと問われれば、答えられない。
俺…あいつのこと、どう思っているんだ……?
昔は確かに親友だった。性別の違いなど、時々忘れてしまうぐらいに、相手が何を考えているのか、わざわざ言葉にしなくても手に取るようにわかるほどに。けれど、いまと昔ではまるで違う。
「とにかく、俺が誰ともつきあわないのは、越野とはまったく関係ない。あいつを女として見たことなんて、これまで一度だってないしな」
心のどこかから嘘つきとちくりと刺すような声が聞こえてきたが、あえて無視をする。
半ば自棄になって押し倒したあの時、手首や腕の細さや肩の頼りなさ、身体のやわらかさに初めて彼女が女だという事実を認識したが、それだってその時一度きりで、恋愛感情などに発展する余地もなかった。心を占めたのも、ただ罪悪感と驚きだけで。だから、珠美を女として意識することがあるかと問われれば、ないと断言できる。では友達かと問われれば、それも違う。昔は確かにそうだったけれど……。
まだどこか納得していないような表情の少女を残し、一度も振り返ることなく潮は歩き続けた。
珠美と初めて会ったのは、小学校の二年生の時だった。
「何かさー、六組に越野っていうすげーつえー女がいるんだってさ」
潮はその時は一組だったから、珠美のいる六組とは教室が離れていてほとんど接点もなく、同じクラスの男子にそう聞いた時もとくに興味も持てず「ふうん」と思っただけだった。珠美のことも、その時はよくいるこうるさい委員長タイプの女子だろうと思い込んでいて、深く気にすることはまるでなかった、あの出会いまでは。
いつものように、業間の長い休み時間に校庭で遊ぼうとクラスの仲のいい男子数人で表に繰り出したところで、それは起きていた。
「てめえ、三年に逆らおうってのかよ!?」
いかにもガキ大将といった感じの男子児童が、どう見ても体格的に細くて頼りない体躯の別の児童を前に、すごんでいた。といっても、しょせん小学生、それも十歳にも満たない子どもであるから、大した迫力でもないのだが。けれど、目前の児童以外には有効であったようで、先頭に立つその児童の後ろにいた他の児童たちは相手の怒号にすっかり委縮してしまっているように見えた。
「ああ? 三年だから何だってんだよ。たかだか一歳二歳違うだけだろーが。それでえらいってんなら、うちのねーちゃんは四年だよ、それなら文句ないってのか?」
けれど、先頭に立つ短髪の児童にはまるで効かなかったようだ。
「んだとおっ!? 生意気なっ」
「生意気で結構、下級生に力で言うこときかそうってひきょーもんと一緒にされたくないね」
まくり上げた袖、半ズボンから伸びる手足は潮と変わらないぐらい細くて、ちょっと突き飛ばしでもしたらすぐに倒れてしまうのではないだろうかと思えるほど背も小さいのに、まっすぐに強い目で相手を見据える眼差しは鋭く、その存在感はその場にいる他の誰よりも大きく見えた。
「見慣れないヤツだな。一年か? いい度胸してんなあ」
「潮、違うよ。あいつがさっき言った越野だよ」
「えっ!? 越野って女だって言ってなかったか!?」
「だから、あれでも女なんだよ、あいつ」
「あいつが言ってた『ねーちゃん』のほうはすげー女らしいんだけどさ」
「うっそだろ~?」
級友たちから聞いてもまだ信じられなくて、もう一度よく見てみようと珠美のほうを向いた瞬間、潮の視界に三年に突き飛ばされてよろめいた珠美の姿が飛び込んできた。
「!」
その後は、もう何も考えられなかった。何もかも忘れて、走り出していた、珠美の元に。
「ってーな、口でかなわなかったら暴力かよ!? やっぱりひきょーもんだなっ」
「二年のくせに、生意気なこと言うからだろうがっ」
「…知ってるか? 自分に自信がないヤツほど先輩風吹かしていばり散らすんだってさ、うちのじーちゃんが言ってたぜ」
潮がここで出した「じーちゃん」とは、「島本」、つまり母方の祖父のことである。この頃は「父は死んだ、向こうの祖父母とは折り合いが悪かったからいまはもうつきあいはない」と母から聞いていたから、島本の祖父母や伯父たちだけが純粋に慕ったり可愛がってもらえる存在だったのだ。だから、その祖父母たちの言うことややることは、潮にとっては正しいこと以外の何物でもなかった。
何か思い当たることでもあったのか、三年生は顔を真っ赤にして、唐突に現れた闖入者を睨みつけている。潮はといえば、まるで委縮することなく────潮にしてみれば、自分より立場が弱い者、この場合は下級生であり女子である珠美に対して、ただ年が上だというだけで言うことをきかせようとする相手の何を怖がることがある、という心境だった────危うくバランスを崩して転倒するところだった珠美の腕を、しっかり掴んで支えてやっていた。珠美が驚いたような顔でこちらを見ているが、とくに気にしない。
「さっきまでの威勢はどうしたんだよ。他に自慢できるもんがねえのか? ならこいつのほうがよっぽど器がでけえな」
潮自身、まだよく意味がわかっていない言葉だったけれど、祖父の言っていた言葉を真似て言ってやると、相手は何も言えなくなってしまったようだった。そこに、割って入る上級生らしき女子と教師の声。
「先生、あそこですーっ」
「こらーっ またお前らケンカしてるのかーっ」
そのとたん、相手の一団と珠美がぎくりと身をこわばらせるが、珠美の腕を掴んでいた潮は、笑みを浮かべて珠美を見る。驚いたような顔をする珠美に頷いてから、そのまま教師に向かって振り返った。
