表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
50/51

一坪の別れ支度

店というものは、不思議な場所です。


商品を並べ、売上を計算し、利益を追いかける。

表面だけを見れば、そこはただの商売の場所にすぎません。


けれど、長い時間を過ごしていると、

その場所はいつの間にか、人を育てる「学びの場」へと変わっていきます。


誰かが叱られ、誰かが失敗し、

誰かが初めて自分の役割を見つける。


そうして気づけば、そこには

学校とは違う、もう一つの「教室」が生まれているのです。


緑風園にとって、この一坪の店もまた、

そんな場所でした。


この章は、その小さな教室に捧げる、

まだ始まっていない卒業式の物語です。

百貨店への移転準備が、静かに進んでいた。

この店での営業も、残りわずかとなっている。


ある夜。

閉店作業を終えた店内に、聞き慣れない旋律が流れた。


事務作業をしていた雪乃が、ふと顔を上げる。


カウンターの隅で、はるかが竹の笛を構えていた。

凛から贈られた、あの笛だ。


流れている旋律は、どこか懐かしい。


「……はるか、その曲」


雪乃がゆっくり近づく。


「『仰げば尊し』?」


はるかは笛を置き、少し照れたように笑った。


「分かっちゃった?」


「ええ。よく知られた曲だもの」


雪乃は静かに続けた。


「でも……どうして、今?」


はるかは、竹の照明に照らされた古いカウンターを、そっと撫でた。


「ねえ雪乃。私、思ったの」


少し言葉を探してから、続ける。


「大学でも、たくさん授業を受けたよね。でも……」


はるかは店内を見渡した。


狭い通路。

古い棚。

一坪の小さな店。


「一番大事なことを教えてくれたのは、このお店だった気がする」


はるかは、少し背筋を伸ばした。


「ここは、私たちの先生だったんだと思う」


時には厳しく。

時には、思いがけない形で背中を押してくれる。


そんな先生。


雪乃は、しばらく言葉を失っていた。


自分たちが分析してきた数字。

組み立ててきた戦略。


そのすべての実験場が、ここだった。


スーパーの片隅の、たった一坪の店。


「だからね」


はるかが、静かに言った。


「お礼を言いたいの」


「この曲を吹いて、私たちはここを卒業する」


その言葉が、夜の店に静かに広がった。


「……それなら」


背後から声がした。


振り向くと、こなつとかえでが立っていた。


こなつの手には、あの安っぽいプラスチックのリコーダーが握られている。


「はるかだけじゃ、ずるいよ」


こなつが少し鼻をすする。


「私たちだって、この店に育ててもらったんだから」


かえでも、静かにうなずいた。


「四人で吹きましょう」


「この店に、ありがとうって言うために」


雪乃は眼鏡を押し上げ、少しだけ微笑んだ。


「……そうね」


「四人の方が、きっときれいに響くわ」


四人はカウンターの前に並んだ。


竹の笛。

そして三本のリコーダー。


小さく息を合わせる。


静かな店内に、やがて旋律が重なっていく。


そのときだった。


店の奥で、かすかな物音がした。


振り向くと、店長が立っていた。


閉店後の見回りに戻ってきたのだろう。

入り口の影の中で、じっと四人を見ていた。


「……店長」


はるかが驚いたように声をかける。


店長は少し照れたように頭をかきながら言った。


「いや……続けて」


「いい音だ」


四人は顔を見合わせる。


そしてもう一度、息を合わせた。


『仰げば尊し』


その旋律が、一坪の店の中に静かに満ちていく。


竹の光。

茶葉の残り香。

長く働いてきた木のカウンター。


そのすべてが、まるで音に耳を澄ませているようだった。


演奏が終わったあと。


店長はしばらく何も言わなかった。


やがて、ゆっくりと口を開いた。


「……そうか」


「卒業か」


少し間を置いて、静かに続ける。


「いい店になるよ」


それだけだった。


けれど、その一言で十分だった。


一坪の店の中に、


小さな卒業式の準備が、静かに始まっていた。


外では、冬の風が静かに通り過ぎていった。


作中ではるかが吹く曲は、日本人にとってとても馴染みの深い歌、

**「仰げば尊し」**です。


明治時代に広まったこの歌は、長いあいだ日本の卒業式で歌われてきました。

その歌詞は、学び舎と師への感謝を静かに語るものです。


今では卒業式で歌われる機会も少なくなりましたが、

この歌が持つ意味は、とても普遍的なものだと思います。


人は、どこかで誰かに教えられ、

そして気づかぬうちに、何かを受け取っています。


それは学校だけではなく、

職場や、街の小さな店、

あるいは人生の途中で出会った場所かもしれません。


はるかたちにとって、

緑風園の一坪の店は、まさにそのような場所でした。


この夜の演奏は、まだ本当の別れではありません。

けれど、彼女たちはすでに、

この場所から多くのものを受け取っていることに気づき始めています。


その気づきこそが、

次の季節へ進むための、小さな卒業なのかもしれません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