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二度目の初恋  作者: 橙子
13/14

stand by me



 夏休みも中盤に入った、八月上旬の朝。


 いつもより少し早い時間に目を覚ました潮は、身支度を整えてから昨夜のうちに家政婦に頼んでおいた簡単な朝食を摂ってから家を出た。目的は決まっているから、潮の足取りに迷いはない。


 今日は、潮の母親の命日なのだ。こちらに引き取られてからは、葬儀の後は法要にすら参加させてもらえないけれど────これは、母親の実家方の島本家のせいではない。島本の家はむしろ潮の参加を歓迎してくれていた。それを物理的、精神的共に制止したのは、父親をはじめとするこの広崎家の人間たちだ。潮はもう広崎家の人間なのだから、醜聞をまき散らすようなことは許さないと言って。かけがえのない実の母親を醜聞扱いされた時の怒りと哀しみは、到底忘れられるものではない。あの瞬間から、広崎家の血をひくものには絶対に心を開かないと決めた────異母兄の翔を除いて、だが。


 本来ならばずっと墓参りも行けないところだったのを、潮が中二になった時────高校生になったばかりの翔が「二人で遊びに行くから」と家人に言って潮を母の墓に連れて行ってくれたのだ。その時の感謝の気持ちはいまも忘れることはできない。けれど今年は翔も受験生だし、潮も高校生になったからということで、今年からは潮一人で行くことにしたのだ。

 そして家の最寄り駅に着いた時、潮は信じられないものを目の当たりにした。


「……おはよ」


 それは、いつもより比較的女の子らしい服装をした珠美だった。


「なん…で?」


 知らず、かすれた声が喉からもれる。


「翔先輩に聞いたの。潮が毎年この日にいまぐらいの電車に乗ってお墓参りに行ってるって。そうよね、今日はおばさまの命日だものね、忘れたくても忘れられないわよね」


 そうだ。あの頃、母子そろって家族ぐるみで親しくしてもらっていた珠美が、この日を忘れるはずはない。軽い驚きと共に、納得する気持ちが心を満たしていく。


「と。いう訳で。あたしも同行するわ。嫌とは言わせないわよ?」


 そう言っていつものように不敵な笑みを見せる珠美の手には、手荷物のトートバッグとあらかじめ用意しておいたらしい花束。まだコンビニくらいしか開いてない時間帯、更にその辺の店で売っている手軽に包んだ量産品のようなものではなく、ちゃんとした花屋でそのためだけに買ってきたらしいそれに、珠美の心遣いが感じられて嬉しくなった。


「…ったく、しょうがねーなー」


 前髪をかき上げて不承不承といった体で口にした言葉だったが、母を慕ってくれていた珠美が一緒に来てくれる、その事実だけで何よりの援軍を得たように心強く感じた。


「行くか」


「うん」


 何気なさを装って声をかけてから歩き始めるが、珠美は気付いているだろうか。いつもと違って潮が初めからまったく拒絶の言葉を発していないことに────もっとも普段発していても、納得できない理由の時は珠美は遠慮なくついてくるのだが。


 目的地まで直行では行けないので、とりあえず第一中継地点となる駅までの切符を買って、ホームにやってきた電車へと乗り込んだ。時間も早いので車内はかなり空いていて、長い座席に並んで座る。こうやって座るのは、いったい何年振りだろう。


「何か…懐かしいね」


 珠美も同じことを思っていたのだろうか。


「……そうだな」


 懐かしい相手と懐かしい地へ向かっているからだろうか。いつものような、過去への反発心のようなものは浮かび上がってこない。


 そして、電車は走り続ける…。



 乗り換えのために途中の駅で電車を降りるたび、飲み物や食べ物、果てはお手洗いまでも気遣ってくれていた珠美だったが、目的地が近付いてくるにつれ、だんだんと無口になっていった。珠美なりに、何か思うことがあるのだろうか。


