表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
二度目の初恋  作者: 橙子
5/14

新たな一歩?



 翌朝。


 まだ少し痛む額を気にしながら、潮は家を出て学校へと向かう。珠美に予想もしていなかった頭突きを食らわされた額は、昨夜は多少赤くなっていたが、前髪で隠れる場所であったせいか特に誰にも気付かれなかったようだ。否、唯一人、兄の翔だけは何か気付いていたようだが、決して珠美に話したくなかった事実を話さざるを得ないきっかけを作ってくれた張本人の彼と、しばらくは冷静に話せる自信がなくて避けていたせいで、結局何も聞いていないし話してもいない。あの家の中で、数少ない自分の理解者である彼との間にわだかまりを持つのは不本意ではあったが、今回ばかりはすぐに許せそうになかった。


 珠美は、今朝はまだ姿を見かけてさえもいないが、あんな話をしてしまった上に男として最低な行為をしかけてしまったのだ、もう自分に近付いてくることもないだろう。自棄になっていたとはいえ、珠美が抵抗してくれなかったら……自分はいったいどこまで暴走して、彼女の心身に取り返しのつかない傷をつけてしまったのだろうかと思うと、自分自身でさえ許せなくなってくる。これでは、この世の誰よりも嫌悪している自分の父親と同じではないか。そう思うだけで、満足に眠ることもできず、悪夢────あの家に引き取られた頃頻繁に見ていたような、思い出したくもないようなそれだ────ばかり見てしまい、ろくに眠れた実感もないまま朝を迎えてしまった。


 そんなことを考えていたから、背後から近付いてくる存在に気付くのが遅れた。ぽん、と、いつもの力強さとは格段に違う軽い衝撃が、腰に訪れる。緩慢な動作で振り返ると、そこに立っていたのは珠美。たったいま感じたそれは、珠美が自分の鞄をぶつけてきたもののようだが……いつものものとは段違いの弱さと、いくらか俯いて決してこちらの顔を見ようとはしない彼女の様子に、やはりと思う。昨日の自分の行動は、彼女の心に明らかに傷を残してしまったのだろう。


「…はよ」


 やはり、いつもとはまるで違う、ようやく聞きとれるくらいの小さな声。


「……おはよう…」


 潮も返事をするのが精いっぱいだった。


「……唐突だけど、その後の事情については、よくわかった。あんたが知られたくなかった気持ちも、よくわかった。言いたくなかっただろうことを無理に聞き出すようなことをしちゃって、悪かったと思ってる。ホント、ごめん」


 ああ、そうか。まっすぐな気性の珠美のことだ、自分に謝罪しないまま離れることは、どうしてもできなかったのだろう。これが、彼女が自分に話しかける最後の機会ということだ。自分自身で「事実を話すのと引き換えに二度とつきまとうな」と告げたくせに、潮の心がずきりと痛む。それと同時に、これでいいのだと納得している自分も、心のどこかに存在していて……珠美には、こんなひねくれてしまった上にあの家にすっかり染まってしまった自分を、見せたくなかったから。できることなら、あの頃の素直でいられた自分の思い出だけを、ずっと大事にしていてもらいたかったから。勝手とは思いつつも、彼女のほうから離れてほしかった。自分がとうになくしてしまった純粋さを持ち続けている珠美には、変わらないでいてほしかったから。


 けれど、珠美が次に告げた言葉は、潮の予想を大きく覆すものだった。


「事情はわかったけど……あたしはまだ、いまのあんた自身がいまのあたしに対してどう思ってるか聞いてない。だからって、いま言うのは無効よ、再会してからろくに話もしてないし、ろくにお互いのことも知らないんだから。いまのあたしをこれから知ってもらった上で、それでもつきあいたくないっていうなら、その時は潔く諦める。子どもの頃から、全然変わらない人間なんていないのはわかってるし。だから、あんた側の事情はどうあれ、いまは諦めない。あんたが普通に話したり接したりしてくれるようになるまでは……一晩考えた上で出した、それがあたしの答え」


「…!?」


 それだけ一気に言ってから、珠美は一歩先に踏み出した。


「言いたいことは、とりあえずそれだけかな。あたし、用あるから先に行くわ」


 すたすたすた。迷いのない足どりで先を行きかけた珠美だったが、何か思い出したかのようにふいに立ち止まり、それからゆっくりとこちらを向いた。今度は俯いてはおらず、潮の目をまっすぐに見つめながら─────けれど、その顔はこれ以上ないというほどに真っ赤だ。もしかしたら、先ほどまで俯いていたのも、それを隠すためだったのかも知れないと潮に思わせた。


