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二度目の初恋  作者: 橙子
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芽生えたものは



『潮の心を……どうか、救ってやってくれ──────』



 珠美は一瞬、自分が何を言われたのかわからなかった。


「え…あ……?」


 物理的にならともかく────まだ高校一年生の小娘に何ができるかということは置いておいて、だ────心? まだ、別れた後の潮に何があったかも知らず、潮自身が自分に対してどういう感情を抱いているかすらわからないこの状況で?


 そんな珠美の困惑を見抜いたのか、潮の兄と名乗った少年は自嘲気味に苦笑いを浮かべながら続ける。


「ああ、ごめん。いきなり抽象的なことを言って混乱させてしまったね。……うちに引き取られる前の潮は、いまのようではなかったことは…君が一番よく知ってるよね?」


「は、い…」


 そう。珠美と別れる前までの潮は、決していまのようではなかった。あんな天真爛漫といってもいいほどだった潮に、いったい何があったらあんな風に変わってしまうのか。想像すらすることができない。


「ああなってしまったのは、うちの父や母、兄の…ああ、僕たちの上にはもう一人兄がいるんだ。だから僕は次男で、潮は三男ということになるんだけど。皆が厳しく、潮の心を慮ることすらしないで冷たく接してきた結果なんだ。僕だけは違うと逃げる気はないよ、結局それを止められなかった僕も同罪だということは重々わかってる。家族が皆、あんな性格だということを、誰よりもよく知っていたんだから」


 そう言って彼は淋しげな笑みを見せながら、自己を貶める言葉を吐くが、珠美には彼も悪いと思うことはできなかった。もう一人いるという兄は知らないが、彼はまだ高校生の若造で…潮とも二歳しか歳が変わらないのだ、潮が引き取られたという当時は彼もまた小学校を卒業するかしないかの年齢だったのだろうから、そんな子どもに既に大人の両親や、立場的に上の兄を止められると思うほうがおかしいだろう。


「そんなの…!」


「あんなに明るかった潮が、蔑まれて傷つけられて心を閉ざしていくさまを、一番近くで見ていながら……僕は何もできなかった。結局僕は、力も勇気も足りない半端者なんだ。だから…僕では、潮を救えないんだ。君のように、ほんとうの潮をよく知っていて、僕らの家のような存在とはまったく無縁な、純粋な心を持っている人でなければ…!」


「…っ」


 何だかえらく美化されているような気がするが、いま問題なのはそこではない。いったい、子どもにそんな苦境を強いる家庭環境とはどんなものなのだ!? 明らかにおかしい、おかし過ぎる。


「あ…あたし、何も知らないですけど、先輩のことをどうこう言う資格なんてあたしにはないし、先輩がそんな風に自分を責める必要はないと思います! それより、いったい潮に何があったっていうんですかっ!? 元々お父さんと死別していた上に、お母さんが亡くなって親類のおうちに引き取られたんじゃなかったんですか!? 失礼ですけど、こんな私立に二人も通わせることができて、更に親戚とはいえよその子まで引き取る余裕もある家で、潮がひどい目に遭うなんて考えられないんですけどっ」


「……ああ、そうか…君は、そういう風に聞いていたんだ。家の恥を晒すようだけど、潮の…いや、僕らの父親は死んではいない。よく言うだろう? 『憎まれっ子世にはばかる』って。あれを地でいくような、傲慢でふてぶてしい性格だよ。それこそ殺しても死なないだろうと誰もが思うような」


「え…?」


 父親が死んでいないというのなら、潮の母親は離婚という事実を他人に話したくなくて、故意に死別と語ったのだろうか。いや、それでは辻褄が合わない。だって、翔は「僕らの父親」と語った。翔やもう一人のきょうだいが弟や妹ならともかく、「兄」ということは…むしろ、潮の母親の存在が……。


