表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
46/51

竹の笛、冬の灯り

夜の店には、昼間とは違う時間が流れます。


人の声が消えたあと、残るのは香りや光、そしてほんのわずかな音だけです。

その静かな時間の中で、ふとした出来事が思いがけない形で広がっていくことがあります。


この回で登場する竹の笛も、そんな小さな出来事の一つでした。

誰かが何気なく吹いた音が、記憶や物語を呼び覚まし、やがて遠くまで届いていく。


昔の人は、蛍の光や雪明かりで本を読みながら学んだと言います。

大きな灯りではなく、ほんの小さな光でも、人は前へ進むことができる。


この小さな店で灯った竹の音も、

そんな静かな光の一つなのかもしれません。


どうぞ、冬の夜の静けさを想像しながら読んでいただければ嬉しいです。

冬の夜の底。


スーパーの通路はすでに静まりかえり、

空気だけがゆっくりと沈んでいた。


緑風園の灯りは、まだ消えていない。


竹の照明が、店の壁に琥珀色の影を落としている。


最後のお客様が店を出て、

売り場から人影が消えた頃だった。


「……吹いてみてもいい?」


はるかが、大切そうに抱えていた竹の笛を取り出した。


店内の灯りを少し落とす。

竹の照明の影だけが、静かに揺れている。


はるかは、ゆっくりと息を吸い込んだ。


やがて、音が流れ始めた。


誰もがどこかで耳にしたことのある旋律——

『蛍の光』だった。


けれど、その音は学校のチャイムや、

古いレコードで聴くものとはまるで違っていた。


竹の空洞を通り抜けた息は、

切なくなるほど透明で、

それでいてどこか遠い記憶を呼び覚ますような温かさを持っていた。


遠い国の旋律が、

日本の竹を通り抜け、

今、この小さな店の夜に流れている。


「……すごい」


かえではカウンターの下で小さく息を呑んだ。


思わずスマートフォンを取り出す。

反射的に録画ボタンを押した。


ファインダー越しに見るはるかは、

竹の影と一体になり、

まるでこの古い店に宿る精霊のようだった。


笛の音は静かに店の天井へ溶けていく。


その音を聞きながら、

かえではふと思った。


蛍の光。

雪の光。


昔の人は、そんな小さな灯りで本を読み、学んだという。


——螢雪の功。


その言葉が、胸の奥に静かに浮かんだ。



「螢雪」の物語


その夜。


かえでは動画を編集し、静かな期待とともにSNSに投稿した。


この曲は「蛍の光」という歌です。


中国には「螢雪の功」という言葉があります。

蛍の光と、窓に積もった雪の明かりで苦学した人々の物語。


今、私たちの店にも

小さな竹の音が灯りました。


『クォ・ヴァディス』を愛読するかえでらしい、

物語を添えた投稿だった。


翌朝。


スマートフォンの通知が、静かに増え始めた。


「この音、心が洗われる……」


「懐かしいのに、初めて聴いた気がする」


最初は数十回だった再生数は、

やがて数百へと伸びていった。


デジタルの画面を通じて流れるその音は、

都会の喧騒に疲れた人々の「心の空洞」に、

静かに入り込んでいったのだ。



画面を越えて、店へ


一週間が過ぎた頃。


店には

「動画を見て来ました」

という客が、少しずつ現れ始めた。


大きなヘッドフォンを首にかけた大学生。

仕事帰りの会社員。


「あの……あの笛の音が聴けるのは、ここですか?」


彼らは、はるかの笛を、

そして竹細工の茶筒を静かに見つめていった。


お茶を一口飲む。


店内に漂う竹の気配に触れる。


すると、強張っていた表情が

雪解けのようにふっと緩む。


「……はるか」


かえでが小さく笑った。


「私たちの『冬のお茶屋物語』、

本当の物語になり始めてるね」


店長も驚きながら、

新しい茶葉を丁寧に用意している。


一坪の小さな店。


けれど今、その空間には確かに

静かな灯りがともり始めていた。


けれど、その灯りは

もうこの一坪の中だけに収まる気配ではなかった。



遠く離れた一条常務の店で、

藤原もまたその動画を見ていた。


竹の笛の音に耳を澄まし、

小さく微笑む。


この小さな店に灯り始めたものが、

やがてどこまで届くのか。


それを、少し楽しみにしているようだった。


そのとき、遠い夜のどこかで、

竹の音がもう一度だけ静かに鳴った。



この回では、竹の笛の音がSNSを通じて広がっていく様子が描かれました。


現代では、音や映像は簡単に世界へ届きます。

しかし人の心に残るものは、必ずしも派手なものとは限りません。


むしろ、静かな音や小さな出来事の方が、

誰かの記憶に深く入り込むことがあります。


竹の笛は空洞です。

その空洞を息が通り抜けることで音が生まれます。


人の心も、少し似ているのかもしれません。

忙しさや不安で満たされているときよりも、

どこかに余白があるときの方が、

誰かの言葉や音が、静かに入り込んできます。


SNSで広がったのは、単なる動画ではなく、

その音が持っていた「静けさ」だったのだと思います。


小さな店に灯った竹の音は、

やがてどこまで届くのでしょうか。


それはまだ誰にも分かりません。


ただ、静かな音ほど、

案外遠くまで響くものなのかもしれません。


もし機会があれば、皆さんも

少しだけ夜を静かにして、何かの音に耳を澄ませてみてください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