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テラ・アロマ・ヘリテージの夜

冬の夜は、思考を深くする。


外の空気が冷えるほど、

人は温かな場所を求めて集まり、

そして、言葉を交わす。


緑風園の小さな物語は、

竹の笛の音や、茶の香りのように、

静かな広がりを見せてきた。


けれど、物語が広がるとき、

必ず次に訪れるのは「現実」である。


場所は、一条常務の旗艦店

『テラ・アロマ・ヘリテージ』。


贅沢な空間の中で、

はるかたちは初めて「経営」という言葉の重さと向き合う。


夢だけでは、店は続かない。


だが、数字だけでも、店は生きない。


この章は、

その二つのあいだにある「答え」を探す夜の記録である。


一条常務の旗艦店

『テラ・アロマ・ヘリテージ』。


磨き抜かれた大理石。

低く抑えられた照明。

空気の奥に、ほのかに漂う精油の香り。


スーパーの片隅にある緑風園とは、

あまりにも違う「贅」の空間だった。


はるかたちは、少し緊張した面持ちでテーブルに座っている。


藤原が静かな所作で、四人の前にコーヒーを置いた。

深い香りがゆっくりと立ち上る。


その背後から、一条常務と秘書の冴島が現れ、同じテーブルに着席した。


一条はすぐに言った。


「デパートへの移転」


短く区切る。


「成功に見えるが、実際は茨の道だ」


はるかたちの顔を一人ずつ見る。


「売上の二〜三割は百貨店の手数料として消える。」


冴島が静かにメモを取る。


一条は続けた。


「そこから原価、人件費、包装費、在庫リスク」


「すべて払う」


「普通の茶屋は、まず利益が残らない」


テーブルに静かな沈黙が落ちる。


その沈黙を破ったのは、雪乃だった。


「常務」


ノートを閉じる。


「確認させてください」


一条が視線を向ける。


雪乃は冷静に言った。


「仮に売上が一日十万円だった場合」


「百貨店手数料が三割なら三万円」


「残り七万円」


指で計算を示す。


「ここから原価が四割なら四万円」


「残り三万円」


「そこから人件費と固定費を払うと」


少し間を置く。


「通常の茶屋モデルでは成立しません。」


こなつが思わず小さく息を呑んだ。


雪乃は続ける。


「つまり百貨店で生き残る店は」


「ほぼ例外なく」


ゆっくり言った。


「贈答品ビジネスです。」


冴島のペンが止まる。


一条の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。


「……その通りだ」


コーヒーカップを回す。


「だから多くの店は」


「高級箱」


「季節ギフト」


「限定商品」


「そういうもので利益を作る」


そして言った。


「では」


視線をはるかに向ける。


「お前たちはどうする」


はるかは膝の上で拳を握り、ゆっくり顔を上げた。


「私たちは」


一度呼吸を置く。


「三つの回廊の店にします。」


一条の眉がわずかに動く。



三つの回廊


「まず」


「Corridors of Light(光の回廊)」


はるかは続けた。


「凜さんの竹細工のライトを、店内に配置します」


「デパートの明るい売り場の中に」


「そこだけ光が柔らかく落ちる空間を作るんです」


一条が小さく頷く。


「……光の演出か」


「次に」


「Corridors of Sound(音の回廊)」


「竹の笛の音です」


「生演奏ができない時間でも」


「音が空間を守るように」


こなつが頷く。


「最後が」


「Corridors of Aroma(香りの回廊)」


「茶香炉が難しくても」


「お茶の香りで空間を作れます」


その時、藤原が微笑んだ。


「いいわね」


コーヒーを口に運ぶ。


「百貨店の喧騒の中に」


静かに言う。


「時が止まる場所を作るのね。」



贈答品の再定義


冴島が尋ねた。


「商品は?」


かえでがノートを開く。


「ティーバッグを中心にします」


「でも普通のティーバッグじゃありません」


ページを見せる。


「桜や竹のエンブレムを箔押ししたパッケージ」


「お客様が一つずつ選び」


「竹の箱に詰める」


こなつが笑う。


「バイキング形式です!」


雪乃が補足する。


「単価を上げ」


「高付加価値モデルに転換します」


「百貨店手数料を引いても利益が残る設計です」



常務の一言


一条はしばらく黙っていた。


そして言った。


「雪乃」


視線を向ける。


「一つ覚えておけ」


短く言う。


「店を売るな」


少し間。


「空間を売れ。」


テーブルに静かな衝撃が落ちた。



冴島の観測


そのやり取りを、冴島は少し離れた場所から静かに見ていた。


常務のこういう表情を、彼はよく知っている。


数字を語りながらも、どこか楽しんでいる顔だ。


ふと、冴島は思った。


——この子たちは、もうただの学生ではない。


百貨店の手数料。

原価率。

利益構造。


それを当然のように議論している。


しかも、恐れずに。


冴島はノートを閉じた。


そして小さく息を吐く。


——なるほど。


常務が、この四人に時間を使う理由が、少しわかった気がした。


彼らは今、

店を運営する側の思考に足を踏み入れている。


そして冴島は、もう一つ気づいていた。


この議論の中心にいるのは、

はるかでも、雪乃でもない。


テーブルの端で静かにコーヒーを飲んでいる、

藤原という女性だ。


彼女がそこにいるだけで、

この場の空気は、奇妙なほど落ち着いている。


——空間を売る。


常務の言葉を、冴島は頭の中で反芻した。


もしかすると。


この店が本当に売ろうとしているのは、

茶葉でも、光でも、香りでもない。


人なのかもしれない。


店というものは、不思議な存在です。


茶葉を売っているようで、

本当は茶葉だけを売っているわけではありません。


人が店に求めているのは、

ときに香りであり、

ときに静かな時間であり、

ときに誰かとの会話だったりします。


この章で一条常務が語った

「店を売るな。空間を売れ」という言葉は、

実は多くの商売に共通する考え方でもあります。


現代の経営学では、

これを「体験価値」や「ブランド」と呼びます。


商品そのものよりも、

その商品が置かれている時間や物語を含めて、

人は価値を感じるのです。


しかし同時に、

店は現実の場所でもあります。


百貨店の手数料、

原価、

人件費。


夢と数字の両方を見なければ、

店は続きません。


だからこそ、

この夜の議論は、

はるかたちが一歩だけ大人に近づいた瞬間でもありました。


物語の中で語られた

「三つの回廊」


香り


それらは単なる演出ではなく、

人が自分自身を取り戻すための

小さな通り道なのかもしれません。


そして回廊というものは、

歩く人によって見える景色が変わります。


この物語を読んでくださった皆さんが、

もしどこかで静かな時間を見つけたなら、

それはきっと、

自分だけの回廊を歩いている瞬間なのでしょう。

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