 珠美がそこまで考えた時、ガラッ!と生徒会室のドアが開いた。


「!!」


 思わずそちらを向いた二人が見たものは。息を切らし、普段以上に険しい表情をした、潮の姿だった。


「……兄貴…こいつに何勝手に話してんだよ……」


「潮…っ ごめん、おせっかいだと思ったけど、どうしても放っておけなくて…!」


 再会してから初めて見る、感情をあらわにした潮の姿だった。再会して以来、何度も冷たく拒絶された珠美でさえ一瞬何も言えなくなるほど、強い怒気をはらんだその姿を前に、わずかに顔を青ざめさせながら口を開いたのは翔だった。潮のそんな姿を、多少は見慣れているのだろうか。


「兄貴には関係ないって言っただろう!? 俺に必要な物も人間も、俺が自分で決める! 今度よけいな手出しをしたら、たとえ翔兄貴といえども、俺は絶対に許さないからなっ」


 激しい口調で叫んでから、へたり込むように椅子に腰を下ろしたままの珠美の手を取って、急激に引っ張ってきた。


「きゃ…っ」


 掴まれた手首が少し痛かったが、そんなことを言える状態ではなかった。そのまま手を引かれて、特別棟だからかひとけのない廊下を進む。何か言いたいけれど、リーチの差もあって足早の潮に転ばないようについていくのが精いっぱいで、結局何も話せない。廊下の曲がり角を曲がったところで、ようやく潮が止まってくれたので、珠美は大きく息をついてしまった。


「……兄貴に何を言われた?」


「え? 大したことは聞いてないわよ。ただ、潮が変わってしまったのは、自分たち家族のせいだってお兄さん…でも、ちょっと話しただけだけど、あのお兄さんはとてもいい人そうで、他人にひどいことしたり言ったりするようには思えないけど……」


「…ああ。翔兄貴は、何もしてないよ。むしろ他の奴らから俺を守ってくれたほうだ」


「じゃあ…!」


 自分はいいから、せめてお兄さんとは仲直りしてと続けようとした珠美の言葉は、何かを決意したような潮の声に遮られた。


「そんなに別れた後の俺のことが知りたければ」


「え?」


「今日の放課後、誰もいなくなってからうちの教室に来いよ。全部話してやるから。その代わり、二度と俺につきまとうな」


「うし…!」


 言うだけ言って、珠美の手首を掴んでいた手を放し、珠美のほうを振り返りもせずに潮は廊下をそのまま進んでいく。後に残された珠美は、そのまま動くこともできない。その十数秒後、次の授業の開始を告げるチャイムが鳴り響いた…………。




            *      *      *




 その後、少し遅れて教室に戻った珠美の頭の中には、教師の語る内容などほとんど入ってこなかった。ついさっき聞いた、翔からもたらされた情報がぐるぐると頭の中をめぐっていたからだ。


 潮の父親────翔たち兄二人にとっても父親に間違いないらしいが────は生きていると、翔は告げた。まずそこからして、かつて潮や彼の母親、自分の両親や近所の人たちから聞いた話と違っている。となると、彼ら母子が実家に帰ってきた理由も、父親が生きているのなら前提からひっくり返ることになる訳で……更に、翔は「母親もいる」と語った。あの言い方からして、潮の母親が潮だけを連れて出ていった後に父親が再婚した相手とも思い難い────何故なら、そんな相手だったなら前妻の子である潮だけに辛くあたるのもおかしいし、ならば翔やその上にいるという長兄にもそうするのが自然な流れだ。けれどあの話では、翔はともかくもう一人のその兄でさえも潮に辛くあたっていたようにしか聞こえない。本来なら、翔のように末の弟を守り、みずからが盾になってもおかしくないというのに……。


 そうすると、導き出される結論はひとつしかない訳で…。



 放課後、一緒に帰ろうと誘ってくる奈美や早苗、由梨香に適当に理由をつけて断って、珠美は一人、自分の教室で時が過ぎるのを待っていた。余談ではあるが、例の騒動以来、奈美と早苗、由梨香は意気投合したらしく、すっかり仲良くなったらしい。


 あたりから人の気配も感じられなくなり、聞こえてくるのはグラウンドからの運動部の連中が上げるかけ声くらいになってきた頃、珠美は鞄を持って教室を出た。すぐさま隣の教室に足を踏み入れると、唯一人残っていたらしい潮が窓際で外を見ていた視線をゆっくりとこちらに向けた。何も言わないままだったが、やはり来たかとでも言いたげな表情だった。