 そして、数時間の時間をかけ、現在の互いの住まいからいくばくか離れた懐かしい土地へとたどり着いた。ホームへ降り立ったとたん、潮の香りが鼻をつく。こんなささいなことでさえ、脳裏にあの頃の思い出を呼び起こさせるには十分であった。


「あたしはほんの二年しか離れてないけど…何かすごく、懐かしい気がするわ」


 珠美が小さく呟いた言葉が、潮の記憶を刺激する。翔に連れられてきた二年前、やはり二年ぶりに訪れた潮も、まったく同じことを思ったから。その頃には潮もずいぶん変わってしまっていて、もう二度と以前のような純粋な気持ちでこの地に来られなくなってしまったことに、小さな痛みが胸に走ったことを覚えている。


「…行こう」


 もう、あの頃には戻れないから。あの頃のように、笑ったり懐かしんだりなんて、できるはずもないから。現在の自分がやるべきことを、やるしかないのだ。珠美もそんな思いを感じとったのか、一言も余計なことは言わず、潮の後に静かに続いた。


 母親の眠っている母方の墓のある墓地までは、駅からバスで十五分ほど。よく知っているバス停へと向かい、インターネットであらかじめ調べておいた、いまから五分後に発車するバスへと乗り込む。ほとんど無意識に二人掛けの座席の窓際に座るために進みかけるが、ふと思い立って珠美を先に座らせる。このバスの経路には墓地の手前に大きめの遊興施設があるため、そこに行くまでに結構な人数の老若男女が乗り込んでくるのだ。必ずではないが、若い女性によからぬことをしようと目論む輩もいたりするので、できる限り珠美は通路から遠ざけたほうがいいと思ったのだ。気が強いとはいえ、一応年頃の少女なのだ、ここは潮が気をつけてやらねばならないだろう。珠美はやはり、何も言わない。潮の内心を全部理解しているかのように。


 いまはふたりとも昔とは違うけれど、そんなところは昔のままのような気がしたのは、果たして錯覚だろうか。


 思った通り、遊興施設のバス停でかなりの人数が降りて人が少なくなった車内から、二、三個目のバス停で降りる。お盆が近いせいもあり、墓地までの道はそれなりに人がいて、皆いかにもお参りや掃除等のための道具を手にしている。潮たちは公共機関で更に長時間の移動であるので、花束や線香以外のものは持ってこられなかったため、いつも墓地の備え置きのものを借りるしかない。潮が先に箒を手に取ると、心得たらしい珠美が手桶に水を汲んで、雑巾を手に取った。


 春の彼岸などに伯父たちが来てくれているらしく、周囲に落ちているゴミも比較的少なく、掃除はあっという間に終わってしまった。箒を脇に置いて、もう一枚あった雑巾を水に浸して、珠美の拭いている面とは反対側に手をつける。


「……潮が行ってしまってからね」


 珠美がふいに口を開いた。


「あたしやおねえでお墓参りに来てたんだけど…二年前にあっちに引っ越しちゃったから、二年ぶりに来たの。もう、来られないかと思っていたんだけど……潮と一緒に、来られてよかった」


「……そうか。俺は、二年前からやっと来られるようになったよ、翔兄貴のおかげで」


「そうなんだ。じゃあ、完璧に入れ換わりになってたんだね。その間会えなかったのは残念だけど、翔先輩に感謝、だね」


「ああ。兄貴には、いくら感謝しても足りないよ」


 それからまた黙々と、作業を続ける。


 すっかり綺麗になった墓を前にして、ようやく線香に火を点け、花と共に手向ける。報告するような近況なんてないから─────否、なくはないが、わざわざ言葉にして言わなくても、ここに珠美が共にいる時点で母親はきっと知っているだろうから、あえて何も口にせずにただ、手を合わせて拝む。潮もわりと長く拝んでいた気がするが、ふと横を見ると珠美は屈み込んだまま、まだ拝んでいた。その横顔からは、何を思っているのかは見てとれない。潮が手桶や柄杓を片付けようとして手に取りかけて、手を滑らせて柄杓を落としてしまった音で、珠美もようやく我に返ったようだった。


