透明な壁の向こう側
人は、強い光に目を奪われる。
鮮やかな春。
燃えるような夏。
実りの秋。
けれど、その背後にあるものは、
たいてい語られない。
目立たず、名前も呼ばれず、
ただそこに在るもの。
この章では、
境界線の向こう側で揺れた「もう一つの感情」を描く。
風が吹くとき、
誰がその空気を整えているのか。
少しだけ、視線を横にずらしてみてほしい。
タブレットを叩く指が、一瞬だけ止まる。
視線の先では、常務が、楽しげに、あるいは何かを測るように、はるかさんとかえでさんを見つめている。
あの横顔を、私はよく知っている。
常務と私は、同い年だ。
同じ年に社会へ出て、違う道を歩いた。
彼は帝王学の中で育ち、
私はコンサルティングファームで数字に揉まれた。
拡張。
再現性。
精度。
それが、私たちの共通言語だった。
若くしてグループの中枢に立った彼は、常に「次」を見ていた。
次の出店。
次の市場。
次の成長曲線。
硬く、速く、迷いなく。
今の柔らかなカシミア姿からは想像できないほど、張り詰めていた時期もある。
そんな折だった。
グループ傘下の、小さな——本当に小さなお茶屋が、SNSで話題になっているという報告が入ったのは。
営業部長に同行して現地を訪れたときの、常務の目を、私は忘れない。
リコーダーの音。
湯気。
不揃いな五家宝。
理論の外側で、何かが起きていた。
一坪の店で、起きるはずのない熱狂。
世界中から観光客が押し寄せ、
行列がスーパーの中を埋め尽くし、
ついには販売自粛。
あれは敗北ではなかった。
境界線を引いたのだ。
守るために。
常務は、その彼女たちをこの旗艦店へ呼んだ。
境界線の向こう側を見せるために。
そして、先ほど。
かえでさんが「ボトルキープ」と言ったとき。
私は反射的に否定しかけた。
常務が、鮮度と最高点に徹底的にこだわる人だと知っているからだ。
完璧な瞬間を提供する。
それが、この店の矜持。
だが——
常務は笑った。
あの笑い方を、私は知っている。
何かを見つけたときの顔。
ほんのわずかに目尻が下がり、
呼吸が浅くなる。
それを見るたびに、私は安堵する。
ああ、まだ彼は、前を見ている、と。
彼女たちは、城壁を壊そうとはしない。
ただ、その向こう側に別の道があると示す。
ロジックではなく、
「寂しさ」に気づく力で。
私は、そっと視線を落とす。
羨ましい、とは言わない。
だが、胸の奥がわずかに熱を持つ。
私は常に、常務の隣で数字を整えてきた。
彼が迷わないように。
彼が立ち止まらないように。
——彼が、倒れないように。
その距離を、崩すつもりはない。
崩してはいけない。
けれど。
彼が誰かの言葉に心を動かす瞬間を、
私は、誰よりも近くで見ている。
それだけで、十分だと。
自分に言い聞かせてきた。
「……冴島君、試算を」
呼ばれて、私は顔を上げる。
一瞬だけ、視線が交わる。
ほんの一拍。
それから、いつもの距離に戻る。
「承知いたしました」
声は、落ち着いている。
指先も震えていない。
タブレットを開きながら、思う。
数字は、冷たい道具ではない。
設計次第で、季節を支える骨格にもなる。
常務の隣に立つには、感性だけでは足りない。
だが、数字だけでも足りない。
透明な壁は、まだある。
けれど——
その向こう側へ行く道筋を、私は描ける。
描けるはずだ。
そしてもし。
彼が春を見るのなら。
私は、彼が気づかない空気でいい。
完璧な瞬間は、美しい。
けれど物語は、
その瞬間を支える無数の見えない要素の上に成り立っている。
選ばれる者がいる。
見つめられる者がいる。
そして、
気づかれなくても立ち続ける者もいる。
それは敗北ではない。
消失でもない。
役割を知った者の、静かな強さだ。
季節は巡る。
風が春を選ぶとき、
その呼吸を整えているものがあることを、
どうか忘れないでほしい。




