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値札の向こう側

価格は、ただの数字ではない。

そこには、空間、時間、設計思想、そして誇りが含まれている。


この回で彼女たちは、「高い」という感情の奥にあるものと向き合う。

それは、憧れか。

それとも、違和感か。


一杯のコーヒーが、境界線を示す。


ガラス張りのモダンな外装に反して、重厚な扉の向こうには、深い琥珀色の木材とステンドグラスが織りなす大正ロマンの世界が広がっていた。


「テラ・アロマ・ヘリテージ」


二度目の訪問だが、研修生として足を踏み入れると、その空気の密度がまるで違う。


「待っていたよ」


奥から歩いてきたのは、常務だった。


今日はいつもの隙のないスーツではない。上質なカシミアのニットにスラックス。力の抜けた装いなのに、不思議と視線を引き寄せる。


「今日はまず、客としてこの店を知ってほしい。注文は自由だ。代金は気にしなくていい」


手渡されたメニューには、産地や精選方法が細かく並んでいる。


「……種類が多すぎて、わかりません」


はるかが正直に言うと、常務は小さく笑った。


「では、僕が淹れよう」


冴島の眉が、わずかに動く。


「……常務が、ですか?」


その声は平静を装っているが、ほんの少しだけ熱を帯びている。


常務は何も言わず、ドリッパーの前に立った。


背筋が伸びる。


細い湯の筋が、円を描く。


湯気がゆらぐ。


空気が、ぴんと張る。


その姿を、冴島は無言で見つめていた。

いつもの補佐役の視線ではない。

どこか誇らしげで、そして少しだけ柔らかい。


かえでは無意識にスマホを取り出す。


光と影のバランス。

琥珀色の液体。

横顔に落ちるステンドグラスの色。


構図は完璧だった。


「……」


シャッターに触れかけた指が止まる。


ほんの一瞬。


それから、ゆっくりとスマホを下ろした。


胸の前で、両手に収める。


「今日は、撮らない」


小さな声。


はるかが振り向く。


「なんで?」


かえではカップの縁から立ちのぼる香りを吸い込み、目を閉じた。


「……今は、目で見たい」


その横で、常務がカップを差し出す。


「……お待たせ」


冴島は両手で受け取る。


「……ありがとうございます」


一口。


目が閉じる。


すぐに開く。


何も言わない。


だが、ほんの一瞬、表情がほどけた。


はるかも口に含む。


「……!」


澄んでいる。

苦くない。

静かだ。


「美味しい……」


思わず漏れる。


メニューに目を落とす。


「……1200円……?」


声が小さく震える。


常務は穏やかに問う。


「高いかい?」


はるかはもう一口飲む。


さっきより甘い。


「……まだ、わかりません」


冴島が静かに言う。


「値段は、場所と時間を含みます」


常務は何も付け足さない。


湯気が、ゆっくり消えていく。


そのとき、白い皿が運ばれてきた。


艶のあるチョコレートケーキ。

薄くかかったグラサージュが、照明を柔らかく映す。

断面は、整然と重なったムースとビスキュイ。


「こちらも、この店の顔だ」


はるかはフォークを入れる。


すっと沈む。


一口。


「……すごい」


濃厚なのに、重くない。

甘さが舌に残らない。

コーヒーの余韻とぴたりと重なる。


「ずっと食べていたいです」


素直な声だった。


かえでも一口食べる。


「……おいしい」


確かに美味しい。


計算され尽くしている。


だが、皿を見つめたまま、少し黙る。


「どうかした?」


はるかが聞く。


「ううん。ちゃんと美味しい」


フォークを置く。


「でもね」


断面を見つめる。


「ここまで完成してると、わたし、どこに入り込めばいいのか、ちょっと考えちゃう」


はるかが首を傾げる。


「入り込む?」


「うん。感動はする。でも、もう完成形なんだよね」


少しだけ笑う。


「緑風園の五家宝は、ちょっと不揃いで。羊羹も、季節で味が揺れる」


視線が、遠くを見る。


「だから、わたしたちが関われる余白がある」


沈黙。


常務は何も言わない。


ただ静かに二人を見ている。


ふと、はるかの視線が店内を巡る。


深い木のカウンター。

アンティークのカップ。

柔らかく流れる音楽。


そして出口近くの一角。


黒と金を基調にした棚に、ロゴ入りのカップやタンブラー、豆缶、ドリッパーが整然と並んでいる。


若い女性がタンブラーを選び、少し誇らしげにレジへ向かう。


「……あれも、売れるんですか?」


はるかが小さく尋ねる。


冴島が答える。


「ドリンクより利益率は高いですよ」


さらりと。


「一杯で終わらせない。それが文化を持続させる方法です」


常務は微笑むだけだ。


ガラスの向こうで、客がロゴ入りカップを掲げて写真を撮っている。


持ち帰られるのは、味だけではない。


はるかは、その光景を見つめた。


胸の奥に、憧れと、ほんの少しの違和感が同時に芽を出す。


かえでが、そっと言う。


「……ここ、コーヒーを売ってるんじゃないね」


「え?」


「持ち帰れる物語を売ってる」


はるかは、もう一度棚を見る。


湯気は消え、カップは静かに冷めていく。


だが、胸の奥には、まだ何かが残っていた。


それが何かは、まだ、はっきりしない。


完成されたものは、美しい。

だが、美しさにはときに、入り込む余白がない。


緑風園はまだ揺れる。

未完成で、不揃いで、季節に左右される。


だからこそ、そこには関われる隙間がある。


1200円のコーヒーは、価値の象徴だった。

けれど、彼女たちが探しているのは、

価格を超えて、誰かの季節に入り込める“何か”なのかもしれない。


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