「あ…ごめん。つい、夢中になっちゃった。それじゃおばさま、また来るね」


 『また』と。何の気負いも躊躇いもなしに言ってくれるのか。珠美はきっと深く考えていないだろうけれど、潮にはとても嬉しい言葉だった。


「……じゃあ、帰るか」


 その言葉に、珠美が少しだけ慌てたように言葉を返す。


「あっ ちょっと待って! ほんの少しの間だけでいいから…せっかく潮とここに来られたんだから、あの頃よく行ったところをちょっと歩いてみたい。もちろん、潮が嫌でなければ…の、話だけど……」


 いつもならこちらの都合などお構いなしで言いたいことを言ってのけるというのに、こんな時に限って上目遣いまでして、何とかわいらしいことを言ってくれるのか。これでは、潮には異論を唱えることなどできようもない。


「…ったく、しょうがねーなー」


 少し前と同じ言葉を、同じような仕草で口にする。ただし今度は、苦笑いを隠すこともなく。その瞬間、心配そうだった珠美の顔が、ぱあっと輝いた。


 それから、ふたりでゆっくりと道を歩く。花束を墓前に生けて手荷物だけになったふたりは、はたから見るとデート中の恋人同士に見えなくもない。いままで私服で会った時はほとんどジーンズ姿だったことを思い出し、ふと疑問を口にする。


「お前も…そういう、女らしい服着るんだな」


「何よ、似合わないとか言う気!?」


「いや、んなことはないけど…」


 むしろ、昔と違って、髪が長くなって女性らしい曲線を描くようになった身体には、とてもよく似合っている。そんなこと、とても口には出せないけれど。


「せっかくおばさまのところに来るんだから、やっぱ昔とは違う成長した姿を見せたいじゃない……」


 ぷんと拗ねたように口をとがらせて言う珠美に、おやと思う。珠美がそんなことを考えていたとは、思ってもみなかった。潮の母が亡くなる前は、「たまにはお姉ちゃんみたいに女の子らしい恰好をしてみない? おばさん、お洋服作ってあげるから」と言われても、「えー、めんどくさーい」と言ってはばからなかったあの珠美が。「男の子もいいけど、女の子も欲しかった」という母は、珠美をほんとうの娘のように可愛がっていたから、女の子らしく着飾らせてみたかったのだろう。


「これでも……あたしだって後悔してるのよ。どうしてあの頃、おばさまの望んでたように女の子らしい恰好を見せてあげなかったんだろうって。こんなに早く別れることになるなら、一度だけでも見せてあげればよかったって…………」


 一瞬、泣いているのかと思ったが、そうではなかった。けれど、涙を懸命に堪えているような瞳と表情が、痛々しい。


「…まあ、あたしの勝手な自己満足だけどさ」


 そう言って珠美は、ふいと顔をそらした。


「そんなことねーよ。おふくろもきっと、喜んでる」


「そうかな……」


 後悔なら、潮にもたくさんある。いまならわかることでも、あの頃には気付けなかったことばかりだ。あの頃、もう少しでもいまの分別があれば、もっと母親を喜ばせてあげることだってできたのに……。


「あっ 潮、見て見てっ」


 潮の不毛な考えを打ち切るように、珠美がうって変わって明るい声を上げる。その指差す先を見ると、そこにあったのは見覚えのある海水浴場。ふたりが子どもの頃、家族や他の友達とよく遊びに来ていた場所だった。


「他のとこと違って、ここはあんまり変わってないでしょ」


 珠美の言う通り、付近の店や建物などの雰囲気は変わっても、海や砂浜で海水浴客が賑わう様は変わらない。砂浜を走る、いかにも友達といった感じの同年代らしい子どもたちの姿が、そしてそれを近くで見守る母親たちの姿が、思い出の中のあの頃の自分たちの姿とダブる。


