灰狼と紅蓮騎士
フェルカ帝国は、大陸の三分の二を支配していた。
空を裂く飛空戦艦、山脈を貫く鉄道網、魔導機関による永久炉。百年前には小国同士で争っていた西方諸国を統一し、飢餓も盗賊も減らした“偉大なる秩序”――それが帝国の掲げる理念だった。
そしてその秩序を守る剣こそ、上位騎士。
紅蓮騎士団第三席、フレイム・アルヴァレスは、その中でも特に名の知られた男だった。
燃えるような赤髪と、魔力を炎へ変換する特異能力《灼界》。戦場で彼の剣が振るわれれば、数百の兵が一瞬で灰になると言われている。
帝都の民は彼を英雄と呼んだ。
だが、フレイム自身は、英雄などと思ったことは一度もなかった。
「次の任務だ」
軍務尚書ギルベルトは、分厚い書類を机へ投げた。
「辺境都市リグナで反乱軍が蜂起した。規模は三千。指導者は《灰狼》ゼノ」
「……また反乱ですか」
「また、だ。最近は特に増えた」
ギルベルトは苛立たしげに葉巻へ火を点ける。
「税の引き上げ、徴兵強化、魔鉱徴発。連中は不満を溜め込んでいる。だが帝国は止まれん。北方同盟との戦争準備が必要だからな」
「戦争準備のために、国内を疲弊させる」
ぽつりと漏らした言葉に、ギルベルトの目が細くなった。
「……何か言いたいことでも?」
「いえ」
フレイムは短く答えた。
上官へ余計なことを言うべきではない。
それが帝国騎士の常識だった。
◇
リグナへ到着したフレイムは、まず違和感を覚えた。
反乱都市のはずなのに、街は静かだった。
略奪の痕も、焼け跡もない。
広場では子供たちが遊び、炊き出しまで行われている。
「……妙だな」
「何がだ?」
背後から声がした。
振り向いた瞬間、銀色の短剣が喉元へ突きつけられる。
黒い外套を纏った男。
灰色の瞳。
こいつが――灰狼ゼノ。
「帝国の英雄が、ずいぶん不用心だ」
「俺を殺さないのか?」
「殺したところで意味がない」
ゼノは肩をすくめた。
「お前ら帝国騎士は、俺たちを蛮族だと思ってるだろう?」
「違うのか」
「なら見ていけ」
ゼノは街を指差した。
「帝国は税を三倍にした。払えなければ食料を没収。逆らえば見せしめ処刑。俺たちは生きるために武器を取っただけだ」
「……」
「帝国は秩序を語る。だが実際は、民を食い潰してるだけだ」
フレイムは反論できなかった。
なぜなら、途中で見てきた村々が、その言葉を裏付けていたからだ。
痩せ細った農民。
徴兵で息子を失った母親。
魔鉱採掘で崩れた山。
帝都では見えなかった現実が、そこにあった。
「お前ほどの力が、なぜ帝国なんかに従う?」
ゼノの問いに、フレイムは答えられなかった。
◇
その夜。
帝国軍は予定通り進軍した。
指揮官はフレイム。
だが彼は、命令を下せずにいた。
「閣下、攻撃命令を!」
副官が焦った声を上げる。
城壁の向こうには、武器を持つ市民たちがいた。
老人も。
女も。
子供さえいる。
帝国軍は最新鋭の魔導砲を構えている。
撃てば終わる。
街ごと。
「……降伏勧告を出せ」
「しかし!」
「聞こえなかったか」
低い声に、副官は黙った。
数分後、返答が来る。
『拒否する』
短い返答だった。
そして次の瞬間、帝国本軍から通信が入る。
『フレイム上位騎士。即時殲滅を実行せよ』
ギルベルトの声だった。
『反乱分子に慈悲は不要だ』
フレイムは拳を握り締めた。
城壁の上に、小さな少女が見えた。
まだ十歳ほどだ。
震えながら、それでも必死に石を抱えている。
帝国軍へ投げるために。
あんな子供まで戦わせているのか。
……違う。
戦わせているのは帝国だ。
『命令を実行しろ、フレイム』
「……もし拒否したら?」
通信が沈黙した。
『反逆と見なす』
「そうか」
フレイムは静かに目を閉じる。
そして。
剣を抜いた。
だが切っ先は、城壁ではなく――背後の帝国軍へ向けられていた。
「なっ……!?」
「全軍、武装解除しろ」
ざわめきが広がる。
「俺はもう、この命令には従わない」
「正気ですか!?」
「正気だ」
フレイムの身体から、灼熱の魔力が噴き上がった。
紅蓮が夜空を染める。
「俺は今まで、“秩序”を守ってるつもりだった」
だが違った。
守っていたのは、ただの支配だ。
「子供を殺し、民を飢えさせ、それでも国家のためと言い張る。そんなものは秩序じゃない」
彼は剣を掲げる。
「これは暴力だ」
帝国兵たちが後退した。
誰も逆らえない。
目の前にいるのは、一騎で軍勢を焼き払える怪物なのだから。
「道を開けろ」
フレイムは歩き出した。
帝国軍の中を。
誰も止められなかった。
◇
城門が開く。
ゼノは驚いた顔で彼を見た。
「……お前」
「勘違いするな」
フレイムはぶっきらぼうに言う。
「俺は正義の味方になる気はない」
「じゃあ何だ?」
「気に食わないだけだ」
帝国のやり方が。
自分自身が。
何も見ようとしてこなかったことが。
「だから、お前たちに力を貸す」
ゼノは数秒黙り込んだあと、ふっと笑った。
「帝国最強の騎士が寝返るとはな」
「最強かどうかは知らん」
「いや、最強だよ」
ゼノは手を差し出した。
「歓迎する、フレイム」
フレイムは少し迷い、そしてその手を握った。
◇
その日を境に、大陸は揺れた。
帝国最強の騎士が反乱軍へ加わった。
その事実は瞬く間に広がり、各地で蜂起が始まる。
帝国は激怒した。
裏切り者フレイム・アルヴァレス。
討伐優先度、第一級。
かつて英雄と称えられた男は、一夜にして国家最大の敵となった。
だが。
帝都を遠く眺めながら、フレイムは不思議と後悔していなかった。
「戻る気はあるか?」
隣でゼノが聞く。
「ないな」
「全部敵になるぞ」
「今さらだ」
フレイムは笑った。
初めて、肩の荷が下りた気がした。
帝国の剣ではなく。
誰かに命じられる兵器でもなく。
自分自身の意思で立っている。
それだけで十分だった。
遠くで、帝国軍の飛空戦艦が夜空を横切る。
新たな戦いが始まる。
きっと血は流れるだろう。
簡単に世界は変わらない。
それでも。
「行くぞ、ゼノ」
「ああ」
フレイムは剣を握る。
今度は誰かを支配するためではない。
この腐った世界を、焼き尽くすために。