「…………今回だけはあれで許すけど…今度、あんなことしたら、あれぐらいじゃ済まさないからねっ その時は、もう容赦なく蹴ってやるから!」


 どこを、とは、昨日の潮の行動といまの珠美の真っ赤な顔から考えれば、聞かなくてもわかる気がした。けれど、問題はそこではなくて……。


「今度こそ、言いたいこと終わり! じゃ、あたしは行くからっ」


 答えることもできないまま、潮は走り去っていく珠美の後ろ姿を見つめていた。昨日はあんなにも華奢に思えた肩や背が、いまはとてつもなく大きく頼もしく見える。それも、にじみ出る珠美の内面の強さがそう見せているのかも知れないと、潮は思う。


 諦めないと、珠美は言った。自分のあんな事情を知ってなお、まだ友達と思ってくれるのか。あんな、避けられてもおかしくないことまでしたのに…。それでも、潮が彼女のことをちゃんと知ってから拒絶するまで、自分からは離れないと……そう言ってくれるのか。どこまでお人好しなのかと、思わずにはいられない。こんな自分のことなど、いい加減に見切りをつけて、さっさと自分なりに新たな高校生活を楽しめばいいのに────珠美の性格ならば、元からの友人はおろか、自分なんかよりよっぽどつきあいやすい新たな友人だっていくらでも作れるだろうに。それでも、自分を決して見離さないと……言葉で、態度で告げるのか。


 いまの自分の気持ちを、何と表現していいのか、潮にはわからなかった。驚愕? 当惑? それとも…。


 そんな時、背後から声をかけてくる存在があった。


「潮、おはよう。どうした? こんなところで立ち止まって」


 現在では数少ない、友人の一人だった。彼が潮を名前で呼ぶのに、とくに意味はない。単に同じ学校に在籍する兄の翔と区別するためで、それほど深いつきあいをしている訳でもない────そこまで親しい友人など、珠美との別離以来、家庭環境のせいもあって作る気にはなれなかったからだ。


「あ、ああ、おはよう…いや別に」


 言いながら再び歩き始める潮の顔を、友人が不思議そうな表情で見やる。


「…何かあったのか?」


「え?」


「気のせいかも知れないけど、どことなく嬉しそうに見えるからさ」


 嬉し…そう? 自覚はなかったが、珠美の言葉は、自分にとって嬉しいことだったのだろうか? 彼女が離れていかなかったことが…嬉しかったのだろうか。


「……何もないよ。気のせいだろ」


「ふうん」


 友人は何か察したのか、それ以上は訊いてこなかったのでホッとする。いまそれ以上突っ込んで訊かれたら、いままでの経験から培ってきたポーカーフェイスを、保ち続けられる自信がなかったから…………。




            *      *      *




 そして、先に校舎に入った珠美は、決して走ったためだけではない動悸を落ち着かせるので、精いっぱいだった。


 言ってやった、言ってやった、言ってやった! 昨夜ずっと考えてて、出した答えを伝えてやったわよっ


 もっと平静を保ちながら伝えるつもりだったのに、勝手に心臓の鼓動が高鳴って、潮の顔すらまともに見られなくなるなんて、予想もしていなかったけれど。声まで、勝手に小さくなってしまったのには、自分でも驚いたけれど。それでも、言いたいことはちゃんと全部伝えられたと思う。


 潮に対して、恋愛感情を持っている訳でもないのに、昨日あんなことをされたぐらいで、こんなにも異性として意識してしまうなんて、思ってもみなかった。最後に別れた子どもの頃は、腕も脚も全体的な体格も、自分とまるで変わらなかったのに、たかだか男として年齢相応に成長していることに気付いたぐらいで……いままで友達としてつきあってきた男子には、こんな気持ち抱いたことはなかったのに。どうして潮だけ、こんなにも意識してしまうのか。間に離れていた時間があったからだろうか?


