九話:教科書を閉じて、ペンを握る
売れればいい、と思っていたわけではありません。
でも、「売れるかどうか」ばかりを見ていたのは事実です。
誰かの生活の中に入っていくということ。
それは、味や価格だけでは足りない。
今回は、少しだけ立ち止まる回です。
アパートに帰ると、部屋の中はまだ昼の熱を少し残していた。
カーテンを閉めたままの室内は薄暗く、
台所の蛇口から落ちる水滴の音だけがやけに響く。
カバンを床に置くと、『経営学入門』が滑り落ちた。
表紙が少し折れている。
私はそれを拾い上げ、畳の上に座り込んだ。
今日、足りなかったのは知識じゃない。
想像力だった。
机の上に、返品された五家宝の袋を置く。
きな粉が、まだわずかに袋の口に残っている。
指でそっと押すと、接合部がふにゃりと歪んだ。
窓の外では、子どもが自転車を走らせる音がする。
誰かの日常は、普通に続いている。
「……売るって、ここまで考えることなんだ」
私はノートを開いた。
難しい言葉はいらない。
まずは、起きたことを書く。
・袋が裂けた
・持ち帰り途中で破れた
・バッグを汚した
事実は、静かだ。
でも重い。
部屋の電気をつける。
蛍光灯の白い光が、机の上のきな粉をはっきりと浮かび上がらせる。
「お店の人に強くしてもらう?」
頭に浮かぶ。
すぐに消える。
あのおじいさんが、ゆっくりと菓子を包んでいた手つき。
あの店の小さな作業台。
責めることはできない。
だったら、守ればいい。
私は書き出した。
1.店舗側で二重包装する
2.陳列前に強度を確認する
3.「手作りのため、優しく扱ってください」と一言添える
完璧じゃない。
でも、今できる。
机の上には、消しゴムのかすと、きな粉が混ざっている。
気づけば、窓の外が薄く青くなっていた。
遠くで始発電車の音がする。
教科書を閉じる。
今日は読む日じゃない。
考えたことを、形にする日だ。
翌朝。
スーパーのシャッターはまだ半分しか上がっていない。
冷たい朝の空気が、一坪の店先に流れ込む。
店長は、腕を組んだまま立っていた。
「……五家宝は下げたよ」
低い声。
私はノートを差し出す。
「次、やり方を変えたいです」
店長は黙って読む。
ページをめくる音だけが、静かな店内に響く。
しばらくして、顔を上げる。
「……考えたな」
その一言に、胸の奥の固いものが少し緩む。
スーパーの開店アナウンスが流れ始める。
昨日と同じ売り場。
でも、朝の光は昨日より少しだけ柔らかい。
私は深く息を吸った。
一袋の重みは、売上だけじゃない。
それを知ったから、
今度は、ちゃんと届けたいと思った。
この回で、はるかは転びました。
けれど、倒れたままではありません。
商売は、思い出や情熱だけでは続きません。
最後まで無事に届けて、ようやく一つの「商品」になります。
教科書の言葉は、読んでいるだけでは軽い。
けれど、誰かの鞄を汚した瞬間に、急に重くなる。
はるかは、まだ未熟です。
でも、未熟だと気づいた人間は、少しだけ強くなります。
次は、直す番です。