「……お前のことだ。絶対来るだろうと思っていたよ」


 昔から、一度決めたことは絶対曲げなかったものな。


 そう続ける潮の声には、言外に「けれど今回ばかりはそうもいってられないだろう」という響きが含まれている気がして、珠美はきゅ…っと唇を噛みしめた。


「……約束よ。話して。私と別れた後、いったい何があったのか」


 恐らくは、穏やかとは言い難い────もしかしたら、大好きだった潮の母親に対する認識さえも変わってしまう話である可能性をもはらんでいたが、「絶対逃げない」と誓ったから。珠美は、潮の前に姿を現した。


 静かな…前述の通り、グラウンドから聞こえてくる声や音しか聞こえてこない教室の中で、ふたりは対峙していた。珠美の鞄は、邪魔だったので教壇の上に置いてある。潮の鞄は彼の席であるらしい机の上に放り出してあった。その様子からして、予想通り短い話ではないらしい。


「─────兄貴から、少しは話を聞いたんだろ?」


「…大した話は聞いていないわ。せいぜい、家族構成くらいしか」


 ほんとうは、潮に対する翔以外の家族の態度についても聞いていたけれど、わざわざ言うことでもないと思い、それだけを口にする。


「お母さんが亡くなられた後、お父さんの親類のおうちに引き取られたんでしょ? だって、島本って名字はお母さんの旧姓だものね」


 あくまで冷静に素知らぬ顔を装って言ったつもりだったが、次の潮の言葉で珠美は不覚にも動揺を誘われてしまった。


「聞いたんだろ? 俺と兄貴どもは血がつながった兄弟だって! 死んだってことになっていた実の父親が生きてるって聞いたんだろ!?」


「!!」


 なおも平静を装うとするが、もう遅かった。たまらず一瞬視線をそらした珠美の様子を、潮は見逃さなかったようで、更に追及は続く。


「ああそうだよ、あんな汚いことなんか何も知りませんって顔した俺のおふくろは、妻子ある男とずるずる関係を続けて子どもまで産んだ、泥棒猫なんだよ!」


 鋭い刃物を思わせるような、険しい声だった。みずからの母親を貶めながらも、自分自身をも嘲笑っているような、悲痛な声だった。


「や、やめてよっ! おばさまのことをそんな風に言わないで、あんただってホントはそんな風に思ってないんでしょっ!?」


 それは、確信というより希望に近かった。優しく慈愛に満ち溢れた女性だった、潮の母親。自分の子である潮と、何ら変わらず珠美やよその子どもにも優しく接してくれたあの女性を、潮が言うような目で見ることなど、珠美にはできなかったから。


「…っ 何も知らないくせに、知ったかぶった顔すんなよっ!」


 突然両の手首を掴まれて、そのまま後方に向かって押されたためにバランスを崩してしまうが、予想したような衝撃────床に叩きつけられるようなことだ────はなく、軽い、痛みもほとんど感じない衝撃が珠美の背に走った。そばにあった机の上に押し倒されたのだと、すぐに気付いた。そして、とっさに閉じていた目を開けると、目前に潮の顔。自棄になっているかのような、彼こそが傷ついているような光がその瞳に宿っているように見えたのは気のせいか。やがて、両手首を彼の片手で頭の上で拘束される。


「…俺の身体の中には、泥棒猫の血だけじゃなく、妻以外の女にも平気で手を出すような男の血も流れてるんだよ。だから、こんなことだって平気でできるんだよ」


 言いながら、珠美の胸元に伸ばされた自由なほうの手が、しゅるりとリボンをほどいて、珠美に見せつけるようにすぐ脇に落とされる。


「予想できるだろ? 父親がよそで作った子どもを引き取らざるを得なかった家族の心情は。他人には、『身体が弱かったから田舎に預けてた』なんてはたから見てもバレバレの嘘ついて、仲良し家族のふりをして、その内情は冷え切った家庭でっ そんなところに独り放り込まれたガキがどんな目に遭ってきたか、想像するのなんか簡単だろ!?」


