バスタオルを離さないで
お湯か、汗か。
額から流れてくる液体がどちらなのかをタカオには判断できなかった。
風呂場に置いてある防水時計は朝九時を回っている。風呂に入る前は外は数日続いた吹雪から解放されて太陽光が部屋に入ってきていたとタカオは思い返す。
外はそんな清々しい陽気だというシチュエーションで、タカオ自身は湯船の中で立ちつくしている。
その裸体を晒しても寒さは感じない。密閉された風呂場は湧きあがった湯気のせいで温まり、一月という冬場でも風邪をひくようなことはない。それはあくまでも、風呂場での話だが。
タカオの目の前にあるすりガラスの扉を開けば、外側の空気が一気になだれ込んできて、体を震わせることだろう。それは想像に難くない。実際、外一面が雪に埋もれていったのはひと月前。それから一か月は風呂に入っていたのだから体験しないわけがない。
無論、部屋を暖めておくことは忘れていなかったが、風呂場は高くて三十度後半。部屋は高くても二十七度と設定していたため、その差は歴然だ。温度の高い空気と低い空気が混じれば、その間を取るように気温が下がるのは常識。
だからこそ、タカオは自分が痛恨のミスをしたことを認めた。
(……タオル……バスタオ、ル……)
いくら呼んでもバスタオルは飛んでは来ない。扉を開けた先にある、いつもバスタオルをかけている洗濯機には色鮮やかな青色は映りこんでいなかった。
バスタオルを用意するのを忘れた。
その事実を認識するのに、タカオは五分を要した。湯船と風呂場の温度が離れてきたのか、タカオは身震いし、お湯へと自らの体を再度沈める。元々温めた状態で上がろうとしていた体は多少冷えてきており、ちょうど良いお湯の温度にほっと息をつく。落ち着いたところで状況は変わらないのだが、焦りからは生まれない何かを生み出すに違いない。タカオはそう自分に言い聞かせることで打開策を探そうとする。
そして自分の体温と湯船の温度が重なった時、立ちあがった。
「とりあえず、出よう」
何の策も出なかった。
そもそも誰も外側にいないのだから、洗濯物干しにかかっているタオルを洗濯機の上に置く手段などタカオには存在しない。魔法が、あるいは超能力が使えたのならばタオルを浮遊させるか瞬間移動させるかなどして持ってこれるだろう。しかし、大学の単位さえも危ういタカオには魔法や超能力などという特殊スキルなど会得できるはずもなく。正攻法でいくしかなかった。
床を濡らしつつ。
素早くタオルのある場所に行き。
タオルを取得し。
体にまとわりついた水滴を取る。
たった四つの行動を達成すればミッションコンプリートとなる。
もう犠牲を出さずにはこの局面を打開できないのだから、覚悟を決めれば行動は一瞬だ。
タカオはまず体についた水滴を掌でできるだけ拭き取っていく。
最初は頭から。
そして顔、首筋、肩、胸元、腹、腰、尻、太もも、ふくらはぎ、足。
自分の息子は最後に両手でしっかりと水滴を飛ばす。
風呂場という場所の関係で、どうしても足裏は水滴が付く。防ぐには、一つ。
「はっ!」
覚悟を決めて扉を開ける。すわっと風呂場の外の空気が流れ込んできた。やはり温度差があるために、タカオの体は冷風が吹きつけられたかのように一瞬冷えた。しかし痛みは一瞬。タカオは右足裏を素早く拭き取って風呂場外の床に足をつける。続いて左足の裏を右足でふき取り、床を踏みしめる。
床がお湯で滲む錯覚を残して、タカオはその場から飛び出した。
いくら水滴を拭いたといっても体はまだ濡れている。髪からもいずれはお湯が落ちていくだろう。ここからは時間との勝負。素早くタオルまで駆け抜けるだけ。
(間に合う! 俺ならできる!)
あまりに早く動いても体からお湯が離れるために早足で廊下を抜ける。
一人暮らしとしては少し広めの三部屋。タオルをかけた物干しは風呂場から出て角を曲がり、まっすぐ進んだ窓際にある。走り出してしまえば、距離はそこまで遠くはない。十分、濡らさないで行ける勝算があった。
(いけ!)
コーナーを最短で曲がり、突き進む。物干しが見えても早足を崩さない。テンポを崩せばそれだけでお湯が落ちる気がタカオにはしていた。その心構えのかいがあり、干してあったバスタオルまで手が届き、するっと物干しから抜き取る。勝ったという思いから自分の軌跡を振り返っても、そこには濡れた形跡はない。多少、足の裏の温度と床の温度の差から足裏の輪郭が残っている程度。湯が流れ落ちたことにはならない。
タカオは達成感に心が満たされた。だからこそ、隙が生まれてしまったのだ。
つつつ、と濡れた髪の毛から頬に移ったお湯――外気に触れてすでに冷たくなりかけた水滴。それが、顎まで届いて、離れた。
その瞬間、真正面にあった入口の扉を閉めていた鍵が回る音が重なる。居間ともいうべき、今、タカオがいる部屋から廊下がまっすぐ繋がった先にある玄関。鍵が開けられてドアノブが回る。
そこでタカオはそもそもなぜ朝から風呂に入っていたのかを思い出す。
彼女が友達と一緒に遊びに来るというのだった。だからこそ、昨日の夜に部屋を掃除して、物干しは気にすることないだろうと放置。疲れたので夜に風呂に入れなかったのだ。
友達が来るのはいつだったか、昨晩の彼女との電話を思い返してみる。
「タカオー。来たよ~」
「おじゃましまーす」
「ミサの彼氏初めて見るー、楽しみ~」
時刻は、朝九時を回っていた。
風呂には必須ですね




