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下を向いて歩く

作者: 鯰川 由良
掲載日:2026/03/16

 家路に就いていると、コンクリートが小さな黒点をつくりはじめ、雨雲の到来を知らせた。


 俯きながら歩いていた私は、おそらく真っ先にそれを察知した。

 折りたたみ傘をかばんから取り出し、開く。微かに軋む音と感触がして、それは危うげに広がった。雨粒が傘生地をはじく振動が、金属の骨組みを通して手のひらに伝わってくる。私は、雨傘を深く被るようにして歩いた。

  


 ──私はいつも下を向いて歩いた。それは、他人の視線を浴びないようにするためだった。他者から発せられる眼差しが私という存在にスポットライトを当て、その存在の歪さを晒し上げるように感じられたのだ。


 やがて、周囲も空から降ってくる雨粒の存在に気づき始めたようで、あちこちから傘をひらく音が聞こえてきた。通りすがる人々からは、雨を嘆く声がぽつりぽつりと呟かれる。気づけばあたりは雨に関連する音でいっぱいになった。


 無数の水滴が私のスニーカーに跳ねている。コンクリートのひびの隙間に溜まった水が照明に反射して、ギラギラと光っている。水を含んだたばこの吸い殻が、マンホールの上で潰れている。土埃のついたペットボトルは、その表面に奇妙なまだら模様を作り出している。

 

 足首に貼りつたズボンの裾が冷たい。私は家路を急いだ。

 自動販売機で日課の缶コーヒーでも買ってから、部屋にもどったら、まず真っ先に服を着替えよう。



 そのとき、目の前にふわりと、小さなピンク色があらわれた。

 見るに、それはハンカチだった。ふわふわと天使のように地上に降り立ったそれは小さな水たまりに着地し、今にも茶色に濁った水をその身体に吸い込もうとしていた。

 私は反射的に駆けより、空いていた手でそれを拾い上げた。幸いにも、汚れはそこまで酷くなさそうだ。私はほっと息をつく。

 しかし、そう安堵したのも束の間、すぐに私は後悔の念に襲われた。すなわち、このハンカチは私の前を歩く誰かの落とし物に違いなかったが、それを持ち主に渡すという行為は、他人の視線のもとに自ら飛び込んでいくことを意味する。私は頭を抱えた。


 いっそのこと何も見なかったことにして、もう一度道ばたに棄ててしまおうか。それを棄てるという選択肢を取ったとして、ハンカチが落ちてそれに誰も気がつかなかったという一つの可能性に合流するだけだ。私が拾ったこと自体が特異だったと考えればよい。


 しかし私はふと、俯いた視線の先、すぐ前方に可愛らしい小さな靴が、あどけない足取りで歩いているのを見つけた。

 私は深く被っていた傘の前面を押し上げ、小さく視線を上げた。すると前方に、身体をすっぽりと覆ってしまうほどの大きさの傘と、その奥で揺れている桃色のランドセルが見えた。小学校低学年くらいだろうか。私の脳内に、この幼い少女がハンカチを無くしたことに気がついて酷く悲しむ様子が浮かび上がった。そして、それはあってはならないことだと思った。


 私は意を決してハンカチを握りしめ、少女に近づいていく。

 怖がらせないように、なるべく温和な優しい声で。


「──これ、落としたよ」

 いざ私から出た声は、変に優しさを繕った、掠れた声だった。私は後悔した。私という存在の持つ歪さが、この場面においても現れてしまったのだ。

 声をかけられた少女が、はっとこちらを振り返る。少女は背筋をピンと伸ばしていて、その大きな目はこちらの目をじっと窺っている。

 それから、少しばかりの間があった。私にはそれがあまりに長く感じられた。


「ありがとうございます! 」

 するとどうだろう、少女はにこやかな表情で、よく通る大きな声でそう言った。

 私の葛藤など、なにも知らない様子で、そう言ったのだ。


 私からハンカチを受け取った少女は、それを服にぶらさげていた移動ポケットのなかに大事そうにしまうと、ふたたび歩き出して、先ほどと変わらない足取りですぐ先の角をまがっていった。


 私はその背中を、呆然と見ていた。そして、そのあっけなさに思わず笑ってしまった。



 ──いつの間にか、遠くの空で雲の切れ間ができていて、そこから日の光が薄らと漏れ出している。


 私はいつも利用している自宅近くの自動販売機の前で立ち止まった。それから少し迷って、その自販機を通り過ぎてみることにした。

 その足で私は少し先のコンビニエンスストアに向かい、レジカウンターでコンビニブレンドのホットコーヒーを注文してみた。カップの口に息を吹きかけると、立ち上る湯気が光にあたって煌めいてみえた。


 コーヒーは、美味しかった。

ご覧頂きありがとうございます。

下を向いて歩く話でした。

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