「…!」


 吐き捨てられるような叫びが、傷ついた光を宿した瞳が、翔の語った言葉とあいまって、珠美の心をも傷つける。恐らくは何も知らなかったであろうあの潮が、父親に引き取られた後どんな思いをしたのか。どんな扱いを受けてきたのか。どんな言葉を投げつけられてきたのか……想像するだけで、珠美の胸まで締め付けられるように痛む。潮が望むなら、そして彼の心を救えるのなら、この身を彼に差し出してもいいと思えるほど。


「だから話したくなかったってのに……お前が知りたがってたことを全部教えたんだ。なら、お返しに俺の望みをかなえてくれるんだろう?」


 けれど、それはいまじゃない!


「─────っ」


 身体を押し付けられている机からはみ出していた頭を、グッと後方にそらして。珠美の着ているブラウスのボタンを、上からひとつふたつ外していた潮の額めがけて、力いっぱい、頭を持ち上げる!


「ぐあっ!」


 潮がとっさに頭部をおさえて退いた隙に起き上がり、その真正面に仁王立ちになる。


「この珠美さまをナメんじゃないわよ……確かに男を相手にしたら力じゃかなわなくなったけど、戦うすべをなくした訳じゃないんだからねっ 理不尽なことされてやすやすと受け容れるほど、心が広い訳でも気が弱い訳でもないのよっっ」


 珠美自身も額がズキズキと痛むが、それを凌駕するほどの怒りに全身を支配されて、それどころではなかった。潮のことは、確かに昔から好きだし、いまでも大事な親友だと思っている────ちゃんと話を聞く前もだけれど、話を聞いたいまは、よけいだ。けれど、だからといってここで我が身を差し出せるほど、珠美は自己犠牲の精神に溢れてはいなかった。


「いまの自分がどんだけサイテーなことしようとしてたか、よっく考えて反省しなさいよねっ じゃなきゃ、今度はこれぐらいじゃ済まさないからっ!」


 言うだけ言って、珠美は胸元をおさえながら、ほどかれた後そのへんに放り出されていたリボンと鞄を持って、教室を飛び出していく。額をおさえて片膝をついてしゃがみ込んだまま、顔を上げようともしない潮には目もくれないままで。


 だから、ひとり残された潮がその後苦々しい表情を浮かべていたことも、自嘲気味に小さな声で呟いていたことも、知る由もない。


「ちくしょー…あんなに華奢だなんて、反則もいいとこじゃねえか…………」


 そして珠美はといえば。階段を全速力で走り抜けて、一階に着いた時点でようやく止まり、くるりと階段の裏側の隙間に身を滑り込ませる。へたり込んで、胸元のボタンを留め直そうとするが、手が震えてなかなかうまくいかない。心臓の鼓動が激しく自己主張を繰り返しているが、これは決して走ったからというだけが理由ではなくて……。


「う、うしおのばか…っ こんじょなし、どすけべ、さいてーおとこ……」


 どれだけ罵りの言葉を口にしても、脳裏によみがえるのは先刻目の当たりにした潮の顔。子どもの頃とは違うと頭ではわかっていても、あれだけの至近距離で顔を見た瞬間、理屈なんてすべて吹っ飛んでしまった。顔だけじゃない。全身の力を振り絞っても、両手もろとも難なく潮の片手で拘束されて。腕も肩幅も身体の厚みも…子どもの頃とは全然違っていて。もはや自分とはまるで違う、「男」なのだと……珠美に嫌でも思い知らせる。


 あんな腕や胸に抱き締められたら、自分はいったいどうなってしまうのだろう? 考えるだけで、顔が熱くなってくる。情けないけれど、いまのいままで、現在の潮と昔の潮がどう違うかなんて、深く考えたことがなかったのだと、気付かされた。


 自分は「女」で、潮は「男」なのだと。珠美はこの日、ほんとうの意味で痛感させられた気がした───────。

危ういところでしたが、全年齢向けなのでここでストップです(笑)

さて、ようやくほんとうの意味で自分とは違う相手を実感したふたり。

まだ高校一年生なのだから仕方ないですが…。

ふたりの気持ちは果たしてどう変化していくのか?

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