「せんせー、あいつら上級生だってだけで下級生おどして言うこときかそうとしてたんだ…です。こいつなんか、こう見えても女子なのに突き飛ばされたんですよー」
すぐそばで、「女に見えなくて悪かったな」と呟く珠美の声が聞こえたが、ここはとりあえず聞こえないふりをする。
「なにっ!? お前ら、そんなことしたのかっ」
「うわー、ごめんなさーいっ!!」
三年生たちは、先刻までの勢いはどこへやら、まるで蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。教師もそれを追いかけて、珠美や潮には目もくれずに走っていってしまったので、あとには珠美と潮、互いの級友たち、それから教師を呼んできてくれたらしい上級生の女子だけが残される。
「も、もう大丈夫だから、手ぇ放せよっ 女扱いすんなっっ」
そう言って珠美が自分の腕を掴んだままだった潮の腕を振り払ったとたん、珠美の頭に振り下ろされる、十分手加減したらしい空手チョップ。
「珠美ちゃん。あれほど危ないことしちゃダメって言ったでしょ?」
「だ、だって、ねーちゃん……」
「だってもあさってもありませんっ」
あれだけ威勢のよかった珠美が、まるで借りてきた猫のようにおとなしくなってしまったところを見ると、この上級生の女子が先ほど誰かが言っていた珠美の姉なのだろう。なるほど確かに、ずいぶんタイプの違う姉妹だ。
「…うー…ごめんなさい」
姉には弱いのか、素直に謝る珠美を見て、潮は思わずくすりと笑ってしまう。それに気付いたらしい珠美に睨まれてしまったので、慌てて笑いを引っ込めたが。それと同時に、姉からも視線を向けられ、不思議に思ったところでにこりと微笑まれた。
「うちの妹を庇ってくれて、ありがとう。あなたも二年生?」
「あ、二年一組の島本潮です」
「そう、島本くんていうの。あ、もしかして、あなたのおうちって○○商店の近くだったりしない?」
「そうですけど…」
「あそこに買い物に行く時に、何度か見かけたことがあるの。とてもおきれいなお母さまと一緒に」
「…!」
珠美は姉は四年だと言っていたが、ずいぶん大人びた口の利き方をする人だなと潮は思った。まあ、こんな妹をもっていれば嫌でもしっかりしてしまうものかも知れないが。
「ねーちゃん、よく見てんねー」
「珠美ちゃんが周りを気にしなさ過ぎるのよ」
仲のよさそうな姉妹のやりとりを見ていたら、自分もきょうだいが欲しかったなとほとんど無意識に思ってしまう。それを口に出すと、母親をはじめ祖父母や伯父たちが何故か複雑そうな顔をするから、潮もいつしか言わなくなったけれど。
「ところで、お前もいい度胸してんなー。あんなに堂々と上級生に言い返せるヤツ、初めて見たぜ」
思い出したように多少興奮しながら言ってくる珠美が、姉に「『お前』じゃないでしょ」とたしなめられるのを見ながら、潮もつられて笑ってしまう。
「お前だって、女なのにみんなの先頭に立ってて、すげーじゃん」
「まーねっ」
えっへん、とでも言いたげな珠美が胸をはると同時に、次の授業の開始を告げるチャイムが鳴り響く。児童たちが忙しなく昇降口に殺到し始める。
「あ、戻らなきゃな」
「あ、こっちは自己紹介してなかったな。あたし、越野珠美。えーと、島本? これからよろしくな!」
「ああ、よろしく」
気持ちのいいヤツだな、というのが、珠美に対しての第一印象だった。
それから、何度か顔を合わせたり話をしたりするたびに、もともと気が合っていたせいもあり、自然と仲良くなっていって。三年生になって同じクラスになった時には、すっかり親友と呼べる間柄になっていた。
思えば、いろいろなことを一緒にやったものだった。よそのクラスの児童や上級生にいじめられたクラスメートを庇って報復に行ったり、他愛もない悪戯を仕掛けたり、みんなを率いていろんなところに遊びに行ったり。珠美は同じ女子から反感を買われたりしないかと心配したりしたこともあったが、むしろ皆にリーダー格として慕われていて、他の男子へのラブレターや誕生日プレゼント、バレンタインチョコなどの橋渡しを頼まれたりして────ちなみにその中には珠美宛てのものも多く含まれていたことも追記しておく────無用の心配だったと後で思い知らされることになる。
そんな風に、外や学校ではとても充実した日々を過ごしていた潮だったが、母親のことで気になることがひとつあった。それは、時折夜遅くなってから、誰か────恐らくは男性だろう。母親は潮には存在を隠しているようだったが、それでも言動の端々や家の中の雰囲気から感じ取れることがあるのだ────が母親の元に訪れている気配があることだった。実際に、自分の靴を出そうとして靴箱を開けて、隠すようにしまってある男物の靴────それも上質のものだ────を発見したこともある。その男は潮が家にいる時は決して母親の部屋から出てこようとしないので、姿を見たことすらないけれど。それでも、潮の心にどこか暗い陰を落としていたことを覚えている。
いまとなっては、その理由も真相もすべてわかっていることだけれど──────。
予想通りというかこれ以外ないだろうという潮と珠美の出会い。
何も知らなかった子どもの頃には、もう戻れないことを知っているからこそ
想い出は輝くのでしょう。