 あの頃のまま……時が止まってしまえばよかったのに。


 そんなことを思っても、流れていく時は誰にも止められない。失ってしまったものは取り戻せない──────。


 眩しさに思わず目を細めた潮の手に、ふと触れる温かい何か。驚いてそちらを見ると、珠美の手がそれよりもっと大きくなった潮の手を外側から覆っていた。


「……どんな形であれ…潮自身がどう思っていても、あたしは潮が生まれてきてくれてよかったと思ってるよ。あたしと同じ頃に、あたしのそばにいてくれて……よかったと思ってるよ─────」


 潮のほうを見ることもせず、まっすぐに広い海と空を見据えながら、迷いのない瞳と声で珠美は言った。


 応えることはできなかった。何か一言でも発すれば、不覚にも涙がこぼれてしまいそうで。男のくせにと思う自分も確かに存在するのに、それでも止めることはできなくて。潮のほうこそ、いまここに珠美がいてくれてよかったと思う。同じ時代に生まれてきてくれてよかったと、心から思った…………。




          *     *      *




 その後は、軽く昼食を摂ってからゆっくりと帰途についた。こうして珠美とここにいると、あの頃に還ったかのような錯覚を起こすが、現在のふたりのいるべき場所は、ここではない。他に、帰るべき場所があることは重々承知している。それでも、後ろ髪を引かれるような思いは止められない。


 ふたりで並んで座席に座っていると、少し朝が早かったせいもあるのか、珠美が潮の肩にもたれかかって小さな寝息を立て始めていることに気がついた。肩にかかるかすかな重みが心地よい。あの頃は、ほとんど同じくらいの身長体重の珠美を背負うのも一苦労だったけれど、いまはきっと軽々と抱き上げられることだろう。先ほどこの手に触れた手が自分より一回りほど小さかったことに、いまさらながらに驚きを覚える。


 かつて、教室で勢いのまま押し倒してしまった時────それについては、まったく申し開きができないぐらいに我ながら情けないのだが────も、珠美は懸命に抵抗しているにも関わらず、この片手であっさり両腕を封じ込められたほどだ、力の面においても歴然とした差があるのだろう。

そう思うと、隣で安心しきったようにまどろむ珠美に対して、守りたいような、大切に慈しみたいと思うような気持ちが溢れてくる。そんなことを言ったら、気の強い珠美のことだ、「あたしは守ってもらってばっかの役立たずの姫なんかじゃないわよーっだ!」とでも言いそうだけれど。かつて母親に対して抱いていた気持ちにも似た、だけどどこか違うようなそんな気持ちが。潮の中に芽生え始めていた。その気持ちを何と呼ぶべきものなのか、潮にはわからない。


 そしてゆっくりと、潮もみずからの瞼を閉じた……。



『珠美ちゃんて、いい子ねえ』

『ああ、あいつすっげー気持ちのいいヤツだよっ』

『そういう意味じゃなくてっ』

『えー?』

『お母さん、ああいう子に潮のお嫁さんになってもらいたいわあ』

『えーっ!?』

『いまはあんな風に男の子っぽいけど、あの子は絶対磨けば光る珠よー。お母さん、ぜひ磨いてみたいわあ』

『嫁って、オレまだそんなん考えたこともねーよっ だいたいあいつはただの友達で…』

『珠美ちゃん、いまだってお姉ちゃんとそっくりなんだし、髪の毛伸ばしただけでもきっとずいぶん可愛くなるわよー。お年頃になって女の子らしくなったら、絶対周りの男の子がほっとかないでしょうね、お母さんいまからホント楽しみだわあ』

『聞いてんのかよ、母ちゃんっ!』



 それはもう、遠い昔の話──────。

少しだけ切ない、けれど輝いていた日々。

思い出は、ふたりの心に何を残すのか……。

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