「おはよー、珠美ちゃん」


 そんな時、後ろからぽんっと肩をたたかれて、心底驚いてしまう。


「…どうしたの?」


「あ、奈美ちゃん…べ、別に何もないわよっ」


「ならいいけど…何か、顔が赤いわよ?」


「ああ、ちょっと暑かったからかしらね、今日は天気いいし」


「そうねー、もう少ししたらゴールデンウィークだものねー。あ、ゴールデンウィークといえば、映画観に行かない? 早苗ちゃんや由梨香ちゃんとも話してたんだけど」


「あらいいわね、何か観たい映画の希望でもあるの?」


「あのね、最近CMでやってるヤツなんだけどね…」


 奈美と話しながら教室に行くと、開け放たれたままの扉の向こうから唐突に歓声が上がったので、驚いて奈美と顔を見合わせてしまった。


「おっ はよーっす、二人とも」


 そんな二人に気付いて声をかけてくるのは、二人のすぐそばの席に座っている近藤。


「近藤くん…これっていったい何の騒ぎなの?」


「ああ、昨日テレビで、いろんな分野のアスリートたちが一般的なゲームやら何やらで勝負する番組やってたんだよ。んでその中にアームレスリングもあってさ、うちのクラスのヤロー共の中では誰が一番強いかって話になって…」


 近藤が示した教室の中央付近の机で、体格のいい運動部の男子たちががっちりと互いの手を握り合って、力を振り絞っているのが見えた。


「それで朝っぱらから腕相撲大会? 男子は元気ねえ」


「ちなみに近藤くんはどのくらいの順位なの?」


「俺はとっくに敗退だよ。やっぱ運動部の奴らには勝てねーわ」


 そういえば、近藤は中学の頃から帰宅部だと言っていた。ワイシャツの袖を腕まくりしている近藤の腕を眺めていた珠美は、ふと気付く。そういえば、潮も中学時代から帰宅部だと誰かが言っていたような…更に、全体的な体格も身長も、近藤とそう変わらないように見える。


「……」


 自分の机に鞄を置いて、着ていた上着を脱いでみずからのブラウスの両袖をまくり始める。


「珠美ちゃん?」


「ねえ、近藤くん。ちょっと、頼みがあるんだけど」


「ん? 何だ?」


「一度でいいから、あたしと勝負してみてくんない? ちょっと、確かめたいことがあるのよ」


「へ?」


「片腕じゃ多分勝負にならないから、あたしのほうは両腕を使わせてほしいのよね。どう?」


「構わないぜ。それくらいはハンデだ」


「お、越野もやるのか?」


「いくら越野でも、純粋に力じゃ勝てないだろー」


「いや、両手を使うならあるいは…」


「珠美ちゃん、頑張ってー」


 クラスメートが好き勝手なことを言い合う中、珠美は近藤と向かい合わせに座り、両手で近藤の右手を握る。やがて、かけられる合図。


 …結果は、これ以上ないというほどの完敗。両腕でならもう少しは何とかなるかと思っていたのだが、さすがというか当然というか、れっきとした男子である近藤にはまったく歯が立たなかった。ほんとうに、ここまで差があるとは思ってもみなかった。これなら、あの時潮の力にかなわなかったのも納得というものだ。


 昔はホントに互角だったのに……こんなにも変わっちゃうものなの?


 潮とは長く離れていた時期があったから急にそうなったように思えたが、冷静に考えればいままで身近にいたクラスメートたちと何ら変わらないのだ。いまさらながらにそれに気付いて、珠美は奇妙な驚きに包まれる。ほんとうに…自分にとって、潮は他の男子とは違う存在なのだと気付いて。


「…越野? どっか傷めでもしたのか?」


 近藤の声にハッとする。


「あ、ううん、何でもないの。ちょっと考え事してただけ」


「そういえば、『確かめたいこと』って何だったの?」


「え? ああ、心身の成長に伴う、認識と意識の変化というか……」


「何それ。よくわかんない」


「ううん、いいの。私自身もまだよくわかってないから……」


 そう。ほんとうの意味で、わかっていなかった気がする。あの頃の潮と、いまの潮との違いを。そして、自分との性別が違う故の、大きな違いを。


 だから、ここにくるまで知らなかった。自分の、潮に昔から抱いていた思いと、いま抱いているこの思いがどう違うのか。自分でも何が違うのかよくわからないけれど、何かが違うことだけはわかる。


「…………」


 そして、そんな自分たちを、教室の出入り口の前で誰が眺めていたのかも。


「さすがの越野も、男相手じゃ力じゃかなわねえかあ」


 噂でしか珠美を知らない潮の友人が、潮に何を言っていたのかも。


「…そうだな」


 それに簡潔に答えた潮が何を思っていたのかも……珠美は何も、知らない──────。



少しずつ、過去の自分たちと現在の自分たちの違いを認識していくふたり。

最後にふたりが行き着くのは、どんな未来なのか……。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

誤字脱字報告もこちらからどうぞ
返信は活動報告にて
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